黒川みどり『被差別部落認識の歴史』

 中学で公民を教えるときに、教えにくい部分の1つが被差別部落の問題です。

 問題を一通り教えた後、だいたい生徒から「なんで差別されているの?」という疑問が出てくるのですが、歴史的な経緯を説明できても、現代でも差別が続いている理由をうまく説明することはできないわけです。

 もちろん、地域によっては子どもであって差別を身近に感じることもあるかもしれませんが、東京の新興住宅街などに住んでいると、差別が行われている理由というものがわからないのです。

 

 本書はそのような疑問に答えてくれる本です。

 本書の「はじめに」の部分に、結婚において差別を受けた部落出身の女性が、差別する理由を重ねて尋ねると、相手の母親が「すみません、なんで今でも差別があるんでしょうか?」と、差別をしているにもかかわらず、その理由を差別している相手(女性の母親)に訊くというエピソードが紹介されているのですが、差別している本人が差別している理由を理解していないという倒錯的な状況になっています。

 

 この差別が続いている理由を明らかにするために、本書は明治以降の被差別部落に対する認識を追っていきます。もちろん、差別撤廃のために戦った部落出身の運動家の言説なども追ってはいますが、基本となるのは部落に対する認識の変遷です。

 本書の叙述から見えてくるのは、「理由があるから差別が起こる」というよりは「差別という現象があってそのための理由がつくられる」ような歴史になります。

 

 目次は以下の通り。

第1章 「文明開化」と伝統的秩序意識との対抗

第2章 「特殊化」の標識の成立

第3章 「特殊化」と「同化」の併存

第4章 「異化」と「同化」の交錯

第5章 「国民一体」論と「人種主義」の相克

第6章 戦後民主主義下における国民的「同化」の希求
おわりに

補 章 部落問題の"いま"――その後の二〇年

 

 1871年、「賤民解放令」が出されたことで近世的な賤民身分は廃止されました。

 この背景には、身分別から地域別に人民を把握することになったこと、賤民身分の居住地は免税となっていたが地租改正でそれを改める必要がでてきたこと、士族の解体の一巻として賤民身分の解体が企図されたこと、などがあげられます。

 また、いわゆる開化の一環としても賤民身分の解放は捉えられました。そして、国民への「同化」が目指されたのです。

 

 これに対して部落外の民衆からは反発が起こります。それは今まで下位にあった人々が自分たちと平等になるということへの反発であり、彼らは「旧習」を維持しようとしました。

 こうした反発は「解放令」反対一揆を引き起こしました。大規模な一揆が起き、18人もの死者を出した北条県(岡山県東北部)では、被差別部落民衆の部落外民衆に対する態度が不遜であるということから被差別部落に詫状を出させることも起きています。

 

 1870年代は開化をよりどころとする平等論と旧習=差別温存論が拮抗していましたが、1880年代になると後者が優勢になります。

 湯屋での入浴拒否や就学拒否などが続きましたし、身分制の撤廃によって自由になったはずの結婚においても部落出身者への差別が起こりました。部落出身者を「悪疾遺伝ノ家系」(38p)として部落出身者との結婚を問題視する言説も生まれています。

 

 中江兆民のように自由民権運動と連動する形で、「新民」(部落出身者)こそが変革の担い手となるといった主張も現れましたが(42p)、一方で自由民権運動とともに部数を伸ばした新聞にも差別的な記述が載るようになります。

 部落は不潔であり、コレラのなどの伝染病の発生源であり、さらに彼らは「異種」であるという言説も広まります。部落民の祖先は「ポリネシアン島の土人」、「三韓より帰化したる人民」だという主張が登場するのです(50p)。

 

 こうした中、帝国意識に訴えることによって「同胞の融和」を実現しようとする動きも出てきます。また、部落民が生きる道として、海外や北海道への移民・移住が示されました。同じ国民になるために、「日本」から離れた場所に活路を求めようというのです。

 

 また、1898年に施行された明治民法によって成立した「家」制度が部落差別を助長しました。社会の基礎単位が「家」とされ、それが血統主義によって基礎づけられ、戸主が成員の自由意思を阻んだことで、部落出身者との結婚を忌避する風潮が続くことになったのです。

 1902年には、広島で「旧家豪農」出身だという男性が実は「旧穢多」だとわかったために女性が婚姻取消請求を求めた裁判で、女性の主張が認められています。裁判所は、「之と婚姻を交じふるを嫌忌するは旧穢多にあらざる者の普通の状態」(65p)だとし、「旧穢多」だと知っていれば結婚はしなかったはずだと結論づけています。

 江戸時代には「ヨバイ」の慣習などもありましたが、この時期になると結婚では「家柄」の釣り合いが意識され、部落出身者は排除されるようになるのです。

 

 日露戦争の頃になると、内務省が部落問題の解決に取り組み始めますが、そこでも彼らのルーツを朝鮮半島蝦夷に求める「人種主義」的な認識が採用されており、また、新聞などもそうした認識の記事を掲載しています。

 また、内務省が対策に取り組み背景には犯罪の防止がありました。部落出身者は教育を受ける機会が少なく、きちんとした生業につく機会も少ないために犯罪に走りやすいという認識があったのです。ただし、実際に部落出身者に犯罪が多いという数字が出てくれば、それが統計的差別を生み出すことにもなります。

 明治後期になると肉食も広がりを見せるのですが、屠場とそこで働く人への偏見というものはなかなかなくなりませんでした。

 他にも部落は近親婚を繰り返しているから問題があるといった言説も登場します(江戸時代の農村も通婚圏はかなり狭かったにもかかわらず)。

 

 部落を「異種」とする見方は根強く、日本の社会運動の歴史の中でも「人格者」としてのイメージが強い賀川豊彦でさえ、「彼等は即ち日本人中の退化種 ー 奴隷種、時代に後れた太古民族なのである」(96p)と述べていました。

 賀川をはじめ、被差別部落の人々の間に入って活動しながら、このような偏見を保持し続けていることも珍しくなかったのです。

 

 ただし、1912年になると内務省の中で従来の「特種(殊)部落」という用語をやめ、「細民部落」と言い換えようという動きがおこるなど、被差別部落からの要望を受ける形で、ことさらに彼等の特殊性を強調すべきではないという考えも出てきます。

 

 一方、部落の中からはアクションが出てきます。例えば、部落民の団体である大和同士会は、「一君万民」の考えのもと、教育などを通じて部落を改善していこうというものなのですが、ここで信仰(浄土真宗)の問題が出てきているのは興味深いです。

 被差別部落の人々は現世での抑圧への解放を来世に託して、親鸞悪人正機の教えを支えに熱心に浄土真宗を信仰し、多額の寄付を行ってきました。しかし、この時期になると、この寄付が部落の経済的発展を阻害しているのではないか? という声が上がってきます。さらに浄土真宗内部でも部落の寺を「穢多寺」と呼んで差別する風潮もあり、大和同士会ではこれを問題視しています(105−107p)。

 大和同士会は、差別解消に必要なのは外部の反省であって、部落としては「富の程度を高める外に仕方無い」(108p)という認識のもと、個人の立身出世が奨励されました。

 

 社会の上層からのアプローチとしては1914年につくられた帝国公道会があります。会長に板垣退助を迎え、幹事長の大江卓(天也)が活動の中心となりました。

 日本が帝国主義的拡大をしていく中で、部落差別は国力発展の阻害要因だと捉えられました。当時、日本では朝鮮や台湾といった植民地、さらにはアイヌをいかに包摂するかが課題となっていますが、部落も同じように「異種」として包摂の対象と考えられたのです。また、運動は明治天皇の「一視同仁」の「聖旨」を貫徹するという形で進められました。

 活動の一環として、部落民の北海道への移住も行われましたが、農地経営では失敗するケースも多かったですし、北海道でも部落出身者ということで差別されるケースは会ったようです。

 

 第一次世界大戦が起きると日本の景気は良くなりましたが、物価の上昇は部落の人々の生活に打撃を与えました。物価高に対する民衆の反発として米騒動があげられますが、22府県116町村で被差別部落民衆の参加があったことが確認されています(136p)。

 当時の政府や新聞は被差別部落民衆が米騒動の首謀者のごとき言説を展開したこともあって、被差別部落民衆に対する恐怖の意識が植え付けられることになります。報道ではことさら残虐性も強調され、新聞では部落が異常な場所であるかのようなルポも連載されたりしました。米騒動を機に部落の「特殊(種)性)が強調されるようになったのです。

 

 この時期には、歴史学者喜田貞吉が部落史研究によって「人種起源説」を否定したり、有馬記念にその名を残す有馬頼寧が「同愛会」を結成し、トルストイ主義から部落解放を訴えたりしました。

 

 一方、部落の中からは部落民としての自覚や誇りを訴える声が起こり、これが192ン年に結成された全国水平社へとつながっていきます。

 全国水平社創立の「宣言」には「我々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」(185p)との一節がありますが、ここには今までの「同化」志向とは一線を画する「部落民」であることの集団的自我の主張があります。第一次世界大戦時の民族自決論の影響を受け、「異種」扱いされる中で、自らの固有のアイデンティティが模索されたのです。

 

 全国水平社は差別を糾弾する運動を始め一定効果をあげますが、糾弾を受けて謝罪するときもまず最初に明治天皇に謝るという形式がとられたりしましたし(198-199p)、部落に対する差別意識が水平社への批判や非難に転嫁するケースも見受けられました。

 

 水平社側からはマルクス主義に期待をかける動きも出てきます。人々の意識を変えるという達成が難しそうなやり方よりも、制度を根底から変えるというマルクス主義のやり方は魅力的に思えたのです。

 また、経済的困窮こそが部落の抱える一番大きな問題だという認識からマルクス主義によってこれを解決しようという思いもありましたし、「無産者」というくくりで部落外の人間と連帯できるというのも魅力の1つでした。

 

 昭和恐慌は日本に大きな打撃を与えましたが、経済的基盤が脆弱な被差別部落はとりわけ大きなダメージを受けました。履物生産の行き詰まりなどもありましたし、被差別部落においては農業従事者といえども耕地は狭く、副業をしなければ生活費が補えないような状況でした。

 こうした中で、日雇い労働者となる者も多かったのですが、ここでは朝鮮人労働者と競合することになりました。

 被差別部落には金も保証人もなくても借りられる借家が存在し、そこに朝鮮人労働者は流入しました。彼らは賃金も安く、「水平社の運動に啓発されて権利意識を高めた部落の労働者よりも、相対的に従順でかつ解雇が容易であった」(234p)ために、部落の人々は失業の脅威にさらされることになります。

 そのため、朝鮮人と連帯すべきだという声も一部にあったものの、部落の人々と朝鮮人との間の摩擦が強まりました。

 

 こうした中、国家主義の考えが強まってくると、日本民族の一体性を強調する「融和教育」の動きも出ていきます。これらは差別をなくそうとする運動でありましたが、同時に天皇のもとに人々を包摂しようという考えであり、「融和問題は日本精神の弛緩から生ずる」(257p)といった主張もなされました。

 部落解放運動の側も、マルクス主義に走ったことで弾圧を受け、1933年頃になると融和主義に接近する動きが出てきます。これには特高からのはたらきかけなどもあったのですが、次第に経済更生と人民的融和をその主張の中心としていくのです。

 日中戦争突入を機に、水平社もまた「挙国一致」協力を表明したことで、部落の人々の抵抗の拠点は失われていきます。

 

 しかし、1939年に中央融和事業協会が打ち出した「十カ年計画」の中枢は満州移民でした。部落は過剰人口を抱えているとし、その「人的資源」を大陸に振り向けようとしたのです。

 これは融和というよりも部落の人々を過剰人口として海外に放擲するようなものでしたが、「「満州」も「東亜共同体」の一部であることによってカムフラージュされた」(274p)のです。

 

 1938年に戸籍上の族称欄廃止が決定され、同年度に融和教育研究指定校制度がつくられるなど、政府による融和のはたらきかけは強まります。

 融和教育においては、部落民が「異種」という考えが否定され、日本民族の同化力や包容力が強調されましたが、「異種」でないことを学んだからといって差別がなくなるわけではありませんでした。

 戦争の進展とともに部落差別は「反国家的」であるという考えが広がっていくのですが、同時に水平運動は翼賛体制へと取り込まれていくのです。

 

 戦後になると、部落解放運動は民主主義によって差別を克服しようとしていきます。また、戦前は「天皇の赤子」という考えから差別をなくそうという主張もありましたが、戦後になると天皇制自体が封建的遺制として克服の対象となってきます。

 

 しかし、戦後になっても差別がなくなったわけではありませんでした。

 例えば、戦後になると見合い結婚が減少し恋愛結婚が増え、部落とそれ以外の通婚も増えるのですが、1954年には広島で、部落出身の男性との結婚に親や親戚が反対し、男性が裁判所で営利誘拐罪で有罪になるという福山結婚差別事件も起きています(324p)。

 部落の問題に理解を持っている人でも、部落は血族結婚を重ねているので遺伝上問題があるといった考えをもっていることがありました。

 

 また、部落の貧困は相変わらず大きな問題でした。1957年には群馬県相馬ヶ原演習場で弾丸拾いをしていた女性が米兵に射殺されるジラード事件が起きていますが、この女性は部落の出身で弾丸拾いをしなければ生活が成り立たない状況だったのです。

 1960年代いなると経済的格差の解消が運動の中心に据えられ、これが65年の同和対策審議会の答申につながっていきます。

 しかし、本書の補章で触れられているように、部落とそれ以外の見た目の差異がなくなったとしても、決して差別がなくなったわけではないのです。

 

 このように、本書は近代以降の部落差別の歴史を主に部落外の視点からたどったものなのですが、そこから見えてくるのは、差別の理由は時代とともに変化しつつも、差別が温存され続ける状況です。

 近世的身分制度が解体された後も、「日本人とは異種である」「犯罪が多い」「伝染病の巣窟」「血族結婚を繰り返していて遺伝的に問題がある」などの、さまざまな差別の「理由」が登場します。

 最初にも述べたように「理由があるから差別が起こる」のではなく「差別という現象があってそのための理由がつくられる」ているのです。

 

 ですから、偏見を潰していけば差別がなくなるというものでもないのかもしれません。具体的にどうするかというと難しいですが、「差別という現象そのもの」をなくしていくしかないのかもしれません。

 本書は、もちろん部落差別の歴史を知りたい人にお薦めできる本ですが、差別そのものを考える上でも重要な示唆を持った本であると思います。