手嶋泰伸『統帥権の独立』

 明治憲法のはらんだ大きな問題点であり、日本を戦争の道へと導いたとされる「統帥権の独立」の問題。

 タイトル通りに本書はこの問題を扱っているのですが、特徴は今まで注目されてきた陸軍の動きだけではなく海軍の動きも追っているところで、そこから「専門家集団としての軍」と政治の関係を描き出しています。

 この問題について一通りの知識を持っている人にとってもいろいろな発見がある本で、なかなか面白いのではないかと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 統帥権独立の確立へ―一八七〇~九〇年代
第2章 政党政治の拡大のなかで―一九〇〇~二〇年代
第3部 軍部の政治的台頭―一九三〇年代
第4章 日中戦争の泥沼―一九三七~四〇年
第5章 アジア・太平洋戦争下の混乱―一九四一~四五年

 

 明治になって近代的な軍の建設が始まったときに問題となったのが、出身藩への帰属意識と政治と軍事の未分化です。

 1873年には徴兵令によって徴兵が始まりますが、74年の佐賀の乱では大久保利通が士族兵を徴募して鎮圧にあたるなど、軍のあり方は政治によって大きく左右されていました。

 

 こうした中で山縣有朋は非政治的な軍の建設を1つの目標とします。軍人勅諭でも軍人の政治への関与を戒めました。

 この山県がつくったのが参謀本部ですが、その背景には西南戦争時に山県率いる本隊の他に黒田清隆率いる別働隊が組織され、軍事指導が混乱したという経験がありました。

 こうした経験と、自由民権運動の高まりによって民権政治家が軍の指揮に入り込んでくるのではないかという警戒感から1878年参謀本部条例が公布され、天皇直隷の機関として位置づけられます。

 

 ただし、当初は参議兼陸軍卿の大山巌参謀本部長を兼任したり、参議兼内務卿の山県有朋が兼任したりと、参謀本部の設立がそのまま統帥権の独立につながったわけではありませんでした。

 

 1889年に大日本帝国憲法が発布されます。第11条「天皇は陸海軍を統帥す」で統帥権を、第12条「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」で編成権を規定したと言われてます。

 ただし、ここで統帥権が明文化されたとは当時は捉えられておらず、陸軍も統帥権の独立は慣行だと考えていました。

 

 一方、海軍では1893年に軍令部が独立するまで海軍省が軍政・軍令を一元的に管理していました。

 軍令部の設立には、参謀本部が陸海軍の統合運用を目指して海軍の軍令機能も掌握しようとしたからです。これに反発した海軍は海軍軍令部を独立させ、ここに天皇のもとで参謀本部と海軍軍令部が並立する体制が出来上がります。

 著者は1903年に海軍軍令部が参謀本部と対等な地位を獲得したことをもって、統帥権の独立が完成したと見ています。

 

 統帥権の独立を支えていたのが「軍事の特殊専門意識」になります。軍事については軍人にしか担えないというもので軍部大臣現役武官制もこの理屈になります。 

 この制度が導入されたのは第2次山県内閣のときで、軍部大臣の資格を「将官」だけでなく「現役」に限っています。これは反山県派の四将軍(三浦梧楼、曾我祐準、谷干城、鳥尾小弥太)を大臣にさせないための措置でもありました。

 

 この軍部大臣現役武官制が第2次西園寺内閣の退陣につながるわけですが、山県と陸軍大臣だった上原勇作の意思疎通はできておらず、山県としては不本意な倒閣でした。

 しかし、この出来事を機に軍部大臣現役武官制の問題点が認識されるようになり、第1次山本権兵衛内閣のもとで軍部大臣の任用範囲は予備役・後備役にも拡大されました。

 山本は予備役・後備役への拡大は認めたものの文官の任用には否定的で、山本も当時の陸軍も「軍事の特殊専門意識」はもっていました。

 

 日露戦争後の1907年に帝国国防方針が策定されます。日露戦争後の防衛戦略の修正や陸海軍の予算編成を巡る対立が激化する中で陸海軍の戦略を一致させる必要などがあったことから、参謀本部第一部長の田中義一が中心的な役割を果たしてまとめられました。

 

 しかし、これらの計画は「統帥」に属することであり、当時の首相の西園寺公望にさえ用兵綱領の閲覧は許されませんでした。

 このため、それを実現する予算を獲得するときにも、その根拠たる国防方針を秘匿したまま予算を要求することになります。それもあって陸軍の2個師団の増設には約8年、海軍の八八艦隊の予算が認められには約13年の時間がかかりました。

 軍部もある程度手の内を明かしながら予算を要求することになっていきます。

 

 こうした中で田中義一は政党と協調しながら軍の要求を通そうとしますが、同時に参謀総長の権限を弱め、陸相の権力を強化することも画策していました。

 参謀本部陸軍省の下に置こうという考えは参謀総長の上原勇作に拒否されますが、清浦奎吾内閣における陸相人事では、上原が長老級の軍人が後任を決めるべきだとしたのに対して、田中は三長官(陸相参謀総長教育総監)による合議による決定を主張し、この方式を確立します。

 

 一方、原内閣のもとでは軍部大臣文官制の議論が高まります。

 ワシントン会議に全権として海相加藤友三郎が派遣されますが、出張中に誰が事務を執るのかということが問題になります。このとき、原は自らが海相を兼任して事務を管理することとしました。

 臨時の兼任とはいえ文官が軍の事務を見ることになったわけですが、海相加藤友三郎はこれを問題にせず、陸軍内の反対も田中義一の周旋で収まりました。

 加藤友三郎海軍軍縮条約締結の際の軍令部長加藤寛治の反対にも悩まされており、こうしたこともあって軍部大臣文官制を模索していきます。

 加藤友三郎は首相にも就任しますが、加藤内閣で海相に就いた財部彪は文官大臣に強く反対しており、加藤の死去後はむしろ文官大臣を許さない風潮が強まります。

 

 1930年、ロンドン海軍軍縮会議のときに持ち上がったのが統帥権干犯問題です。

 このときに全権の一人となったのが海相の財部彪で(海相事務管理浜口雄幸首相)、文官大臣反対論者でしたが、ロンドン会議では首席全権を文官にすることにこだわりました。もし、自らが全権となって会議を決裂させてしまえば海軍が全責任を負うことになるからです。

 ここからも財部の文官大臣反対は海軍内の求心力を保ち、海軍の発言力を強めるためのものだったことが見えてきます。

 

 海軍では加藤寛治軍令部長や末次信正軍令部次長などが条約の批准に反対しましたが、政府が批准するのであれば、それは致し方なく国防方針を変更せざるを得ないというスタンスでした。

 こうした中で美濃部達吉は「軍の編成を定むることについての輔弼の機能は、専ら内閣に属する」(107p)と主張し、内閣の思惑を超えて軍を刺激しました。当時、兵力の編成については政府と軍の「共同輔弼」とすることで落ち着いていましたが、美濃部の考えはそれを踏み越えるものだったからです。

 

 ここで政友会の鳩山一郎が「統帥権干犯」を議会で問題視したことで盛り上がり、さらに陸軍もこの批判に加わりますが、海軍は鳩山に賛同しませんでした。

 しかし、幣原外相が貴族院本会議で「少なくとも其協定期間内に於きましては。、国防の安固は十分に保障せられて居るものと信じます」(108p)と発言すると、これを国防の可否に踏み込んだものとして批判します。海軍は志手原の発言を「軍事の専門性」に対する挑戦と捉えたのです。

 

 1931年、いわゆる満州事変が勃発します。この満州事変は政府が抑えようとしたにもかかわらず軍が暴走したということで、統帥権の独立の弊害が出たものとして捉えられています。
 ただし、著者はここでの問題は陸軍内部の統制の問題であって統帥権の独立ではないといいます。

 

 陸軍では長州閥に代わって陸軍内を掌握した宇垣グループに対して、中堅幕僚将校らが荒木貞夫、真崎甚三郎といった将軍を押し立てて主導権を取ろうとして派閥対立が激化していきます。

 さらに満州事変勃発後の1931年12月に荒木貞夫陸相になると、荒木が露骨な皇道派優遇の人事を行ったことで陸軍の要職に軍政経験の浅い者が就くことになります。これが陸軍における陸軍省優位体制を覆していくことになります。

 同時期に参謀総長閑院宮載仁親王が就任したことも参謀本部の権威を高めることとなり、統帥部の独断専行が目立つようになっていきます。

 海軍でも平沼内閣運動と相まって軍令部の権限拡大が目指され、海軍でも海軍省優位体制が動揺しました。

 

 二・二六事件後、広田弘毅内閣のもとで軍部大臣現役武官制が復活します。それとともに後任陸相を推薦する三長官会議が停止され、陸相が三長官会議を経ずに決める方式となりました。

 これは陸軍から「粛軍」のために必要だということで出てきたもので、海軍も陸軍が「必要」だというならという形で軍部大臣現役武官制の復活を受け入れています。

 軍内部の統制の乱れが、結果的に統帥権の独立を強化するような動きが続いたと言えます。

 

 盧溝橋事件から始まった日中戦争のおいても陸軍内の統制の乱れは深刻でした。

 さらに、アメリカの中立法の影響もあって、実質的には「戦争」であっても「支那事変」というように「事変」扱いだったために大本営も設置できず、政府が一枚岩になれないままに戦闘が拡大していきます。

 

 この時期になると「国務」と「統帥」を統合できる元老や政党のような存在も不在になり、統一的な戦略を立てることが難しくなっていきます。

 この問題は陸軍の中堅幕僚にも認識されており、陸軍軍務局軍務課国内班長だった佐藤賢了なども内閣機能の強化を求めていましたが、憲法での大臣が個別に天皇に輔弼の責任を負うという規定があったために、内閣機能の強化は進みませんでした。

 

 1940年、陸軍は軍部大臣現役武官制を使って米内内閣を倒し、第2次近衛内閣の成立へと動きます。その理由の1つが新体制運動で、陸軍は近衛が強力な指導力を発揮して戦時体制の整備を行うことを期待していました。

 しかし、近衛の新体制運動も骨抜きにされ、陸軍が期待するような戦争を主導する主体は生まれませんでした。

 

 第5章ではアジア・太平洋戦争時の出来事が分析されていますが、興味深いのは著者が対米開戦の責任のけっこうな部分を海軍に求めている点です。

 

 1940年7月から戦争指導のために「大本営政府連絡会議」が設置されます。出席者は首相、陸海外相、陸海統帥部長(ただし当時の陸海軍の統帥部長は皇族だったため、次長が代理や随行で出席)でした。

 ただし、形式的なものにならざるを得なかったので、40年11月には「大本営政府連絡懇談会」が設置されます。

  

 1941年11月、日本はアメリカからハル・ノートを示されたことで対米開戦を決意します。外交を担当する外務省はここで対米交渉をあきらめるわけですが、それはこの時点で海軍が対米戦を決意していたからです。

 このとき、海軍は国力全体の問題は海軍単独では判断できないと主張し、海軍以外の主体は対米戦の主管者である海軍が判断すべきだと主張していました。

 このようなムードの中で41年10月の大本営政府連絡会議の中で、海軍は対米戦はできないとは言わずに、全体としてできそうなムードな中で開戦の流れが決まっていくのです。

 

 開戦後も戦争の統一的な指導体制の構築は問題となり、東條英機首相兼陸相はさらに参謀総長を兼任することでこの問題を乗り越えようとします。当然、陸軍から反対もでますが、東条は自分は陸軍大将だと言ってこれを押し切ります。

 海軍でも嶋田繁太郎海相軍令部総長を兼任することになり、ここに「統帥権の独立」はあっけなく踏み越えられました。

 一方、東条が参謀総長という統帥の責任者にもなったことで、東条はサイパン陥落という作戦上の責任を負わされることになります。

 

 結局、日本は終戦まで「国務」と「統帥」の対立と、軍内部の統制という2つの問題を抱え続けました。著者は終戦時に二度の聖断が必要だったのは、1度目で「国務」と「統帥」の対立の中で「国務」に軍配を上げつつ、さらに軍内部の統制に対する手当が必要だったからだとみています。

 

 このように本書を読むと、「統帥権の独立」という言葉で語られている問題が、「国務」と「統帥」を統合する主体の不在と、軍内部の統制の問題という2つの問題に起因していることがわかります。

 大日本帝国憲法の問題点としても「統帥権の独立」が単独であげられることが多いですが、大臣の単独輔弼など、他に条文とあわせた問題点の把握が必要だということも見えてきます。

 

 こうなると、他国における軍部の統制のあり方(日本はなぜあんなにグダグダだったのか?)も気になってきますが、とりあえず、本書は今までとは少し違った視点から「統帥権の独立」について考えさせてくれる本と言えるでしょう。