田所昌幸『越境の国際政治』

 副題は「国境を越える人々と国家間関係」。移民をはじめとする国境を越える人間の移動について国際政治学の立場から論じた本になります。

 移民に関しては、移民がもたらす社会の変化を記述したもの、移民のおかれた劣悪な状況を告発するもの、あるいはボージャス『移民の政治経済学』のように移民がもたらす経済的なインパクトを明らかにしたものなどがありますが、国家が国境を越える人々をどう扱ってきたかということを論じた本は少ないと思います。

 

 それこそアウト・オブ・アフリカの大昔から人間は移動してきたわけで、それに比べれば主権国家の歴史というのは短いです。それにもかかわらず主権国家は国境を管理し、受け入れる人と受け入れない人を選別し、場合によっては自らの支配領域にいる人々を追放したりします。国家は人々の移動に大きな影響を与えているわけです。

 ただし、国家が人々の移動を自由にコントロールできるかというとそうではありません。すべての国境を完璧に監視することはできませんし、観光や一時的な労働の目的で入国してそのまま住み着いてしまう人もいます。

 こうした国家と移民(難民)をめぐるさまざまな事象を論じたのがこの本です。何か解決策を提言したり、理論を導き出すような本ではないのですが、著者の幅広い議論を追っていくことで、移民や人々の移動に関して複合的な視野が得られる本になっています。

 

 目次は以下の通り。

序章 移民と国際政治―問題意識と基礎的事実
第1章 人口移動政策と対外関係
第2章 政策の限界―非正規的な人口移動
第3章 国家とそのメンバーシップ
第4章 メンバーの包摂と再生産
第5章 在外の同胞と国家
終章 日本にとっての国際人口移動

 

 世界にはどれくらいの数の移民がいるのか? これはなかなか難しい問題で、国連は2億4400万人(世界の総人口の3.4%)という数字を出していますが、これは1年以上他国に移動して居住する人を計算しており、1年以上いる留学生なども入ってきます。一方、この定義では日本に生まれた韓国・朝鮮籍の人は入ってきません。移民の定義というのはなかなか難しいのです。

 移民の流れに注目すると最大の受入国はアメリカ、以下離されてサウジアラビア、ドイツ、ロシア、UAEとつづきます。送り出し国は1位がインド、さらにメキシコ、ロシア、中国、バングラデシュとつづきます(10−11p図序−2、序−3)。

 移民の経路としてはメキシコ-アメリカが1位で、基本的には近接した国同士の移動が多いですが、中国-アメリカ、インド-UAEといったルートもあります(12p図序-4)。

 さらに移民からの海外送金の総額はODAの総額を超えており、インドは722億ドル、中国は639億ドル、GDPが約2800ドルのフィリピンには297億ドルの送金が流れ込んでいます(13p図序-5、このためフィリピンは「フィリピン海外雇用庁、国際労働問題局などを設置して自国民を積極的に海外に送っている(66-68p)。経済における移民の存在感は大きくなっているのです。

 

 こうした移民をめぐる状況をざっと見た上で、第1章では各国のとる政策と移民の関係が分析されています。

 ヨーロッパでは出国の権利が広く認められるようになったのはフランス革命以降であり、基本的に人々の移動は制限されていました。人口は国力の一つでしたし、ロシアの農奴などのように国内における移動すら制限されている国もありました。

 もちろん、20世紀になってもすべての人が自由に移動できたわけではありません。第二次世界大戦後、東西に分断されたドイツでは東ドイツから西ドイツへの移動がつづきました。その数は1949年〜61年までで累計250万人を超え、東ドイツの人口の約13%に相当するものでした。当初は、「階級の敵」を追放する安全弁として捉えていた東ドイツ政府も、若い世代や技術者などの出国がつづくと、体制存続の危機と捉えられるようになりベルリンの壁が作られます。東ドイツは人々の移動を壁の建設によって阻止したのです。

 しかし、それでも西ドイツに脱出する人はゼロにはならず、1989年に社会主義の支配体制が緩むと、再び出国者が激増し、ついにはベルリンの壁は崩壊します。

 一方、同じ分断国家の韓国と北朝鮮の間でも北から南へと亡命しようとする脱北者が話題になりますが、まだ無秩序な流出は起こっていません。

 

 さらにこの章では、冷戦下におけるソ連国内のユダヤ人の出国問題もとり上げられています。イスラエルユダヤ人の出国を求め、ユダヤロビー団体アメリカとソ連の通商交渉にこの問題を絡めることに成功しますが、かえってそれはソ連の反発を呼び、ユダヤ人の出国は進みませんでした。ユダヤ人のイスラエルへの出国が進むのは冷戦終結後のことになります。

 

 近年、先進国は移民を選別する姿勢を強めており、ポイント制などによって高度人材であれば積極的に受け入れるというスタンスの国も増えています。

 しかし、これは送り出す側からすると「頭脳流出」ということになります。2010年にはギアナで生まれた高度技術を持ち人材の90%がOECD諸国に居住しているそうですし(45p)、アフリカや中南米の国にとってこの「頭脳流出」は頭の痛い問題です。また、シンガポールでさえも「海外に留学したシンガポールの学生のうち、最も優秀な人材が帰国しない」(46p)とのことであり、難しい問題となっています。

 もっとも、インドや台湾などでは流出した頭脳が母国に帰ってきてIT関連のビジネスを立ち上げることも多く、彼らのつくるネットワークが送り出し国の利益になることもあります。ただし、やはり一定以上の数の流出はやはりその国にマイナスの影響を与えるようです。

 

 一方、自国民を「戦略的に棄民する」という通常では考えにくい行動をとる国家もあります。

 ピッグス湾事件やキューバ危機の後の1965年、キューバは突然、アメリカに親類のいるキューバ人は自由に船で出国して良いと発表しました。当初はカストロの虚仮威しかと思われましたが、キューバの対岸のフロリダでは不安が高まり、ジョンソン政権は秘密裏にキューバ政府と交渉を開始します。この交渉によってカストロは出国ルートを閉じましたが、この後もキューバアメリカを交渉のテーブルに引き出すためにしばしばこの手を使いました。特に1980年には4月から9月にかけて実際に12万5000人がフロリダに到着しました。当時のカーター政権は当初はこれらの難民を歓迎しましたが、結局は海上でこれを取り締まることになります。

 

 現在、大きな問題となっているのがメキシコからアメリカに入ってくる不法移民ですが、1942〜60年代前半にかけて両国の間ではブラセロ・プログラムという枠組みがありました。

 不法移民といえば、メキシコ→アメリカですが、19世紀半ばまではメキシコ領だったテキサスにアメリカから不法入植者が入り込むという事態がつづきました。1846年の米墨戦争によって国境は現在の形に落ち着きますが、この頃は国境の管理も弱く、メキシコ人は旧メキシコ領との間を自由に往来していました。

 1920年代から農業恐慌が進行すると、アメリカの農場で働いていたメキシコ人労働者は邪魔者扱いされ、多くがメキシコに強制送還されましたが、第二次世界大戦が始まると一転して人手不足となり、アメリカはメキシコ人の労働力を必要とするようになります。

 そこで結ばれたのがブラセロ・プログラムです。メキシコ側に募集センターが設けられ、審査の上で雇用されることになったメキシコ人労働者はアメリカの農場に振り分けられる仕組みがつくられたのです。

 第二次世界大戦が終わった後もこのプログラムはつづけられましたが、1960年にCBSのドキュメンタリー「恥辱の収穫」が放送されると、移民労働者の厳しい実態に対する批判が強まり、結局、このプログラムは64年に終結します。ただし、このプログラムによってアメリカの雇用主とメキシコ人労働者の間には相互依存的なネットワークが形成されることになりました。これは後の非正規移民の増加にも影響を与えています。

 

 第2章で扱われているのは国家の意図せざる人の移動です。その代表例が非正規移民(不法移民)です。

 現在、アメリカには約1100万人の非正規移民がいるとされています。これは人口の約3.4%にあたり、それなりの規模です。アメリカでは1980年代以降、麻薬問題と絡んで非正規移民を取り締まる姿勢を示していますが、それでも非正規移民が減らないのは国境管理が難しいからです。

 1904年にわずか75人で発足したアメリカの国境警備隊は2012年には2万1000人の職員を抱えるまでになりました。それでも長大な国境のすべてを監視することは不可能ですし、密入国者を捕まえても強制退去にするだけであれば、彼らは再び国境を越えようと戻ってくるかもしれません。また、国境の警備を強化すれば一度入国に成功した人は帰りにくくなるでしょうし、そもそも観光や商用などの目的で合法的に入国し、そのままオーバーステイとなる非正規移民も多いのです。

 

 国境の管理には限界があるため、移民の送り出し国に協力を求めるケースも多いですが、限界もあります。例えば、スペインはアフリカにセウタ、メリリャという飛び地があり、ここを通して人や商品が非合法に越境してきました。

 スペインのEU加盟に伴ってここでの国境管理は格段に強化され、モロッコ政府にも協力が求められましたが、ここがスペインからモロッコへの密輸出の一大拠点になっていることは公然の秘密であり、完璧な国境管理がなされているわけではありません。

 また、国内の雇用主に圧力をかけるという方法や大々的な強制送還を行うという不法もありますが、人権に絡んでくる部分もあり、非正規移民を一掃する切り札とはなりえていません。

 そこで、非正規移民を合法化する措置もとられています。これによって雇用条件や教育水準が改善しするというプラス面はありますが、こうした措置はさらなる非正規移民を呼び寄せることにもなりかねません。

 

 国家の意図せざる人の移動の一例が難民です。かつてはオスマン帝国などの帝国の解体、インドとパキスタンの分離・独立などによって多くの人々が難民となりましたが、その概念は拡大しています。

 国内で移動を強いられている国内避難民も難民としてカウントされるようになっていますし、内戦の長期化とともに、難民キャンプで生まれ育つような人々も出てきています。

 2016年の時点で、世界中の強制的に移動させられた人々の総数は6560万人で、その内訳は認定された難民が2250万、国内避難民が約4000万、庇護申請者が280万人だといいます(110p)。

 送り出し国は、シリア、アフガニスタン南スーダンソマリアスーダンの上位5カ国で難民人口の55%を占めており、一方、受入国の上位はトルコ、パキスタンレバノン、イラン、ウガンダエチオピア、ヨルダンといった送り出し国の隣国が多く、先進国の受入人数は多くはありません(110-112p)。

 

 難民申請者のすべてが難民として認められるわけではありません。中には逃亡中の犯罪者、経済移民にすぎない者も混じっており、難民として認められない者もいます。

 ただし、彼らを強制送還するのは人権や人道の立場、そしてコスト面からも難しいです。またヨーロッパではある国で不認定となっても、別の国に移動して再び難民申請するケースもあり、不認定となりながら滞在する者も多いです。

 そこで、難民を移動中の洋上で捕捉したり、第三国の協力を得るケースもあります。イタリアは地中海を越えてくる難民を減らすためにリビアカダフィ大佐に協力を求めましたし、EUも急増する難民に対処するためにトルコに協力を求めました。

 

 結果として、多くの難民が途上国に滞留するようになっています。

 世界最大の難民キャンプと言われるケニアのダダーブでは2016年時点で約50万人のソマリア人が暮らしているといいます。この規模はナイロビ、モンバサにつぐケニア第三の都市と言っていいものであり、自治も行われていますが、ケニア政府はキャンプの住民が外に出て居住したり働くことを認めておらず、一種の閉鎖空間を形成しています。

 キャンプの中には映画館やサッカーリーグも存在し、ここ以外の場所に行ったことがないままに25年以上暮らしている世代も生まれています。キャンプに暮らす人々の中にはキャンプよりも劣悪な環境であるソマリアへの帰還を嫌がる人も多く8割が帰国を望んでいないといいます。また、このキャンプがイスラーム過激派組織の温床となっているという指摘もあります。

 ケニア政府はたびたび閉鎖を求めていますが、この規模まで来ると問題を先送りするしかないのが現状でしょう。

 

 第3章は「国家とそのメンバーシップ」と題され、国民の枠組みをめぐる問題が考察されています。 

 国民国家ができる以前、人々は地域共同体や宗教共同体に属していました。パスポートは携帯者の身分を証明するためにギルドや大学や軍司令官などが発行するもので、国家が携帯者の国籍を証明するという考えは希薄でした。

 ところが、アメリカの独立革命フランス革命後に国民国家が成立すると、国家と国民の結びつきは大きく変化します。移動の自由が市民的権利として保障されるようになり、それとともに誰が国家のメンバーなのかということをはっきりと確定させる必要が出てきたのです。

 

 移民国家のアメリカでは当然のように「誰がアメリカ人なのか?」という問題が持ち上がりましたし、フランスでもナポレオン法典の制定時に出生地主義血統主義かという問題が起こりました(徴兵可能な人数を増やしたいナポレオンは出生地主義を主張したが、結局はトロンシュの推した血統主義が通った)。

 さらにアメリカではアイルランド移民をめぐる米英の対立も起きます。1840年代の飢饉によって多くのアイルランド人が米国に渡ると、アメリカはアイルランド独立運動の一大拠点となります。しかし、当時のイギリスの国籍法では、アメリカに帰化してもアイルランド人はイギリスの臣民であり、その管轄権が問題となったのです。 

 1866〜71年までの間には、3度にわたってアメリカのアイルランド系の民兵組織が当時イギリス領だったカナダに越境攻撃をしかけたフェニアン事件も起こっています(ちなみにこの事件がカナダでのアメリカへの併合主義運動の影響力を削いだとのこと)。

 

 国民国家の成立と発展は、「国民」と「民族(人種)」の関係をより緊密なものとしました。アメリカではアジア系の移民を排斥する動きが起こりますし、ドイツでもドイツ統一後にエスニックなナショナリズムを重視する動きが起こり、ロシアやオーストリア国籍を持つポーランド人を追放する動きが起こっています。 

 ドイツは1913年の国籍法の制定で、さらに血統主義を強化し、「「異常なまでに厳密で一貫した血縁共同体」への道を歩んだ」(166p)とも評されています。

 

  第4章は移民コミュニティの受け入れをめぐる問題がとり上げられています。

 第二次世界大戦後の西欧先進国では、労働者不足を補うために一定期間を経て帰国することを前提として、いわゆるゲストワーカーが受け入れられましたが、彼らは帰国せずに、移民コミュニティは拡大再生産されました。

 各国は帰国奨励策などを取りましたが十分には機能せず、彼らをどのように統合するかが問題となってきます。

 

 そこで合法的な永住制度であるデニズンと呼ばれる制度が整備されてくることになります。

 定住外国人とデニズンの間の違いは永住権と労働市場、公的社会保障制度へのアクセスなどです。そして、デニズンと国民の相違の中心は参政権になります。

 近年、日本でも永住者への地方参政権を認めるべきだという議論があります。EUではマーストリヒト条約によってこの地方参政権が制度化されましたが、一方、デニズンに無差別の国政参加を認めているのはニュージーランドアイルランドウルグアイ、チリ、エクアドルの5カ国にとどまっています(181p)。

 ニュージーランドアイルランドについては安全保障環境に恵まれていることが一つの背景にあると考えられ、また、チリに関してはピノチェトが自らの政策を支持させるためにヨーロッパ系移民に投票権を与えたと考えられます。ウルグアイの要件は非常に厳しく、エクアドルは移民の送り出し国家であることが背景にあると考えられます。

 

 デニズンの先にあるのが帰化です。西欧諸国などを見ると血統主義から出生地主義へという流れがありますが、そう簡単には行かない地域もありました。例えば、バルト三国ではロシア系の人々の扱いが問題となりました。

 ロシア系の人々が少なかったリトアニアでは比較的簡単に国籍を取得することができましたが、ロシア系の住民が多かったラトヴィアやエストニアでは言語の能力などを国籍の取得要件に課しました。EU加盟に伴い、これらの厳しい要件は撤廃されていますが、言語の習得などの一定の条件を課す国は他にもみられ、190・191pの図4-2と図4-3を見るとテストを課す国が増えていることがわかります。

 また、重国籍も容認される流れとなっていますが、上記のバルト三国はロシアとの関係もあって重国籍に対して一様に慎重です。

 

 帰化をしたとしても文化的・社会的な統合が自然に起こるわけではありません。一時はそれぞれの文化を尊重し合う多文化主義が中心となりましたが、21世紀になると多文化主義に対する失望が大きくなっています。例えば、多文化主義の国として知られているカナダでも、旧ユーゴの内戦時にはカナダのクロアチア系住民とセルビア系住民がそれぞれラジオを通じて非難合戦を繰り広げましたし、長年、カナダに居住していたクロアチアの国防大臣シュシャクは、カナダにおけるクロアチア民族主義運動を組織し、資金を集めた人物でもありました。また、旧ユーゴに派遣されたカナダの部隊はクロアチア軍の攻勢にさらされています。

 こうした中で多文化主義ではなく「統合」を目指す動きが目立ってきていますが、例えば、比較的移民の統合が進んでいたと思われていたフランスでもテロ事件が起こっており、その前途は多難です。

 

 第5章で扱われているのは移民と送り出し国の関係です。

 ユダヤ人を念頭に母国から離散した悲劇の民という意味合いで使われてきた「ディアスポラ」という言葉は、その意味を拡張し、現在では「出身国に対する強い親近感をもった移民集団一般」(213p)を意味する用語として使われています。

 例えば、アフリカやカリブ海地域へと渡ったインド人の年季労働者は労働ディアスポラとして把握されていますし、ある帝国の本国から帝国内の植民地に移住した人々を帝国ディアスポラと呼ぶこともあります。さらに東南アジアに存在する華人コミュニティなどを交易ディアスポラと捉えることもあります。

 

 こうしたディアスポラに対して出身国はさまざまな理由から関与を続けることがあります。前述のフィリピンをはじめインドなども移民やディアスポラとの関係を取り持つ省庁レベルの部局を持っていますし、ドミニカ、あるいはイスラエルなどはアメリカにいるディアスポラに「ロビイスト」としての役割を期待しています。また、こうしたことを行うために重国籍やさまざまな特権を認める国も増えています。

 

 こうしたディアスポラが民族の解放運動や独立運動を支えることもあります。インドの独立運動を支えたのはアフリカ在住のインド人コミュニティでしたし、中国の革命には日本に来た留学生たちが関わっています。

 一方で、本国の分裂や対立がディアスポラのコミュニティに影響を与えることもあります。日本における在日韓国・朝鮮人などはまさしくそうです。

 逆にディアスポラが本国に大きな影響を与える可能性もあり、中国は天安門事件の際、在米の中国人学生のうち、「愛国的」な学生には賄賂を提供し、反政府的傾向のある者は帰国させ、強硬な反体制派には奨学金の差し止めなどとともに親族の海外渡航を禁止したそうです(239-240p)。

 こうした国家とそのメンバーの関係について、本書では現居住国の関与の強弱と出身国による関与の強弱によって4つの類型に分けています(244p図5-3)。

 

 終章では日本が直面する問題がとり上げられています。

 戦前の日本は多民族を抱える帝国でしたが、朝鮮や台湾への日本本土からの移民は比較的少数にとどまりました。一方、アメリカやブラジルなどに移民が送り出され、特に南米への移民は戦後になっても続きました。ところが、高度成長とともにその数は急速に縮小し、1974年に日本人移民を支援してきた海外移住事業団は、対外援助を担う国際協力事業団(JICA)へと再編成されています。

 

 そして、最近に日本では移民の受け入れが大きな問題となっています。安倍政権は「移民」という言葉は使っていませんが、事実上、すでに日本はかなりの規模の「移民」を受け入れているとも言えます(このあたりの問題について望月優大『ふたつの日本』講談社現代新書)を参照)。

 また、北朝鮮からの難民の流出の可能性も捨てきれいないですし、越境する人々をどう扱っていくかということは今後の日本にとって避けて通れない問題です。

 こうしたことに触れ、著者は最後に次のように述べています。

 ここで強調したいのは、人のアイデンティティは、エスニックな起源によって固定されているものではなく、さまざまな条件によって不断に再生産されるものだということであり、このことは当然移民にも当てはまる。(中略)したがって、ある移民コミュニティが、敵対的な出身国の支持者になるのか、それとも最悪の場合には、敵対的な外部勢力の側に追いやるかは、日本という国全体の器量が問われる問題である。言い換えれば、新たな日本の住民を、先住の日本人と、利益、苦節、そして未来も分かち合う日本のメンバーにできるかどうかは、弱者の人権の保護という理想の問題にとどまらず、日本の国力の行方を左右する問題でもある。(294p)

 

 ずいぶんと長いまとめとなってしまいましたが、これは本書が明確な主張や処方箋をもったものではなく、現実の問題を記述することに重点を置いた本だからです。

 国境を超える人々に対して、国民国家や民族といった枠組みを対置することもできますし、多文化主義や人権保障の理想を掲げることも可能です。もしくは経済面や世界システムのような理論から語ることも可能でしょう。

 しかし、どんな理論的な枠組みで語ってもそこからこぼれ落ちていく現象や人々があるということをこの本は教えてくれます。

 読んでスッキリする本ではないですが、多くのことを教えてくれる本です。