十河和貴『帝国日本の政党政治構造』

 1924年加藤高明護憲三派内閣以降、政友会と憲政会(→民政党)が交互に政権を担当する「憲政の常道」と言われる状況が出現しますが、なぜ、このような体制が要請されたのでしょうか? そして、この政権交代の枠組みを運営したのは誰なのでしょうか?(明治憲法のもとでは議会での多数派が組閣を導くわけではない)

 

 また、護憲三派内閣以降の政党内閣の歴史は「政友会の堕落の歴史」のように語られることがあります。

 田中義一は鈴木喜三郎などのファッショ的な人物を政友会に取り込んで選挙干渉を行い、対外政策では幣原外交を捨てて対中政策で失敗し、その後の浜口内閣に対しては軍部と結託して統帥権干犯問題を持ち出し、五・一五事件のあとは鈴木喜三郎総裁への西園寺の不信感から政権が回ってこず、天皇機関説問題では右翼と組んで政党内閣を支えた理論にとどめを刺す、こんなイメージもあるのではないかと思います。

 なぜ、初の本格的政党内閣をつくった政友会は自ら政党内閣の寿命を縮めるような行為をしてしまったのでしょうか?

 

 こういった疑問とともに本書を読んでいくと、そこに浮かび上がってくるのは「明治憲法における各省の割拠的体制をいかにして統合していくのか」という問題です。

 

 本書はこの問題を中心にして、元老の再生産問題、護憲三派内閣の位置づけ、植民地統治と拓務省をめぐる問題、各省の割拠性を克服するための田中内閣、浜口内閣、第2時若槻内閣、犬養内閣の取り組み、さらに斎藤実内閣に対する政党のスタンスなどを見ていきます。

 個人的には田中義一内閣の性格付けと、斎藤実内閣がうまくいった要因と、うまくいったがゆえに政党内閣復活の機運がしぼんでいく部分などを特に興味深く読みました。

 この時代の政治についての知識がある程度ある人向けの本ではありますが、日本近現代史に興味がある人はもちろん、幅広く政治に興味がある人が読んでも面白いと思います。

 

 目次は以下の通り。

序 章 政党内閣制を権力統合の視座から問う意味
第Ⅰ部 「挙国一致」の変相としての「護憲三派体制」
第一章 大正後期の政局と宮中の台頭――松方正義牧野伸顕・平田東助を中心に
第二章 二大政党の権力統合構想と「護憲三派体制」の確立
補 論 植民地統治をめぐる相克――文官総督制下の台湾を中心に
第Ⅱ部 「護憲三派体制」における二大政党の統合構想とその限界
第三章 田中内閣の拓務省構想と外務省への挑戦――産業立国の射程
第四章 浜口内閣の政策体系と第二次若槻内閣の行政改革構想――制度的統合への帰結
第五章 犬養総裁期政友会の行政制度設計とその終着――「責任内閣政治」の隘路
終 章 二大政党の統合構想と「護憲三派体制」

 

 明治憲法国務大臣単独輔弼や天皇大権と結びついた多元的な権力機構は、専決的な権限を持つ首相(大宰相主義)と議会に対して連帯して責任を負うイギリス流の議院内閣制をともに排除していました。

 一方、天皇無答責の原則は天皇が実際に統合を担うことを許しておらず、体制運用のためには明文規定とは異なる何らかの統合主体が必要となっていました。

 当初、これを担ったのは藩閥勢力(元老)であり、つづいて政党がこれを担うことになります。

 

 美濃部達吉国務大臣天皇だけでなく議会に対しても政治上の責任を負うとして、その国務大臣の合議体である内閣(閣議)を最高意思決定機関とすることで、明治憲法体制の分権性を克服できると考えました。

 そして、この閣議の統一性のためには大臣が同一の政見をを持つ組織から組織されていることが必要で、ここから政党内閣制が要請されます。

 つまり、政党の結合力でもって官僚機構の統合を図ろうというわけです。

 しかし、結果としてみれば、日本では十分に官僚を「政党化」することはできず、政党内閣は各省の割拠性に悩まされ続けました。

 

 第1章では元老が消えていく中で、その役割を誰が担うのかという問題がとり上げられています。

 元老といえば思い出されるのは山縣有朋ですが、ここで注目されているのは松方正義です。松方は元老であり、1917年からは内大臣を務めていました。

 1921年、中村雄次郎宮内大臣宮中某重大事件の責任を取って辞職すると、松方は後任に牧野伸顕をつけます。牧野は松方と同じ薩派ですが、松方は牧野に「宮内の首脳」としての働きを期待していました。

 

 高橋是清から加藤友三郎に首相が交代する際、松方は宮内大臣の牧野も後継首相の決定に関与させ、山本権兵衛や清浦奎吾も巻き込む形で話を進めます。

 このときに山本や清浦と並び「準元老」とされていた平田東助が外されたこともあって、松方・牧野と西園寺公望・平田の対立構造があったとされていますが、本書では平田の考えも実は松方・牧野と近かったことを指摘しています。実際、平田は1922年に松方の推挙もあって内大臣になっています。

 

 松方には元老再生産の考えがあり、自分たちがいなくなったあとも元老的な存在が必要だと考えていました。そのために行われた人事が牧野宮相であり、平田内大臣だったと考えられます。彼らを宮中の要職につけることで後継首相の選定に関与させようとしたのです。

 

 本書は、内大臣秘書官長の入江貫一の残した史料などをもとにして平田の構想を探っています。

 平田は内大臣を廃止、あるいは存続させたうえで5人以内の内輔を設置するというもので、元老再生産の意向があったものと思われます。

 この構想は西園寺と牧野が難色を示したために立ち消えになりますが、著者はここからも松方と平田が同じような考えを持っていたとみています。

 

 その後、平田は病気で内大臣の職を退き、後任が問題になります。牧野は斎藤実を推しますが、西園寺は牧野の就任を求め、東郷平八郎の就任の可能性も示して、これを承諾させます。

 なぜ、牧野にとって東郷は駄目だったのか? 著者はこの問題を牧野が内大臣秘書官長に引き抜いた大塚常三郎を通じて読み解きます。

 

 大塚は長年、朝鮮総督府で働いていた人物で、原敬による朝鮮の「内地延長主義」に対抗した人物でもありました。原は政党内閣による権力一元化の一環として、朝鮮総督府にも政党勢力の進出させようとするわけですが、大塚はこうした政党勢力の浸透に対抗して「朝鮮議会」設置構想などを打ち出しています。

 この政党との距離感がポイントで、党派化が著しかった内地の地方官よりではなく党派化に抵抗していた植民地官僚の大塚がふさわしいと考えられた背景には、内大臣秘書官長も党派性があってはいけないという牧野の考えがあったと思われます。

 そして、牧野にとって東郷は政党勢力と適切な距離をもって判断できる人物だとはみなされていなかったとも考えられます。

 牧野は政党内閣を認めつつも、それと距離をとる宮中要職の能動化によって、安定した政治の運営を目指そうとしていたのです。

 

 第2章では護憲三派内閣の成立とその後の第二次加藤内閣への動きがとり上げられています。

 議院内閣制を否定する明治憲法のもとでは政党内閣にも何らかの「挙国一致」の要素を残そうとする動きが起こることになります。原敬内閣では政友会による一党支配体制が構築されて「挙国一致」的な雰囲気が出たのですが、その後に政党による「挙国一致」が実現したのが護憲三派内閣ということになります。

 

 政党内閣による政権交代が視野に入ってくると、政策の連続性を担保するための後藤新平の「大調査機関」といった構想が出てきます。この構想は単純に政策の統一性を保証するだけでなく、各省の割拠性を克服するものとしても注目を集めました。

 この構想は当時の高橋是清蔵相が消極姿勢を示したこともありが流れますが、代わりに高橋が打ち出したのは農商務省を農林・商工省に分割し、商工省に調査機関を置くというものでした。

 高橋は参謀本部や文部省の廃止といった急進的な政策も打ち出していくことになりますが、基本的には国務大臣の行う事務を効率化しつつ、国務大臣のリーダーシップによって各省の割拠性を克服していくことを考えていました。

 

 護憲三派加藤高明内閣では、農商務省の分離は実現しましたが、各省を横断した事務系統の統一的整理は行われませんでした。

 政友会は行政整理によって事務官僚の専管事務を削減し、それに対する反発を「政党化」によって乗り切る考えで、そのためには文官任用令の改正も必要だと考えていましたが、憲政会は行政官僚の自律性を担保しながら政党優位の政治体制の構築を目指す考えであり、官僚の「政党化」とは距離をとっていました。

 

 こうした憲政会のスタンスに同調するのが牧野らの宮中勢力になります。護憲三派内閣による過度な政党化はしないというスタンスは天皇・宮中からも支持され、これを逸脱しようとすればその動きは天皇・宮中から否定されることになります(後述するように田中義一内閣はこれに引っかかった)。

 これについて、著者は次のように述べています。

 この枠組みが、政党政治の崩壊を考えるうえでもきわめて重要なポイントになったことを強調するために、本書では「護憲三派体制」という概念を提起する。これは具体的には、政党内閣による責任内閣政治の遂行を基本的な理念としつつ、その統合手段として過度な「政党化」を用いないことを原則とする体制、と定義する。そして、これを調整する天皇・宮中によってそれは、憲政会の意図や政友会の妥協的意思から大きく乖離したものへと拡大していく。二大政党は、天皇・宮中の定める枠組みのなかでしか、「政党化」に基づく統合方針を取ることができなくなるのである。(131p)

 

 この天皇・宮中の意思を示すのが、田中義一内閣における台湾総督府の人事です。

 田中は朝鮮総督に自らと近い山梨半造、満鉄総裁には政友会切手の政策通である山本条太郎を、関東長官には政友会系の木下謙次郎を就任させるなど、植民地長官の「政党化」を進めました。

 しかし、小川平吉が「台湾は云々の事情あり、動かし難し」(145p)と書くように、天皇の意思によって台湾総督の人事は封じられていました。

 

 1927年6月の段階で、天皇は牧野を呼び寄せ、田中内閣の地方長官の大更迭、事務次官人事への介入に懸念を示していました。さらに上山満之進台湾総督について、憲政会系だからといって交代させようとする動きがあることについて具体名をあげて田中に対して釘を差しました。

 天皇は政友会の植民地の「政党化」を目指す動きを否定したのです。

 

 また、天皇は田中内閣が目指した文官任用令の改正についても難色を示し、これを受けて牧野も「天皇の意思」を示して田中内閣に対抗する姿勢を示しました。結局、田中内閣は文官任用令の改正を断念します。

 この植民地人事に対する昭和天皇の介入は浜口内閣でも行われ、朝鮮総督に文官の伊沢多喜男を就任させようとした人事に対して天皇・宮中はこの党派性の高い人事を嫌い、斎藤実の再登板に落ち着いています。

 

 第2章のあとの置かれた補論では台湾統治をめぐる問題が論じられています。原敬は「内地延長主義」を掲げて文官の田健治郎を就任させますが、原の「内地延長主義」+「政党化」に対して田は「政党化」については抵抗する姿勢を示しており、両者は連携しつつもその思惑は違ったといいます。

 さらにその後の台湾統治の問題も論じていますが、詳しくを本書をお読みください。

 

 第3章では田中義一内閣における拓務省の設置構想がとり上げられています。

 拓務省の設置は満蒙問題に対する田中内閣の積極姿勢の現れとして捉えられることが多いかもしれませんが、ここでは「政党化」されていなかった外務省への朝鮮という形で改めてこの拓務省の構想を検討しています。

 

 満州では、外務省の出先機関である奉天総領事館、満鉄、関東庁、関東軍、さらに朝鮮総督府が分立していました。

 政友会はこの問題を解決する方法として「政党化」を持ち出すわけですが、ここで「政党化」が難しかったのが高等文官試験で試験科目が独立するなど高度な専門性が求められ、党派的人事が及びにくい外務省でした。実際、原内閣でも外相は陸相海相とともに政友会の党員ではない内田康哉が就任しています。

 田中内閣はこうした外務省のあり方にくさびを打ち込もうとしたのです。

 

 田中内閣には朝鮮、台湾といった植民地と密接な関わりを持つ満蒙、シベリア、南洋地方へ進出しようとする構想がありましたが、外務省や領事はこうした動きに基本的には冷淡で、それも不満となっていました(シャム公使館から帰国した有田八郎は経済活動に冷淡な外務省の姿勢を批判している)。

 また、満州に関しても、在満朝鮮人問題の解決や経済的な進出に消極的な外務省に対する不満がありました(ただし、ここでも外務省の本省と満州駐在領事官の間にはその姿勢に違いがある)。

 

 そこで構想されたのが「拓殖省」です(「拓務省」として実現するが、当初の名前は拓殖省だった)。

 植民地や満州、南洋における機動的な経済開発を実現するためには領事館の機能を拡大するという方策もありますが、外務省という政党の力が及ばない組織の統制下にある領事の機能を高めることはさらなる割拠化をもたらすおそれがあります。

 そこで外務省を迂回して経済開発を行い、外務省の自律性を弱める狙いも持ったものが拓殖省の構想でした。

 

 基本的に田中外交は「失敗」の烙印を押されることが多いですし、著者もその拙劣さを認めていますが、自ら外相を兼任し、満鉄総裁の山本条太郎に張作霖との交渉を行わせるなど、田中には一貫して外務省の自立性を抑えて外交を展開しようとする意図がありました。

 そして、拓殖省の設立によって、本土と植民地と満蒙や南洋を含んだ一貫した政策を展開し、政友会の方針である「産業立国」を実現しようとしたのです。

 さらに朝鮮総督に任命した山梨半造に関しても、田中は山梨を閣議に出席させて朝鮮統治方針の指示を与えており、総督を首相に従属させ、朝鮮総督府の自立性を弱めようとしていました。

 

 しかし、田中内閣の拓殖省構想は頓挫します。外務省から猛反発を受けたのに加えて、田中が初の男子普選となった1928年2月の第16回衆議院議員総選挙で絶対多数を確保することができず、政友会の内部が深刻な分裂状態となり、さらにそれを契機に田中の陸軍への影響力も急速に衰えていったからです。

 加えて、山本条太郎満鉄総裁を通じた張作霖との協調路線が張作霖爆殺事件で瓦解します。

 

 他にも、前朝鮮総督であった斎藤実が朝鮮を他の植民地と同列に扱うことに異議を唱え、拓殖省官制から朝鮮を外すように要請します。そして、これがきっかけに朝鮮総督府の官僚や朝鮮「親日派」からも批判の声が上がります(斎藤が朝鮮を他の植民地と同列に扱うことを批判したのに対して、朝鮮「親日派」は朝鮮を植民地扱いすることを批判した)。

 こうした反対を受けて拓殖省の構想は次第に骨抜きになっていき、当初の構想からずいぶん後退した形で「拓務省」として設立されることになります。

 結局、拓務省は植民地の利害を代弁するような存在になり、植民地の割拠性を強めるような形になってしまうのです。

 

 第4章では浜口内閣〜第2次若槻内閣の扱っています。

 浜口内閣は田中内閣の東亜h的な人事が「党弊」との批判を受けたことから、慎重に人事を進めますが、朝鮮総督民政党と近い伊沢多喜男を就任させ、文官総督を実現しようとしました。しかし、先述のようにこの人事は昭和天皇の意思の前に挫折し、斎藤実朝鮮総督に就任します。

 拓務省については廃止も考えていた浜口内閣ですが、こうなると拓務省を通じて植民地をコントロースする必要も出てくることになり、拓務省は植民地と内閣の間の調整機能を担う形に落ち着きます。

 

 産業立国主義のもとで積極財政を掲げた田中内閣では各省大臣の「予算分捕」の状況を発生させることとなりましたが、浜口内閣では井上準之助蔵相のもとで厳しい緊縮政策が行われました。

 ただし、民政党は政友会と違って行政整理には熱心ではなく、補助金の整理などによってこれを進めようとしました。

 

 また、この緊縮財政政策は各省の割拠性を乗り越えるための統合機能も果たしました。緊縮財政と産業の合理化によって国際貸借を改善するという政策体系のもとで各大臣は各省の行政長官ではなく、内閣の一員として振る舞わせようとしました。

 政策の中心軸は井上準之助の大蔵省と幣原喜重郎の外務省にあったとされていますが。本書ではさらに商工省の政策立案能力の活用にも注目しています。

 

 しかし、この政策は世界恐慌によって動揺します。民政党の内部からも積極財政を求める声が起こり、政策による統合は困難になってきます。

 さらに強いリーダーシップをもった浜口首相が退陣することで、この方法は行き詰まりました。第2次若槻内閣は無任所大臣の設置などによって割拠性を克服しようと考えますが、有効な手を打てないままに退陣しました。

 

 第5章は犬養毅内閣を扱っています。

 犬養内閣は国策審議会の設置を計画していました。これは高橋是清蔵相と与党の意見調整を行う場という位置づけだったとされていますが、五・一五事件のため実現せずに終わっています。

 先述のように積極財政を掲げた田中内閣のもとでは各省の予算要求が熾烈になり、各省の割拠性が浮き彫りになりました。

 山本条太郎もこのような、各省が省益にとらわれて予算を要求し、「それを「撃退」することを自己の任務と考える大蔵省の姿勢を問題視」(371p)していました。

 山本はこの時期、田中内閣を挫折を踏まえて「政務と事務の区別」を前提としつつ、無任所大臣の活用などを通じて、各省の利益を超えたところでの政策形成を模索するようになります。

 

 犬養も山本を無任所大臣として入閣させようとしますが、これは枢密院の反対で立ち往生しました。

 構想としては、国策審議会を設置するとともに、それを山本に仕切らせることで、行政長官化した大臣たちを抑えて政策の統合性を確保しようとするものでしたが、五・一五事件によってこれが実現することはありませんでした。

 

 つづく斎藤実内閣では、「政民連携」の動きも起こり、「護憲三派」を思わせる「挙国一致」のムードも強まります。

 斎藤内閣は事務官身分保障の制度化を実現します。これは昭和天皇と牧野内大臣が斎藤内閣の選定時に「事務官と政務官の区別を明かにし、振粛を実行すべき」(385p)との要請を受けてのものであり、これによって「政党化」を軸にした統合手段は現実的にほぼ不可能になりました。

 これ以降、事務官の自立化が顕著になり、「新官僚」の台頭を招くことになります。

 

 斎藤内閣は新しい組織をつくるのではなく、斎藤首相ー高橋是清蔵相ー山本達雄内相の長老政治家による連携によって割拠性を乗り越えようとし、これはかなりの成果を収めました。

 高橋は新組織ではなく、五相会議のようなインナーキャビネット方式を採用し、ここで荒木貞夫陸相の意見をかなり抑えることに成功しています。

 

 しかし、この斎藤内閣の成功は「憲政常道」復帰のタイミングを失わせることにもなりました。

 また、長老政治家の個人的人格に依拠した政治は、藩閥時代の寡頭政治への回帰とも捉えることができ、政党の力で各省の割拠性を克服するという政党内閣のあり方からますます乖離するものでした。

 そして、この個人の人格に頼った政治は二・二六事件で高橋と斎藤を失うことによって崩壊することになります。

 

 高橋蔵相と大蔵省を中心とした統合の体系は民政党の今までの路線と親和的であり、政友会の「政党化」路線とは大きく違ったものでした。また、斎藤内閣が行政整理に消極的だったことも政友会には不満でした。

 そこで政友会は斎藤内閣の挙国一致体制から離脱することになります。議会多数派であった政友会は自らを中心とする政権を志向することになるのです。

 

 本書では清水銀蔵というあまり知られていな政友会所属の政治家の考えが紹介されていますが、そこでは内閣はすべて無任所大臣で構成すべきという議論がなされています。「かつての太政官制へと回帰するような発想」と評されていますが、まさしく割拠性を否定するための先祖返りという感じです。

 政友会は岡田内閣成立とともに野党の立場になり、岡田内閣を「官僚内閣」として批判していくことになります。

 著者は推測だとしながらも、清水は議会ではなく政党こそが民意を反映する機関だと考えていたといいます。政友会の横田千之助はムッソリーニの「民衆主義」を支持していたといいますし、ここに政友会がファシズムに接近する流れが見えてきます。

 

 最初に書いたように、本書は大正〜昭和の戦前期の日本の政治についての知識がないと面白く感じられないかもしれませんが、一定の知識がある人にとっては今までとは違った視点を教えてくれる本で興味深いと思います。

 特に田中義一内閣については、今まで良いイメージがまったくなかったのですが、本書を読んで結果はともかくとして、田中と政友会の意図については見えてきたものがあると思います。

 

 また、昭和天皇牧野伸顕満州某重大事件で田中にとどめを刺しただけでなく、その他の面でも政党の行動にかなり強力な枠をはめていたことが印象的でした。

 おそらく昭和天皇は当時としては「リベラル」な思想の持ち主だったのでしょうが、党派性を党派性で抑え込むマディソン的な考えについてはほぼ理解がなく、斎藤実のような立派な人格者による統治をよしとしたんでしょうね。

 このあたりの昭和天皇や宮中をめぐる議論も刺激的です。

 博士論文をもとにした本ですが、さまざまな論点を含んだスケール感のある面白い本ですね。