鶴岡路人『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』

 去年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まって以来、多くの専門家が状況の変化に伴走する形でテレビや新聞、雑誌などのメディアでこの戦争に関する分析を提供してきましたが、著者もそうした専門家の一人です。

 もともと著者は欧州現代政治や国際安全保障を専門としており、『EU離脱』ちくま新書)などの著作がありますが、今作もタイトルに「欧州戦争としての」とあるように、「ヨーロッパ」という切り口からこの戦争を分析しています。

 国際情報サイトの「フォーサイト」に書かれた文章が中心ですが、内容が細切れだったり重複してしまっている感じはなく、一貫した内容のある分析が読むことができます。

 

 目次は以下の通り。

第一章 ウクライナ侵攻の衝撃
第二章 ウクライナ侵攻の変容
第三章 結束するNATO
第四章 米欧関係のジレンマ
第五章 戦争のゆくえと日本に突きつけるもの

 

 今回の戦争はロシアとウクライナの間の戦争ですが、重要なプレイヤーとなっているのがNATOです。

 そもそも、プーチン大統領は戦争を起こした理由としてNATOの東方拡大とウクライナNATO加盟阻止をあげていました。

 

 ただし、本書で指摘されているように、「NATOの不拡大約束」というのは1990年2月にベーカー国務長官の発言をもとにしていますが、文書化された合意があったわけではありません。また文脈としても東ドイツを念頭に置いたものでした。

 さらにウクライナはすぐにNATOに加盟できる状況ではありませんでしたし、実際、ウクライナへのNATO部隊の派遣といった選択肢は最初からありませんでした。

 

 このNATOについて書かれたものとして面白いのが第3章にある「NATOの冷戦後はなんだったのか」という文章です。

 NATOは対ソ連の軍事同盟であり、冷戦の終結後にNATOがなくなるというシナリオもありえました。

 ドイツ統一の交渉過程において、統一ドイツがNATOに帰属するということが決まったことからNATOの存続は決まりましたが、その後はユーゴスラヴィアでの紛争への介入、アフガニスタンでの治安維持など、抑止のための同盟というよりは平和構築のための活動が中心になっていきます。

 

 しかし、これに再考を迫ったのが2008年のロシア・ジョージア紛争です。ジョージアNATO加盟国ではありませんが、加盟国の領土防衛の必要性を改めて認識させた出来事でした。

 さらに2014年のロシアによるクリミア併合とドンバスへの介入によって、ロシアをパートナーとして位置づけることは難しくなり、NATOはロシアに対する集団防衛という性格を強めていくことになります。

 

 ロシアの言い分としては、ロシアの国力が弱かったときにNATOがどんどんと当方に拡大し包囲網をつくられたという認識なのかもしれませんが、ロシアの周辺国に対する行為がNATOを再活性化させたという面も大きいわけです。

 そして、2022年のウクライナ侵攻をきっかけに、フィンランドスウェーデンNATO加盟へと動きました。これは今回の侵攻によってNATOの「内」にいるのか「外」にいるのかが決定的に重要になったからです。

 

 また、つづく「北欧に拡大するNATO」に書かれているように、ロシアが2021年12月にNATOのさらなる拡大停止を含んだ条約案を示したことが(アメリカ向けの提案では旧ソ連諸国のみが対象だったが、NATO向けの提案では「いかなるNATO拡大も慎む」(180p)となっていた)、フィンランドスウェーデンの加盟を後押ししたといいます。

 「入るか/入らない」という選択肢があるうちは入らなくてもいいが、選択肢がなくなるならば、入らざるを得ないという判断が働きました。結果的にロシアに対するNATOの圧力はますます強まりました。

 

 ブチャでの虐殺が明らかになったことはNATO諸国にも大きな衝撃を与えました。今まで、バルト三国の防衛についてはロシアの占領を一旦許した上で反撃するというプランが考えられていましたが、それでは市民に甚大な被害が出てしまうということになったのです。

 

 このように今回の戦争を機にしてその重要性が確認されたNATOですが、2017年にトランプ政権が誕生してからしばらくは存続の危機に陥っていました。

 トランプは貿易や防衛費の低さなど主に経済的な部分でヨーロッパを批判し、ヨーロッパではアメリカへの信頼低下が語られるといった状況でした。

 

 2021年に大統領がバイデンに代わったことで米欧関係は好転に向かいますが、それでもアフガニスタンからのアメリカ軍の撤退では、欧州からするとアメリカが一方的に決めてしまったという思いが強く、不満が高まりました。

 ただし、アフガニスタンからの撤退は、欧州から見ると単純なアメリカの「弱さ」の現れとは言えず、むしろアメリカ抜きでは何もできないというアメリカの「強さ」を認識させるものだったと著者は指摘しています(229−230p)。

 

 今までNATOについて述べてきましたが、ヨーロッパの興味深い点はNATOだけではなくEUという組織もあることです。

 フィンランドスウェーデンも以前からEUには加盟しており、EU条約(リスボン条約)には第42条7項という文言上は集団防衛だと解釈できるような軍事侵略の際に相互支援を定めた条項があります。

 こうした規定がフィンランドスウェーデンNATO加盟を橋渡ししたとも言えます。

 

 EUについても2010年代はさかんにその「危機」が叫ばれており、今回の戦争においても親露的な姿勢をとるハンガリーなどをあげて、その「結束の乱れ」を指摘する声もあります。

 しかし、対露経済制裁などでは対象の除外などをめぐって各国の駆け引きがあるものの、特定の国が拒否権を使って制裁案がひっくり返ったということはありません。

 もちろん、ヨーロッパの中にも温度差はあり、ロシアと地理的に近い国のほうがウクライナ支援に積極的ですが(対GDP比だと1位がエストニア、2位がラトヴィア、3位がポーランドリトアニア(135pの図参照)、ウクライナ支援に大きな反発は出ていません(個人的には「EUの問題児」的な性格が強かったハンガリーポーランドで対応が分かれたことはEUにとってはプラスだったのではないかとも思う)。

 

 また、この戦争が落ち着いたあとのウクライナの安全保障についても、ロシアがウクライナNATOへの加盟阻止を戦争の目的として掲げていた以上、ロシアが完全に敗北しない限りウクライナNATO加盟は難しいですが、EUへの加盟であれば可能性はあります。

 EU加盟のためにはウクライナのガバナンスの改善などさまざまなハードルがありますが、ウクライナはロシアによる侵攻直後にEUへの加盟申請を行っており、EU加盟を通じた安全保障というのは十分ではないにしろあり得るシナリオでしょう。

 

 本書では、この他にもこの戦争をどのように語るべきなのかという問題や、経済制裁とエネルギーの問題、台湾を含むアジアへの影響など、さまざまな問題を論じています。

 同時に「欧州戦争としての」という視点が一貫しており、この戦争をアメリカとロシアの「代理戦争」とする見方を修正してくれます。

 もちろんアメリカは大きなプレイヤーなのですが、そこに戦場と隣り合うヨーロッパという視点を入れることで、この戦争がもたらした衝撃と国際政治の動きをより深く追える形になっています。