リン・ハント『人権を創造する』

 タイトルからして面白そうだなと思っていた本ですが、今年になって11年ぶりに重版されたのを機に読んでみました。

 

 「人権」というのは、今生きている人間にとって欠かせないものだと認識されていながら、ある時代になるまでは影も形もなかったという不思議なものです。

 中学の公民や高校の政治経済の授業では、社会契約説の思想家たちの、「たとえ国家がなかったとしても、すべての人間には一定の権利・自然権があるはずでしょ」という考えが、「人権」という考えに発展し、アメリカ独立革命フランス革命で政府設立の目的の基礎として吸えられた、といった形で説明していますが、そもそも社会契約説が登場する前には「すべての人間には一定の権利があるはずでしょ」という議論は受け入れられなかったと思うのです。

 

 こうした謎に1つの答えを与えてくれるのが本書です。

 人権というと、どうしても法的な議論が思い起こされますが、本書が注目するのは「共感」という感情であり、18世紀に流行した書簡体小説です。

 人間が他者に共感し、その身体の不可侵性などを感じるようになったからこそ、「人権」という考えが成立し得たというのです。

 政治史→文化史という流れはよく見ますが、文化史→政治史という流れを指摘しつつ、その後の人権の発展にも目を配った面白い本です。

 

 目次は以下の通り。

序 章――「われわれはこれらの真理を自明なものと考える」
第一章 「感情の噴出」――小説を読むことと平等を想像すること
第二章 「彼らは同族なのだ」――拷問を廃止する
第三章 「彼らは偉大な手本をしめした」――権利を宣言する
第四章 「それはきりがありません」――人権宣言の結果
第五章 「人間性という柔らかい力」――なぜ人権は失敗したが,長い目で見れば成功したのか

付録 三つの宣言――一七七六年,一七八九年,一九四八年

 

 アメリカ独立宣言には、「われわれはこれらの真理を自明なものと考える。つまり、あらゆる人間は平等に創造されていること、彼らはその創造主によっていくつかの譲渡しえない権利をあたえられていること、そしてこれらの権利には生命、自由、そして幸福の追求がふくまれていること、がそれである」とあります。

 しかし、この文章を書いたトマス・ジェファソンは奴隷の所有者ですし、同じように普遍的な人権をうたった人権宣言を出したフランスにおいても、女性の権利などは退けられました。

 

 今からだと普遍性をうたっていながら多くの問題を抱えていたということになりますが、逆に、それだけの偏見を抱えていながら、どうして「すべての人間の権利」といったことが言えたのか? という問いも出てきます。

 そして、この一見するとちぐはぐな様子の中に、著者は感情のはたらきを見るのです。

 

 ルソーと言えば『社会契約論』の著者であり、フランス革命にも影響を与えたことで有名ですが、『社会契約論』を出す前年に『ジュリまたは新エロイーズ』というベストセラー小説を出しています。

 この小説はジュリという貴族の女性の主人公が平民出の男との恋をあきらめ、父の意向に従って年長の男と結婚し、かつての恋人と再開して愛を誓うが不幸にしていなくなってしまうという話で、これを書簡体小説という形式で書き上げています。

 いわゆる身分によって引き裂かれる恋人を描いたものであり、ありきたりのストーリーにも思えますが、当時はこれが人々の間に猛烈な感情を呼び起こしました。

 人々は主人公のジュリに共感し、自らの感情をジュリに重ね合わせたのです。

 

 このスタイルはルソーの独創ではなく、サミュエル・リチャードソンによる『パミラ』、『クラリッサ』という先行作がありました。

 『パミラ』も『クラリッサ』も女性が主人公であり、その女性たちが望まない結婚を強いられそうになったり、貞操の危機に陥ったり、悲劇的な最期を遂げたりします。

 この女性主人公たちに男性を含めた多くの人々が感情移入し、女性主人公との一体感をいだきました。

 主人公の内面を吐露する書簡体小説というスタイルが、当時の人々に今までにはなかったような感情をもたらしたのです。

 

 これらの作品はすべて若い女性が主人公で、現在から見ると古臭い話にも思えますが、当時の「男女の読者はともに、女性たちがそれだけの意志、それだけの個性をみせたがゆえに、これらの登場人物と自分を同一視した」(54p)と言います。「彼らが、彼女たちのように、その悲劇的な死にもかかわらずクラリッサやジュリのようにさえ、なりたかった」(54p)のです。

 こうした小説を通じて、人々はあらゆる人間は(女性でさえも)、自律を望んでいることを知ったのです。

 

 奴隷制廃止論者もこうした動きを利用しようとし、「解放された奴隷に、ときとして虚構もまじえた小説的な自伝を書き、芽生えつつある奴隷制廃止運動への支持者を獲得するように勧めた」(62p)のです。

 

 1762年、ルソーが『社会契約論』を出版した年にカラス事件が起きています。

 これはジャン・カラスという64歳のプロテスタントが息子をカトリックに改宗させないために殺害したとして処刑された事件で、ヴォルテールがこの事件に疑問を持ったこともあって冤罪事件だったことが明らかになりました。

 ヴォルテールは当初、宗教的な偏狭さを「人権」という言葉を用いて批判しましたが、さらに共犯者を自白させるために当たり前のように行われていた拷問をはじめとする司法手続きに疑問を持ち、拷問の廃止を主張していくことになります。

 

 18世紀になるまで、死刑は見世物として行われていましたし、鞭打ちや焼きごて、八つ裂きや火刑といった刑罰も当たり前のように行われていました。刑罰の中心は人前での加虐であり、より重大な犯罪にはより残虐な刑が加えられるのが当たり前でした。

 

 ところが、18世紀後半になると拷問や残虐な刑罰を問題視する動きが起こります。

 きっかけの1つは1764年に刊行されたチェーザレ・ベッカリーアによる『犯罪と刑罰』で、ベッカリーアは拷問や残虐な刑罰だけではなく死刑そのものにも反対しました。

 それまで拷問や残虐な刑罰に疑問をいだいていなかった人々も、2,30年ほどでこうした行為を間違ったものだと考えるようになっていきます。

 「身体は、18世紀をとおしてより独立し、より自制的になり、より個性化するにつれて、より積極的な勝を獲得し」(80p)、身体の侵害に対して否定的な反応を引き起こすようになったのです。

 

 同じ頃、舞台では1回立ち見席がなくなって座席が設置されるようになり、フランスの住宅においては個人が「寝室」を持つようになりました。肖像画も大量に書かれるようになるなど、「個人」やそのスペースを尊重するような動きが起こっていきました。

 

 こうした中で苦痛を公開の見世物とすることは急速に支持を失います。

 「伝統的な理解においては、身体の苦痛は個々の囚人に全面的に帰属するものではなかった。それらの苦痛は、共同体の救済というより高次の宗教的・政治的目的をもっていた」(93p)はずなのですが、苦痛は個人のものとされ、そして人々はそれを嫌悪し始めるのです。拷問についても同じです。

 

 こうした他者への「共感」が人権の誕生を用意するわけですが、その人権は「宣言」という形をとることになります。権利が「人間自身の本性から生じたのだということを、後世の人びとに向けて文書化」(118p)する必要があったのです。

 

 アメリカにおいてはイギリスからの独立が普遍的な権利を要請しました。

 当時の人の多くはイギリス人の歴史的に基礎づけられた個別的な権利について議論していましたが、独立をするとなればそのイギリスから切り離されることになります。一種の「自然状態」になるわけであり、人々はホッブズやロックのいう普遍的な権利に注目することとなったのです。

 そしてヴァージニア権利章典で書き込まれた人々の普遍的な権利と、具体的にあげられた自由(出版の自由や宗教上の違憲の自由など)が、独立宣言や合衆国憲法へとつながっていくのです。

 そして、アメリカの動きはイギリスにも影響を与え、イギリスでも普遍的な権利が議論されるようになりました。 

 

 フランスでは、1614年以来となる三部会の招集をきっかけに革命が起こるのですが、この招集のきっかけはアメリカ独立戦争にフランス側が植民地側に立って参戦したことによる財政の悪化でした。

 フランスでは革命の進行とともに普遍的な権利を宣言する動きが起き、それはあっという間に人権宣言へと結実します。この宣言では、特定の集団を明記せずに、「人間」「各人」「あらゆる市民」といった言葉で普遍的な権利を位置づけました。

 

 起草者たちは想定していなかったことかもしれませんが、これが奴隷や女性といったそれまで政治的な地位を持っていなかった人々の権利の問題を呼び起こします。

 そして、エドマンド・バークの激ししい批判を呼び起こしながらも、「人間の権利」という言葉はヨーロッパに広がっていくことになりました。

 

 そして、「あらゆる市民」の範囲は拡大していきます。フランスでは、まずは「非カトリック」の権利が問題になり、さらにユダヤ人の権利が問題になります。

 フランスでは投票資格として、「当地の3日分の労賃に等しい直接税を払っていること」、「召使いでないこと」などを規定しましたが(156p)、女性と奴隷を除外することは前提でした。 

 

 1790年の3月、フランスの議員たちは植民地を人権宣言から切り離すことを決めますが、ハイチの白人農園主から代表者を出す要求がなされ、さらにハイチの自由黒人やムラートも声を上げます。

 結局、有色自由人の権利を認める方向に動いていくのですが、そうなると今度は奴隷制の廃止が議論にのぼるようになります。植民地での反乱もあり、1794年にはフランスは全植民地で奴隷を廃止することとしました。

 ナポレオンによって植民地の奴隷制は復活しますが、それでも「人間の権利」という考えは奴隷制の維持を難しくしたのです。

 

 こうした中でも女性の政治的権利について気にかけた者は少数でしたが、それでも1792年に離婚の権利が認められ(ただし1816年に復活した王政がこの権利を廃棄)、財産の相続権も獲得します。

 女性の政治参加が認められなかったのは、女性が「フランス革命以前には明白に独立した政治的カテゴリーを構成していなかった」(180p)からです。 

 女性は夫である男性を通じて意思が表示されると考えられており、わずかな議員が財産を持つ未亡人に投票権を与えても良いと考えていただけでした。

 オランプ・ドゥ・グージュは『女性の権利の宣言』を書きましたが、彼女は「自然に反する存在」(男のような女」)としてギロチンにかけられ」(183p)ています。

 

 その後の人権は順調に発展したとは言えませんでした。

 ナポレオンは征服地で宗教的少数派の権利を擁護しましたが、フランスでは言論の自由を制限しましたし、自由を求めた植民地の人々を弾圧しました。

 ナポレオンは各国のナショナリズムを活性化させ、「民族」という言葉が政治的に重要な意味を持ったことで少数派の民族の権利が制限されるようになりました。

 

 人権の前提として人間の同一性がありますが、「男が女にたいして、白人が黒人にたいして、あるいはキリスト教徒がユダヤ教徒にたいして自分たちの優越性を維持しようとするなら、差別はより堅固な根拠をもたなければ」(201p)なりませんでした。

 そこでより悪質な性差別や人種主義、反ユダヤ主義も登場することになったのです。

 

 19世紀には社会主義も盛り上がりを見せましたが、社会主義者の多くは人権に懐疑的でした。

 カール・マルクスは、人間に必要なのは宗教からの自由なのに人間の権利は宗教的な自由を保障し、財産からの自由が必要なのに自分の財産への権利を承認したというのです。

 社会民主主義者は人権を重要視しましたが、革命を目指す人々は人権をブルジョア国家の道具と見ていました。

 

 人権が再び脚光を浴びるのは、2つの世界大戦後、特に第二次世界大戦後です。ユダヤ人の虐殺を含む多くの蛮行は、多くの人々の衝撃を与え、できたばかりの国連憲章にも人権が書き込まれることになりました。

 大国からの抵抗はありましたが、ラテンアメリカやアジアの国々の要求やアメリカ国内のさまざまな団体からの声もあり、1948年には世界人権宣言が承認されました。

 世界人権宣言が出されたからといって世界中で人権が守られるようになったわけではありませんが、こうした宣言は「「もはや容認できない」ものの感覚を引き出し、それがまた違反をいっそう容認できないものとするのに寄与した」(231p)のです。

 

 このように、本書は18世紀に人権がいかに誕生し、そしてそれがどのように定着した(あるいは定着しつつある)のかを論じています。

 インパクトがあるのは、人権が書簡体小説などを読んだ人々の「共感」から生まれたという部分だとは思いますが、その後の展開もフォローしてあり、法学的ではない人権論としても非常に面白いと思います。

 

 政治哲学などの議論ですと、どうしても何らかの堅固な基礎の上に「権利」や「正義」といったものが構築されていくわけですが、本書はそれとは一味違った「正義」の道筋を示しているようにも思えます。