東京大学出版会の「U.P.plus」シリーズの1冊。このシリーズは現在起こっている問題に対して多数の専門家が寄稿しているムック本のようなスタイルですが、現在進行系のガザ紛争を扱うには適したメディアだと思います。
目次と寄稿者は以下の通り。
Ⅰ イスラエル・パレスチナ情勢
1.緊迫するガザ情勢と今後の見通し(鈴木啓之)
2.イスラエルの平穏を破ったパレスチナの絶望(錦田愛子:慶應義塾大学法学部教授)
3.イスラエルの世論はどう動いたか(保井啓志:同志社大学研究員)
4.ガザの陰に隠れた苦境(山本健介:静岡県立大学国際関係学部講師)Ⅱ イスラエル・パレスチナを取り巻く国際関係
5.感情とプラグマティズムの狭間で(今井宏平:アジア経済研究所)
6.石油武器戦略から仲介外交へ(堀拔功二:日本エネルギー経済研究所中東研究センター)
7.ガザ危機とアメリカ(三牧聖子:同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科准教授)
8.イスラエル・ガザ紛争と国際人道法(新井京:同志社大学教授)
9.国際連合とガザ情勢(江﨑智絵:防衛大学校准教授)
10.日本の対中東・パレスチナナ政策の展開(酒井啓子:千葉大学特任教授)
全体的に興味深い論考が多いですが、ここでは第1部のイスラエル・パレスチナ情勢の部分を中心に紹介したいと思います。
まずは、池内恵「10.7が中東地域に及ぼす影響」。2023年10月7日に起きたハマスによるイスラエルへの越境攻撃が中東政治に何をもたらしたかを指摘しています。
簡単に言えば、「パレスチナ問題こそが中東の最大の国際問題である、パレスチナ問題こそが諸問題の中東の根本原因であり、パレスチナ問題の解決なしには、中東の安定はない」(12p)という見解の復活です。
10.7以前の中東では、2020年の「アブラハム合意」でUAEとバーレーンがイスラエルとの国交正常化を行い、サウジアラビアとイスラエルの国交正常化も噂されていました。
「サウジアラビアはイスラエルとの国交正常化の条件としてパレスチナ問題の「解決(solution)」は求めず、解決に向けたなんらかの「進展(progress)があればいいという立場」(14p)だったとされています。
もし、サウジアラビアがイスラエルと国交正常化をすれば、アラブ諸国はイスラエルに妥協を求める交渉のカードをほぼなくすわけで、その時点でパレスチナ問題は国際問題としては「終了」する可能性もあったのです。
ところが、10.7の越境攻撃は再びパレスチナ問題を中東問題の中心へと引き戻しました。サウジアラビアとイスラエルの国交正常化も当分はできなくなったとみていいでしょう。
ただ、本稿ではそれでも国家としてイスラエルと戦おうとする存在がないことには変わりがないことを指摘しています。レバノンのヒズブッラーも大規模な戦闘に踏み切ろうとすることはなく、今のところ中東戦争が起きる気配はありません。
しかし、イスラエルの大規模な報復攻撃は、国際的な認識を「パレスチナ問題」から「イスラエル問題」に変えていく可能性があるといいます。
こうした中で、アメリカとイスラエルの関係が今までのような形で維持できるかが1つのポイントになるとの見立てです。
鈴木啓之「緊迫するガザ情勢と今後の見通し」と錦田愛子「イスラエルの平穏を破ったパレスチナの絶望」からは、追い込まれていたガザとパレスチナの状況が見えてきます。
鈴木論文によれば、2006年ごろから始まったイスラエルによる封鎖によってガザの人々は苦境に陥っており、2008年にはエジプトとの境界フェンスが破壊され70万ともいわれる人がエジプトに流入した事件が、2018年の「帰還の大行進」ではイスラエルとの境界に数百〜数千の人々が集結し、封鎖の解除を訴えました。
しかし、エジプトは事件後に境界線をより強固なものとし、「帰還の大行進」に対しては、イスラエルは催涙弾だけではなく、殺傷力を高めた銃弾で持って参加者の腕や足を狙撃しました。
このような状況下でガザ地区の失業率は2022年に47%、特に若者世代では64%に達しました。貧困ライン以下で生活する人々が65%、住民の80%がなんらかの人道支援に頼って生活するような状況になったのです。
錦田論文によると、ガザの封鎖によってガザで生産されていたイチゴや生花のイスラエルや欧州への輸出も止まり、さらに船が沖合いに出ることも禁止されたため、漁業も大打撃を受けました。イスラエルへの農産物の輸出は再開されますが、その数は限られたものでした。
池内論文で「イスラエル問題」との言葉が出たように、今後の鍵を握るのはイスラエル自身の動きなわけですが、保井啓志「イスラエルの世論はどう動いたか」を読む限り、なかなか明るい展望は見えてきません。
10.7以後に行われた世論調査を見ると、ネタニヤフ首相は必ずしも支持されているわけではなく、誰が首相に適任かという10月13日の調査でも、ガンツ48%、ネタニヤフ29%と元参謀総長のガンツに対する支持が上回っています。
しかし、イスラエルでは労働党の流れをくむ左派が低迷を続ける状態で、基本的に右派中心に政治が進んでいます。
実際、イスラエルの世論はかなり強硬的で、10月17〜19日に行われた世論調査の「イスラエルがハマースと戦っている時、国際法を遵守しなければならない」という考えに、「とても賛成する」36%、「ある程度賛成する」22%に対し、「ほとんど賛成しない」も42%います。
11月10日に行われた世論調査の、ハマース降伏後のガザについて、「イスラエルが地区を統治し続ける」と答えた人が44%、撤退を望むとした人も42%いますが、パレスチナ自治政府の返還とと答えた人はわずか8%で、33%は国際的な管理を望んでいます。
12月5日に公表された世論調査の「アメリカの援助を受け続けるために、イスラエルは二国家解決の方針を進めることに同意する必要がありますか」との問に対し、52%が「その必要はない」と答え、「必要がある」が35%にとどまっています。
12月19日公表の世論調査では、「ガザ地区の戦闘継続の企画立案においてどの程度パレスチナ人市民の苦痛を考慮する必要があるか」との問に対し、40%が「非常に少ない程度」、41%が「やや少ない程度」で、80%がパレスチナ人の苦痛を考慮する必要はないと考えています。
反イスラエルのデモが世界各地で広がっている理由についても、62%が「イスラエルへの憎悪と反ユダヤ主義的立場」と答え、「ガザ地区のハマースとの戦争における破壊とパレスチナ人への傷つけ」の7.5%を大きく上回っています。
どうやらネタニヤフが去るだけではガザでの非人道的行為がなくなるとは言えない状況なのです。
山本健介「ガザの陰に隠れた苦境」では、ガザ地区以外でのパレスチナ人の苦境が報告されています。
東エルサレムには多くのパレスチナ人が住んでいますが、彼らに与えられているのは市民権ではなく居住権で、税の支払い義務や公共サービスを受けることはできるものの、国政への参政権はなく、イスラエルのパスポートを取得することもできません。
10.7以降、ガザ攻撃に対する抗議やガザに住むパレスチナ人への同情は、「テロリスト支援」「テロの扇動」と非難されるようになっており、イスラエルの警察長官のコビ・シャブタイは「ガザに共感する人も歓迎するよ。今すぐにでもガザに向かうバスに乗せて、そこに行くのを手伝ってやろう」(65p)とTikTokにメッセージを流したといいます。
パレスチナ人は「反テロ法」によって厳しく取り締まられており、2023年11月には内務大臣のモシェ・アルベルがテロ組織への支持やテロ行為の扇動を行った者の市民権を剥奪する法案を検討中であると述べています。
また、東エルサレムに住む人々の居住権の剥奪を容易にする法整備も進んでいるといいます。
ヨルダン川西岸地区でもパレスチナ人への抑圧は続いていますが、さらにユダヤ人入植者による直接的な暴力にもさらされています。
特にイスラエルが単独で管理するC地区に関しては、パレスチナ人は入植者から暴力を受けてもパレスチナ人が頼ることのできる公的機関がない状況です。
10.7以降、1000人以上のパレスチナ人が移住を余儀なくされたとも言われており、また、イスラエルの極右政治家による暴力の扇動も続いています。
こうした中で、西岸地区のパレスチナ人の多くが入植者の暴力に対抗するには武装グループを結成するしかないと考えており、ここでも将来の衝突の火種が生まれている状況になっています。
このように本書を読んでも、ガザ紛争についての明るい展望は見えてこないわけですが、やはり厳しい現状を認識することが必要なのだと思います。
イスラエル社会がここまで被害者意識に凝り固まってしまっていると、そう簡単に変化は期待できないわけですが、やはりイスラエルの行動が国際法的にも人道的にも間違っているということを国際社会が訴えていくしかないのでしょう。
このあたりについては第2部を読むことで、ほんの少しではありますが展望が見えてくるようになっています。