ハン・ガン『別れを告げない』

 ハン・ガンによる済州島4.3事件をテーマとした作品。

 ハン・ガンは個人的にはノーベル文学賞を獲って当然と考える作家で(同じ韓国の作家ならパク・ミンギュも好きだけど、こちらはノーベル賞を獲るタイプではない)、そのハン・ガンが韓国現代史の大きな闇である済州島4.3事件をテーマにしたということですごい作品なんだろうなと予想しながら読んだわけですが、想像とはちょっと違う形でやはりすごい作品でした。

 

 この作品は作者のハン・ガンを思わせる主人公のキョンハが疲弊しきっている状態になっているところから始まります。キョンハは光州事件と思われる事件についての著作を書き上げましたが、そのために疲弊しきっています。

 

 そこにカメラマンでもあり短編のドキュメンタリー映画もつくっている友人のインソンから連絡が入ります。インソンは故郷の済州島で木工の仕事もしていたのですが、そこで指を切断する怪我をしてしまったのです。

 この怪我の話と、切断する指をくっつけるための治療についての部分は本当に「痛い」。読者は文字列を目で追うだけですが、それでここまでの「痛み」を感じさせる描写もなかなかないでしょう。

 「痛み」の描写はハン・ガンの十八番ともいうべきものですが、ここでも凄みを感じさせるレベルです。

 

 そして、インソンから飼っている鳥の世話を頼まれ済州島へと向かうのですが、済州島キョンハを出迎えるのは暴力的にまで白い雪の世界です。

 この雪の世界をくぐり抜けて、キョンハはインソンの家へと向かい、そこで幻想的なイメージの中で、インソンの母で済州島4.3事件の生き残りである姜正心の記憶や、事件後の活動について知ることになります。

 

 このように書いていくと、ここでようやくテーマにたどり着いた感じもありますが、この小説のすごさの1つは、このテーマまで読者を連れてくるやり方です。

 もちろん、いきなり正心の物語を聞かせても、読者はその残酷さに心を痛めるでしょうけど、この小説では、痛みや雪の世界での孤独を読者に体験させることで、読者を寄る辺ない場所につれてきます。

 

 1948年に起きた済州島4.3事件では、共産主義者の疑いをかけられた済州島の島民が虐殺され、山間部の村落が焼き討ちにされました。生き残った住民の中には山間部の洞窟に逃げ込んで息を潜めていた者もいます(正心の兄(インソンの伯父)がそう)。

 済州島の住民は理不尽な暴力の痛みや、家族を失ったり、その仲を引き裂かれて孤独を経験するわけですが、この小説の前半はその痛みと孤独への滑走路のようになっています。

 読者はそうした感情を抱えながら、歴史的な悲劇や得体のしれない残酷さに直面するわけです。

 

 後半の展開については、前知識なしで読んだほうがいいと思うので、詳しくは書きませんが、タイトルの「別れを告げない」という言葉が非常に効果的に使われている場面があって、ここはハッとさせられます。

 そして、この「別れを告げない」という言葉の重さや力強さをだんだんと感じさせる形になっています。