S・C・M・ペイン『アジアの多重戦争1911-1949』

 満州事変から日中戦争、太平洋戦争という流れを「十五年戦争」というまとまったものとして捉える見方がありますが、本書は中国における1911年の清朝崩壊から1949年の中華人民共和国の成立までを一連の戦争として捉えるというダイナミックな見方を提示しています。

 一連の戦争と書きましたが、著者はこの時期の中国において、「内戦」、日本との「地域戦争」、そして太平洋戦争を含む「世界戦争」という3つの戦争が重なり合う形で進行していたとしています。

 内戦下の中国において経済的な権益を求めた日本は地域戦争を引き起こし、日中戦争という地域戦争の処理をめぐって日本は世界戦争に突入して敗北します。そして日本の引き起こした戦争が、共産党に内戦の勝利をもたらしたのです(逆に言うと国民党に敗北をもたらした)。

 

 本書の面白さはこの流れを重層的に描いている点です。副題は「日本・中国・ロシア」となっていますが、これにさらにアメリカの視点を加えて、この多重戦争をさまざまなアクターの立場から分析しています。

 日本の歴史だと、どうしても1941年の12月以降は米英との戦争にフォーカスが移ってしまい、継続していた日中戦争がどのように行われ、それがいかなる意味を持っていたのかということに関しては語られることが少ないですが、本書を読んで改めて日中戦争におけるさまざまな可能性のようなものが見えてきました。

 蔣介石の日中戦争終結後の内戦における失敗も含めて、「歴史のif」を考えさせる内容になっており、非常に面白いです。

 

 著者はロシア史と中国史の博士号を取得したあとに、中国、台湾、日本、ロシアで研究と語学の研鑽をし、アメリ海軍大学校の教授となった人物で、それぞれの地域の史料を駆使しながら、この戦争を立体的に叙述・分析しています。

 ちなみに本書では、ソ連時代のことも「ロシア」と表記しています(君主制だろうと共和制だろうとフランスはフランスだという理由)。

 

 目次は以下の通り。

第一部 恐怖と野心――日本、中国、ロシア
 第一章 序論――第二次世界大戦のアジアにおける起源
 第二章 日本 1931-36年――ロシアの封じ込めと「昭和維新
 第三章 中国 1926-36年――混沌、そして天命の探究
 第四章 ロシア 1917-36年――迫り来る二正面戦争と世界革命

第二部 多重戦争――世界戦争のなかの地域戦争、地域戦争のなかの内戦
 第五章 1911年、中国の長い内戦の始まり
 第六章 地域戦争――日中戦争
 第七章 世界戦争――第二次世界大戦
 第八章 長い内戦の終幕
 第九章 結論――地域戦争の序幕、世界戦争の終幕としての内戦

 

 中国では王朝が崩壊したあとに長い混乱があり、さまざまな争いを経て新しい王朝が誕生しますが、清朝崩壊後もそうでした。

 ただし、今までの王朝の崩壊劇と違ったのは日本というアクターがこの争いに深く介入したことです。

 

 日本は日露戦争以降、満州に大きな投資を行っており、1931年までには満州は中国の工業の中心地になっていました。

 この満州における権益を守るということは、日本の政治家と軍人の了解事項でしたが、1931年9月、関東軍石原莞爾板垣征四郎らは、軍事行動によって満州を中国の支配から切り離すことを目指します。

 

 中国の国民政府は経済的な自立を強め、世界恐慌後の1931年には関税を大幅に引き上げました。これは日本にとって大きな打撃であり、関税以外の中国側の債務不履行、排日教科書、そして満鉄に打撃を与える鉄道路線の建設なども含めて、中国に対して何らかの措置をとるべきであるという声が高まっていたのです。

 

 満州国の建設は経済面に限ればうまくいきました。日本からの投資もあって1945年の時点で満州は1人あたりの所得が中国のそれ以外の地域に比べ50%高い状態でした(37p)。日本の内地をのぞけばアジアでもっとも工業化が進んだ地域となり、貨幣や税制、法制度の改革なども進みます。

 

 ただし、満州の占領は長城以南の中国民衆の激しい反発を招きました。日本製品に対するボイコットが怒り、反日感情が渦巻くことになります。

 これに対して、日本は力でこれを抑え込もうとします。河北省や内蒙古で日本は国民政府に圧力をかけて譲歩を引き出し、さらに華北分離工作を進めます。

 国内でも景気回復の立役者で、軍事予算の膨張を抑えていた高橋是清二・二六事件で暗殺され、力による対中国政策を押し止める勢力はいなくなってしまいます。

 

 一方の中国では1925年に孫文が亡くなったあと、国民党の主導権をめぐって争いが起きました。政治家としては胡漢民と汪精衛(汪兆銘)が期待されていましたが、この争いに勝ったのは軍事力を頼みにした蔣介石でした。

 蔣は日本と中国で軍事教育を受けますが、1923年にロシアを視察し、ロシアから軍事顧問を受け入れて黄埔軍官学校を設立します。国民党の陳誠や何応欽だけでなく、共産党林彪周恩来もこの学校の出身となります。

 

 1926年に蔣介石は国民革命軍の総司令に就任し北伐を開始します。そして上海に到達すると今度は共産党の粛清を始めるのです。

 ロシアとの関係が切れた蔣は周囲からの圧力もあって辞任します。辞任後の27年の秋に、蔣は訪日して田中義一と秘密裏に会談しています。蔣は反共でさえあれば日本は中国の統一を容認すると見ていましたが、日本にとっては中国は分裂していたほうが好都合でした。この年に蔣は大富豪の娘である宋美齢と結婚しています。

 

 このあと復帰した蔣介石は北伐を進め、日本との衝突もあったものの、28年に北伐は完了しました。

 一方、日本は逃げ帰ってきた張作霖を爆殺する事件を起こしており、満州権益をどのように守っていくかが課題となります。

 

 1935年に国民政府は幣制改革に取り組むなど改革を進めますが、支配地域の中核である江蘇・浙江・安徽・江西・湖南の5省以外では徴税できませんでした。

 また、輸出が増えるなど経済は好調でしたが、関税の引き上げによって打撃を受けた日本が密輸を奨励したこともあって関税収入は落ち込みます。

 

 また、国民政府の軍は寄せ集めであり、馮玉祥にしろ閻錫山にしろ国民党の広西派にしろ、蔣に忠誠を誓っているわけではありませんでした。このために地方の部隊は地元以外には展開したがらないことがありましたし、逆に蔣は地方の部隊をあえて本拠地から離れた場所に派遣したりしました。

 

 蔣は、日本に対して宥和的な政策を取りながら、国内の敵、特に共産党を壊滅させる作戦に力を入れます。

 しかし、日本は満州国の承認を含めて、中国側が呑めない形の提案をしていきます。それでも1931〜36年にかけて、蔣は「空間を犠牲にして時間を稼いだ」(98p)のです。

 

 こうしたな日中の対立の中で巧妙に立ち回ったのがロシアです。

 ロシアには安全保障の原則として、二正面作戦を避けること、国境沿いに大国をつくらせないこと、という2つのものがありますが、そのためにはヨーロッパが安定しない中で日本と対立すること、統一された強力な中国が誕生することは避けるべきことでした。

 

 1921年ソ連外蒙古を切り離して共産主義国家を誕生させ、1929年には鉄道利権の返還を求めてきた張学良を奉ソ戦争で破っています。

 スターリン共産党だけではなく、馮玉祥や張作霖、盛世才といった軍閥に資金を提供していますが、これは中国の内戦を長引かせるための投資でした。

 

 1933年にドイツでナチ党が権力を掌握すると、ロシアは二正面作戦を避けるために極東で動きます。日本とドイツが接近すると、ロシアは国民党にもさまざまな支援を与えていきます。

 日本とドイツと蔣介石には共産主義という共通の敵がいたはずですが、日本が蔣に圧力をかけすぎたこともあって、蔣と共産党とロシアが対日本で結びついたのです。

 

 1936年12月の西安事件によって蔣介石は共産党への攻撃を停止し、抗日へと舵を切ります。謎の多いこの事件ですが、これ以前から蔣はロシアからの軍事援助の必要性を痛感しており、また、この直前に日本とドイツが防共協定を結んだことを考えると、蔣にはこの道しかなかったとも言えます。

 このとき毛沢東は蔣の処刑を望んでいましたが、ロシアは考えを改めるように圧力をかけ、ロシアの仲介によって蔣の命は救われます。

 一方、日本は共産党と組んだ蔣に対して敵意を燃やすようになり、これが日中の全面的な戦争へとつながっていきます。

 ロシアは西安事件とその後の外交によって二正面作戦を避けることに成功したのです。

 

 清朝の崩壊以降、中国は長い内戦の中にあり、蔣介石による統一も各軍閥面従腹背の中で成し遂げられたものですが、日本の存在が蔣をその地位につなぎとめたとも言えます。日本と戦うには蔣が必要だったからです。

 近衛文麿は中国での日本の勢力圏の設定をわが国の生存権確保のために必要としていましたが、これは中国での戦いに国の存亡をかけるということでもあります、当然ながらこの戦争には中国の存亡もかかっており、これがゆえに日中戦争は簡単にはかいけつできないものとなりました。

 

 1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まったということになっていますが、本書によれば日中戦争のはじまりは1931年です。塘沽停戦協定によって満州事変は終わりますが、その後も日本は中国の軍閥などと戦い続けており(著者は「華北戦役」と呼んでいる)、戦いは続いていたのです。

 馮玉祥は「日本と戦えば仇敵が同志になる。日本と戦わなければ同志が仇敵になる」(164p)との言葉を残していますが、日本の圧力がバラバラだった中国の軍閥をまとめあげました。

 

 盧溝橋事件後、日本は短期決戦を志向しましたが、蔣介石は兵力で上回る上海での戦いを望みます。

 日本軍は中国側の挑発に乗る形で上海で戦端が開かれ、37年の8月から11月にかけて激戦が行われました。この戦いは日本側の勝利に終わり、中国側は大きな損害を出します。

 しかし、日本は欧米との関係を悪化させ、さらに南京でのものを含む現地での暴力行為によって中国人の反感を買い、中国のナショナリズムを強めます。

 

 結果的に、日本は作戦レベルでは成功しても戦略面では行き詰まります。日本軍は1938年3〜5月に行われた徐州会戦に勝利し、さらに武漢の攻略を狙います、

 一方、蔣介石は日本の進攻を阻むために河南省黄河の堤防を決壊させるという作戦を行い、これによって90万人近くの犠牲者が出て、390万人近くの人々が避難民になったと言われます。

 

 38年10月に日本は武漢を陥落させて華北と長江流域という中国でもっとも経済的に発展した地域を支配下に置きます。

 蔣介石はドイツを頼みとしていて、養子の蔣緯国はドイツ陸軍に入隊しており38年のオーストリア侵攻に参加するくらいでしたが、日本との関係から国民政府への援助を打ち切ります。アメリカもドイツと近い国民政府を警戒しており、ロシアだけが頼りの状況でした。

 ロシアは38年の張鼓峰事件、39年のノモンハン事件と、蔣が危機に陥ると軍事行動を起こして蔣を助けました。

 

 第2次世界大戦が始まると、日本はイギリスに圧力をかけてビルマ公路を閉鎖させ、国民政府に圧力をかけますが、この頃になると日本軍の対国民党軍の軍事行動が、かえって共産党の伸長を許す展開となり、蔣介石がゲリラ戦を展開したことも重なって、日本軍は占領地での対ゲリラ戦に忙殺されることになります。

 蔣は、日本軍と戦いながら軍閥の力を削ぐことも同時に進めていきます。ただし、国民党が行った焦土作戦は、共産党の宣伝で格好の標的とされました。

 一方で、日本も共産党の支配地域に対して「三光作戦」という焦土作戦を行い、中国人の支持を失っていきます。

 

 日本の当初の目的は満州を日本の主権下に置くというものでしたが、それが華北への支配地域の拡大、重慶の体制転換と際限のないものになっていきます。

 日本が戦いを進めれば進めるほどそのサンクコストは大きくなり、それにともなって中国への要求はエスカレートしました。

 さらに第一次近衛声明は蔣介石との交渉を否定し、第2次近衛声明では「東亜新秩序」という形で国際体制を否定します。これによって今まで距離をとっていた米英も蔣を支援するようになり、日中戦争は対米英関係ともリンクしはじめます。

 38年の徐州会戦のあとでは、中国側は満州国を間接的に承認する譲歩案を用意しますが、日本は蔣の下野など要求を釣り上げており、交渉はうまくいきませんでした。

 

 日本は汪精衛(兆銘)の懐柔に乗り出し、汪と蔣を天秤にかける形で交渉を行いますが、蔣は汪政権が結んだ協定の破棄などを求めてまとまらず、40年11月に日本は汪政権を正式に承認しました。

 しかし、それで戦局が好転するわけでもなく、自給自足経済圏の確立のためにはじめた日本の中国侵略は中国経済の崩壊をもたらし、日本の経済も膨れ上がる軍事費の犠牲になっていくのです。

 

 アメリカは当初、中国に対して強く干渉する姿勢を示しませんでしたが、次第に日本への警戒を高め、1939年には国民政府に借款を供与し始めます。

 一方、日本の松岡外相は日独伊三国同盟によってアメリカが対日開戦をあきらめ、これにロシアも加われば国民政府への援助も打ち切られると読んでいますたが、これはまったくの的外れでした。

 松岡が結んだ日ソ中立条約は国民党と共産党を憤慨させますが、米英から蔣への援助はなくならず、日ソ中立条約によってアメリカの軍事援助はロシアに届けられました。

 日本はロシアとドイツの和平を仲介しようとしますが、「日本がドイツにロシアと戦ってほしくなかったように、ドイツも日本に中国と戦ってほしくなかった」(235p)のです。その意味で日独の同盟はちぐはぐなものでした。

 

 日本は蔣介石への援助ルートを塞ぐことに力を入れますが、そのために行われた南進はアメリカとの関係をさらに悪化させ、結局は対米開戦へと行き着きます。

 また、アメリカも日本の軍事行動を抑止することには失敗しました。アメリカが成功したのは「自国ではなくロシアに対する日本の攻撃だった」(243p)と言えます。

 

 日本が新たな戦争をはじめ、アメリカからの軍事援助が国民政府へと届くようになったことで、中国の空は日本軍の独壇場ではなくなり、日本の部隊も南方へと回されます。

 「日本の征服活動は、作戦がうまくいくほど戦略が行き詰まっていくという関係に」(258p)ありました。征服地の拡大は新たな負担となり、国家を破綻させていったのです。日本の征服活動がどこまで可能だったかという問いに対して、著者は「おそらく「満州」までだっただろう」(258p)と述べています。

 

 アメリカは日本と直接戦うとともに中国にジョセフ・W・スティルウェル陸軍中将とクレア・L・シェノールト陸軍少将を派遣しましたが、二人は戦い方めぐって激しく対立していました。

 スティルウェルは中国語を話せましたが部隊を指揮した経験はありませんでした。彼は地上軍同士の対決で決着をつけることを考えておりビルマ戦線に固執しました。一方、シェノールトは航空部隊育成のために蔣介石から雇い入れられた人物であり、空からの戦いを重視していました。

 

 1943年に蔣介石は日本との和平交渉を模索しますが、日本側の提示した条件が高すぎて流れます。

 一方、スティルウェルの作戦計画に従って嫌々ながらビルマ方面に進出しますが、蔣は送った部隊は日本軍に敗れました。

 その後も蔣の要求に対してアメリカは冷淡で、蔣は日本との和平をちらつかせますが、「蔣が二枚舌交渉によってどんなに良い条件を引き出そうとしても、アメリカが提示する条件のほうがきまって、日本のものよりはまし」(265p)だったのです。

 

 久しく停滞していた日本軍でしたが、1944年4月に一号作戦を発動させます。華南中部を打通し、内陸の輸送路を構築するこの作戦によって、国民党側は河南、広西、広東、福建の各省の大半と貴州省の広範な地域を失います。1945年のはじめまでに日本は中国の内陸部に陸上交通路を切り開き、アメリカの飛行場の多くを制圧しました。

 このころになると日本は海からアメリカに迫られており一号作戦の成功は戦争全体の転換点にはなりませんでしたが、中国の内戦には大きな影響を与えました。

 国民党が排除されたことによって共産党が華中に浸透していくことが可能になったのです。

 また、蔣とアメリカの関係が悪化した一方で、重慶にいた周恩来はメディア戦で巧みに立ち回りました。

 こうした中で、1945年の8月に日本は降伏します。日本は相当数の兵力を中国大陸に貼り付けたまま、アメリカに敗れました。

 

 しかし、日本は国民党の軍隊を壊滅させ、中国農村部で共産党の伸長を阻んでいた共同体を破壊していました。こうしてできた空白を埋めたのが共産党です。

 共産党は土地の再配分によって貧しい農民たちの支持を得て、その影響力を広げていきました。

 

 日本の敗退後、共産党満州へと進出します。日本が残した武器とロシアからの武器の供与を受けるためでした。この狙いはスターリンの二枚舌外交によって達成できませんでしたが(ロシアは満州の工業設備を国民党にも引き渡さずに次々と自国に持ち去った)、蔣介石も自軍の兵力の7割を華北に送り込んでこれに対応します。

 

 45年末、ロシアが海上封鎖を行い大連などの港が使用できない中で、蔣は精鋭部隊を空輸によって長春瀋陽に派遣して共産党を殲滅するという作戦を決断します。蔣は自軍の85%を満州に展開させたのです。

 ロシアの略奪を受けたとはいえ、満州は中国で戦争被害の最も少ない地域であり、日本本土以外で最も工業化が進んだ地域でした。

 しかし、満州はロシアと国境を接しており、ロシアからの物資を運ぶ鉄道網が充実しているという点で共産党にとって戦いやすい場所でもありました。

 蔣は兵力に勝るとはいえ、相手にとって有利な場所で共産党と戦うことになったのです。

 さらに、軍事援助額ではアメリカが圧倒していましたが、「アメリカの軍事顧問が赴任時に青二才の若造ばかりだったとすれば、ロシア人の軍事顧問は百戦錬磨の古強者ぞろい」(323p)でした。

 

 1946年3月にロシアが満州から撤退すると本格的に内戦が再開されます。当初は国民党が優勢で、蔣の作戦は成功したかに思われますが、次第に自軍が分散し、共産党に包囲される形になっていきます。また、共産党のスパイによって国民党側の軍事計画はことごとく漏れていたとも言われています。

 共産党は47年になると、長春吉林、四平といった都市を孤立させていき、華北でも河北省の石家荘などの鉄道の拠点を攻略します。こうして満州にいる国民党軍の補給線を切断することにも成功するのです。

 48年になると、アメリカは蔣に満州から兵を引き揚げるように忠告しますが、サンクコストに囚われた蔣は結果的にすべてを失いました。

 

 満州を失っても中国の2/3は国民党が支配していましたが、結局は1年ほどで国民党はすべてを失います。

 49年の1月に蔣介石は中華民国総統を辞任しますが、相当代理になった李宗仁を手助けするつもりはありませんでした。李宗仁は長江で共産党の侵攻を阻もうとしましたが、蔣は資源や自身の親衛隊を台湾に移動させるのに熱心でこれに協力しようとはしませんでした。

 こうして長く続いた内戦は一気に片がつくことになったのです。

 

 このように本書は類書にはない長いスパンと重層的な見方によって清朝崩壊以降の中国での戦いを描き出しています。

 日中戦争とその結果からすると日本は失敗しましたし、蔣介石は「肉を切らせて骨を断った」と言えるかもしれませんが、もっと長いスパンで見れば、日本にも蔣介石にも、あるいはアメリカにも、もっと他の手があったかもしれません。

 本書はさまざまなアクターの行動を重層的に見ることによって、こうした「歴史のif」を考えさせます。また、日本から見た視点では抜け落ちやすい中国内部の状況やロシアの振る舞いを教えてくれる本でもあり、非常に読み応えのあるものになっています。