「多様性・公平性・包摂性(DEI)の思想は大日本帝国から生まれた」
などと書くと、「どんなトンデモ右翼本だよ」となりますが、脱植民地の来歴から、マイノリティの権利が帝国同士の競争の中でいかに発展してきたか、日本で公民権運動が生まれなかったのはなぜなのか? といった議論が展開されています。
「とにかく読んでみてください」という本ですが、スケールが大きく非常に刺激的な本であることは間違いないです。
目次は以下の通り
はじめに
第一章 人種主義に抗う「帝国」
第二章 大日本帝国を揺るがす植民地
第三章 マイノリティの運命の分岐点
第四章 日本では起きなかった権利革命
第五章 加わり始める外圧
第六章 脱植民地化への反動の時代
おわりに
日露戦争が白人支配に苦しむ諸民族を勇気づけたということは司馬遼太郎『坂の上の雲』でも紹介されていますが、一方で日露戦争後には韓国併合が控えており、日本が新たな支配者である「帝国」となっただけだったという評価もあります。
本書の第1章では、この日露戦争の日本の勝利に対して「人種」という視点から迫っています。
アメリカの黒人の社会学者W・E・B・デュボイスは日露戦争での日本の勝利を受けて次のように述べています。
この一千年で初めて、白人国家が黄色人種の国家との力比べにおいて、文明と能力の両方で劣っていることが示された。その結末はどうであれ、日露戦争は新しい時代を切り開くだろう(21p)
帝国主義は人種主義を生み出しました。植民地支配を正当化するために、黒人や有色人種は劣っているという言説が流布されたのです。
さらにこうした植民地支配のための人種主義は本国にも適用されます。アーレントはこれを「帝国主義のブーメラン効果」と名付けましたが、こうしてヨーロッパやアメリカでも人種主義の考えが広がるようになったのです。
脱植民地化の歴史は第1次世界大戦が起点とされることが多いです。ウィルソンの「民族自決」の考えに刺激されて植民地での独立運動が活性化したというものです。
しかし、日露戦争には20世紀における最初の「帝国」同士の戦争でもあります。また、日本には亜細亜で連携して白人国家に対抗するというアジア主義の系譜もありました。
日露戦争は脱植民化を刺激し、帝国間の新たな競争を生み出しますが、このときに日本が使ったものの1つが人種差別への批判であり、パリ講和会議では人種差別撤廃提案を行いました。
この背景にはアメリカにおける日系移民排斥の動きへの反発や、欧米列強に帝国としての対等性を認識させるということがあったといいますが、日本としても人種差別撤廃を主張することで他国に対する道徳的な優位性が誇示できると考えたと思われます。
日本でも植民地に対しては差別的な取り扱いがされていましたが。その基準は「内地」「外地」であり、例えば、アメリカのような人種基準のものではありませんでした。
こうしたこともあって、アメリカの黒人組織は日本との連帯を模索しました。彼らの中では日本のアジアでの植民地支配と、日本が白人支配に抵抗する存在だというのは両立できることだったのです。
第2章では、第1次世界大戦後の朝鮮を中心にナショナリズムの問題が論じられています。
ウィルソンの「民族自決」に考えは、植民地のナショナリズムを刺激し、独立運動の後押ししたと言われていますが、ウィルソンは人種差別主義者でもあり、基本的にはアジアやアフリカの諸民族が独立できるとは考えていませんでした。
こうしたこともあってパリ講和会議で朝鮮の独立の願いは無視されるわけですが、著者は朝鮮の独立運動は今までのナショナリズム論で無視されているものの非常に重要だといいます。
「西」対」「東」といった図式が使われることの多いナショナリズム論において、「東」の朝鮮が「東」の日本に抵抗した運動は無視されがちですが、例えば、義兵闘争は1万8000人近い犠牲を出していますし、三・一独立運動では当時の朝鮮の人口(約1700万人)の1割を超える約200万人が参加したと言われています。
第一次世界大戦後において、もっとも大きな植民地解放運動が起こったのは朝鮮半島だとも言えるのです。
これに対して日本政府は弾圧だけで運動を抑え込むのは不可能だと考え、海軍軍人の斎藤実を朝鮮総督に据え、武断政治から文化政治への転換を図ります。警察改革を行い、一定の出版・言論の自由を認め、学校教育の拡充や経済振興の政策を進めました。
日本の植民地支配が経済開発を伴うもので他国とは違うものだったという議論もありますが、これも植民地解放運動によってもたらされたものだとも言えるのです。
この結果、朝鮮の工業化は進み、朝鮮人資本家も登場します。朝鮮人労働者の賃金は低く抑えられていたため、朝鮮では繊維産業がさかんになりますが、これが日本国内に流入すれば内地の繊維産業の打撃になります。
そこで総督府はその市場を満洲に求めるようになります。満州事変では朝鮮軍が越境して支援するなど朝鮮軍からの支援がありましたが、この背景は満洲は朝鮮にとって重要だという総督府の判断があったと考えられます。
また、植民地行政を経験した軍人たち(例えば、朝鮮総督を務めた宇垣一成など)は内地の政治にも介入を試みるようになり、それが日本の政党政治を覆していくことになるのです。
第3章は第2次世界大戦後の動きです。
第2次世界大戦後の国際秩序は第1次世界大戦後のそれに比べて安定したと言われていますが、脱植民地化の視点からすると第2次世界大戦は大きな変化をもたらしました。
日本の植民地は解体され、戦勝国のイギリスやフランスの植民地も、その多くが維持できなくなりました。
戦争が開始されたときには、脱植民地化は特に想定されていませんでしたが、戦局が不利になった日本は、43年になると中国や占領地などの協力を得るために「大東亜共栄圏」の考えを打ち出し、連合国も43年12月のカイロ宣言で台湾の返還や将来的な朝鮮の独立も盛り込みました。
また、終戦後に朝鮮の信託統治構想が破綻し、米ソの分割統治から大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の独立へとつながって行った流れも重要だといいます。45年12月にはモスクワ三国外相会談で米ソ英中による朝鮮半島の5年間の信託統治の方針が示されましたが、これは朝鮮での反発によって挫折したのです。
結果的に朝鮮半島は脱植民地化の先陣を切ることになりました。
第2次世界大戦は総力戦となりましたが、こうなるとどれだけの人員を動員できるかが勝敗の鍵を握ります。そこで日本でも植民地の人々を協力させるためにさまざまな妥協が図られました。45年4月に帝国議会の議席を朝鮮と台湾に割り振ったことはその典型です。
一方、アメリカでも黒人の協力を得るために、黒人の組合のリーダーであったフィリッピ・ランドルフの要求を飲む形で41年には軍需産業での雇用差別を禁止する大統領令が出されました。
また、中国の協力を得るために43年に米英両国と中国との間の不平等条約が撤廃され、12月にはアメリカの中国人移民排斥法も廃止されます。国連憲章にも人種差別の撤廃が盛り込まれました。
日本では敗戦とともに植民地を失いましたが、残った問題が海外に植民していた日本人と国内の外国人、特に在日朝鮮人の問題です。
当初、日本政府は海外の日本人には現地での自活を求め、国内の朝鮮人、台湾人を日本人として管理しようとしましたが、それが難しいとなると日本人を帰国させるとともに、朝鮮人や台湾人を出国させようとしました。
こうした中、日本政府は朝鮮人、台湾人の日本国籍を剥奪し、彼らを外国人として扱うこととしました。
こうした日本政府のやり方を連合国が認めた背景には、ヨーロッパの戦後処理における東欧諸国からのドイツ系住民の追放があったと考えられます。
第1次世界大戦後の、マイノリティ保護政策がうまく機能しなかった中で、民族が国境に合わせる形で再配置されたのです。
しかし、ヨーロッパでは難民保護の仕組みがつくられたのに対して、済州島四・三事件から逃げてきた人などを「難民」と認める仕組みはつくられず、彼らは「密航者」として扱われました。
日本でのマイノリティ政策は「外国人をどうするか?」という形で進んでいくことになります。
第4章で取り上げるのは「日本ではなぜ権利革命が起こらなかったのか?」という問題です。
アメリカでは60年代に公民権運動が盛り上がり、それとともに女性や黒人以外のマイノリティの権利を求める運動も盛んになりました。しかし、例えば、日本の男女雇用機会均等法は1985年であり、その他のマイノリティの権利獲得についてもアメリカのようには進みませんでした。
この原因としては「アメリカのほうが社会運動が盛んだったから」といったことが言われますが、著者は日本でも60年安保など大きな動員を見せた社会運動があることを指摘し、社会運動の強さや大きさが原因ではないといいます。
まず、著者が目を向けるのが公民権運動の背景にある冷戦です。アメリカはソ連との帝国同士の道徳的な争いに勝つため国内の人種問題を解決する必要がありました。
また、一時期はアフリカでの脱植民地化運動との共闘を目指していたアメリカの黒人団体も、マッカーシズムの中で「共産主義者」のレッテルを貼られるのを恐れて国内の問題に注力していくようになります。
こうした動きの結果として公民権法が成立すると、その他のマイノリティについてもアファーマティブ・アクションという形で枠がつくられるようになり、マイノリティ全般の保護へとつながっていきました。
一方の日本ですが、敗戦とともに脱植民地化が行われたものの、その植民地は韓国と北朝鮮、中国と台湾といった形に冷戦の中で分断され、外圧として機能しがたい状況でした。
むしろ、台湾(中華民国)が日本に対する賠償請求を放棄したので中国(中華人民共和国)も賠償請求を放棄するといった具合に、日本にとってプラスに働いた面もあります。
特に朝鮮半島の分断は日本のマイノリティである在日朝鮮人にも大きな影響を与えました。
当初、日本は韓国と国交の樹立を目指していましたが、1953年に日本の植民地支配を肯定する「久保田発言」があると、交渉は打ち切られます。すると、北朝鮮が日本に接近し、韓国を孤立させる政策を取りました。
韓国と北朝鮮の対立は日本の在日朝鮮人の団体にも持ち込まれ、北朝鮮系の朝連と韓国系の民団が生まれます。在日朝鮮人たちは祖国志向を持っており、彼らをどうするかも駆け引きの対象になりました。
1952年から始まった日韓国交正常化交渉では在日コリアンの地位も問題となりましたが、韓国側はあっさりと在日コリアンは外国人であるとする日本の主張を認め、在日コリアンは一律大韓民国籍にするべきだと主張し、同時に永住権の付与を求めます。
この間も朝鮮半島での混乱から日本に密航する人々がおり、日本はそうした人々を大村収容所に収容しつつ、韓国への強制送還も行っていましたが、「久保田発言」で交渉が途絶えると、李承晩政権は送還の受け入れを停止します。
大村収容所の収容能力が限界に達する中で持ち上がったのが北朝鮮への帰国事業です。北朝鮮は労働力と技術の導入、さらに韓国を孤立させるためにこの政策を進めようとしました。
1958年に日韓国交正常化交渉の再開が決まると、北朝鮮は帰国事業を大々的に推進し、これに応じて多くの在日コリアンが北朝鮮へと渡りました。今でこそ批判される政策ですが、当時は在日コリアンの扱いに苦慮する日本政府にとっても、差別に苦しむ在日コリアンにとっても、理想的な政策に思われたのです。
アメリカの権利革命は黒人の権利獲得に引っ張られる形で進みました。
1964年に成立した公民権法第七編に人種差別の撤廃と並んで女性差別の撤廃が盛り込まれます。これは南部民主党のハワード・スミスが公民権法の成立を妨害するために抱き合わせにしたとも言われていますが、近年の研究では人種差別が撤廃された場合に黒人女性が白人女性よりも優遇されることを懸念したからだとも言われます。
もちろん、女性の権利獲得のための動きはこれだけではないのですが、公民権運動が大きなきっかけ路なっているのは事実です。
一方、日本ではマイノリティ集団である在日コリアンは「外国人」とされ、「外国人の権利をどうするか?」という問題になりました。
また、ソ連と競っていたアメリカに比べると、かつての支配地域が分断国家になったこともあって脱植民地化の圧力も弱いままでした。そして、民族マイノリティの地位向上が十分に図られなかったことが、その他のマイノリティ、例えば女性の地位向上も実現しない結果になったというのです。
1970〜80年代にかけて、日本でもマイノリティの権利向上が進みますが、この背景にあったのは社会運動の高まりというよりは「外圧」です。
このころになると日米貿易摩擦が問題となり、日本政府はこの問題を大きくさせないためにそれ以外の部分でできるだけアメリカの意向に沿うように動きます。
その代表がインドシナ半島からのボートピープルの受け入れで、アメリカからの要請もあり、今まで難民に門戸を閉ざしていいた日本は、難民条約に加入してボートピープルの受け入れを始めました。
そして、この難民条約に合わせる形で社会保障制度の外国人への拡充などが行われ、在日コリアンの権利向上にもつながりました。
貿易摩擦についてのアメリカから日本への批判は多分に人種主義的な部分もあり、石原慎太郎などはそれは批判し、アジア諸国との提携を模索しましたが、石原の考えは周辺国で支持を得ることはありませんでした。
これは日本の脱植民地化への対応が不十分だったからで、このころになると韓国も経済成長と世代交代を経て、必ずしも日本に経済援助を求めるのではなく、歴史問題の解決などを求める声が政権エリートの中からも上がってきます。こうような状況では石原の「アジア主義」は時代錯誤的なものと思われました。
一方、アメリカはベトナム戦争で傷ついたイメージの挽回、ソ連との対抗などから「人権外交」を打ち出すようになっており、こうした「ソフトパワー」で日本はアメリカに遅れをとっていました。
こうした中、日本では女性団体が日本人男性の韓国での「キーセン観光」に対する批判の声を上げるなど、マイノリティ同士の連帯が現れ始めます。
こうしたマイノリティの権利向上への反動として現れたのがトランプ政権ですが、この背景にある1つの要因が冷戦の終結です。アメリカはもはやソ連と道徳で競い合う必要はなく、マイノリティの権利向上についての外圧を受けることがなくなったのです。
日本でも近年「右傾化」ということがよく言われます。著者はこれを90年代に進んだ旧植民地からの批判への反動と見ています。
東アジアでは冷戦構造が一定程度残ったとは言え、90年代になると韓国から従軍慰安婦問題など、日本の過去の行いに対する批判が強まります。この問題は世界的な女性の権利を求める動きとも連動しており、日本政府としても無視できないものでした。
1995年の村山談話において、日本は植民地支配を含んだ踏み込んだ反省の姿勢を示しましたが、これは自民党の一部の議員の反発を呼び、「右傾化」の流れを作ります。
この「右傾化」が結実したのが安倍政権ですが、第2次安倍政権では女性の活躍やヘイトスピーチ解消法の制定が進むなどの「逆説」もありました。
女性活躍については基本的に日本の人材不足への対応という形で語られることが多いですが(移民よりは女性の社会進出のほうがいい)、著者はここでも「外圧」の存在を指摘します。
従軍慰安婦問題は韓国からだけではなく、アメリカからも批判されており、大統領候補でもあったヒラリー・クリントンも問題視していました。こうした外圧に対する対応の1つが「女性活躍」だというのです(実際の判断の背景はともかくとして、実際に安倍晋三が死去した時にヒラリー・クリントンはTwitterで安倍首相を女性の活躍を後押しした民主主義の擁護者だったと持ち上げている)。
このような形で、本書は、マイノリティの権利向上を求める思想は西洋で生まれ、それが啓蒙によって世界に広がっていったというストーリーを否定します。
脱植民地化とマイノリティの権利の問題について口火を切ったのは大日本帝国であり(もちろん模範的な存在だったわけではない)、それは理想を掲げたというよりは、国際政治の打算の中で展開されていきました。
著者はマイノリティの権利向上に賛成する立場ですが、それは啓蒙のような形では進まないと考えています。道徳的な糾弾は反発を生むだけだからです。
本書が示したのは「マイノリティの権利が向上したのは、それが個人の道徳ではなく、国家の名誉の問題となった時だったということ」(313p)だといいます。
パリ講和会議での日本の人種差別撤廃提案、安倍政権の「女性活躍」、いずれも正義に裏打ちされたものとは言い難いですが、マイノリティを力づけました。こうした歴史を見ていくべきだというのが本書の1つの主張です。
かなり大きな話をしている本であり、まだまだ埋めなければならない点は多いと思いますが(例えば、本書は日米を中心に論じていますが、やはり大植民地帝国だった英仏の分析が欠かせないのでは?とか))、非常に刺激手な本であることは間違いないです。
読後感としてバリントン・ムーアJr『独裁と民主政治の社会的起源』を思い出させるスケールの大きな本です。
