東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

 現在、「4」まで出ている東浩紀責任編集の雑誌『ゲンロン』。その予告号としてアナウンスされれていた本ですが、遅れに遅れた結果、これからの展望の予告だけではなく、まさに東浩紀の「集大成」的な本になりました。
 「観光客」というキーワードを用いつつ、これからのグローバル化にいかに向き合うべきか、その「観光客」という概念が今までの東浩紀の仕事とどのようにつながっているかが示されています。


 「観光客」という概念は、2014年に出された『弱いつながり』という本で提示されたもので、この本の冒頭では次のように整理されています。

 そこでぼくは、村人、旅人、観光客という三分法を提案している。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切だという主張である。(14p)


 このような「観光客」のありかたと、その「観光客」がどのようなルーツを持ち、このグローバル化の時代においてどのような可能性を示すことがこの本の中心的なテーマです。
 そして、この本は東浩紀の過去の著作を「観光」する形にもなっています。『存在論的、郵便的』、『動物化するポストモダン』、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』、『一般意志2.0』、『セカイからもっと近くに』、さらに小説の『クオンタム・ファミリーズ』など、東浩紀の著作は多岐にわたっており、個々の著作同士のつながりは見えるもの(『動物化するポストモダン』と『一般意志2.0』とか、『セカイからもっと近くに』と『クオンタム・ファミリーズ』とか)、そのテーマはかなり拡散しているように見えます。
 そんな著作群をルートでつないで、巡ってみせる。これがこの本のもう一つの仕掛けであり、以下の目次を見ると、今まで東浩紀の著作を読んできた人には、それぞれの章と過去の著作の見えてくると思います。

第1部 観光客の哲学
第1章 観光
付論 二次創作
第2章 政治とその外部
第3章 二層構造
第4章 郵便的マルチチュード

第2部 家族の哲学(序論)
第5章 家族
第6章 不気味なもの
第7章 ドストエフスキーの最後の主体


 まずこの本がとり上げ、乗り越える対象としようとするのが、グローバル化や消費社会を批判し、「人間」を復活させようとしたシュミットやコジェーヴアーレントといった思想家です。
 「シュミットとアーレントはぜんぜん違うだろ」という声も聞こえてきそうですが、著者は次のように書いています。

 シュミットとコジェーヴアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。
 本書が「観光客」について考えることで乗り越えたいのは、まさにこの無意識の欲望である。(109-110p)


 人が何らかの共同体に属することで「人間」として成熟するというヘーゲル的な考えは21世紀になって現実とは合わなくなっています。
 21世紀の社会は、政治はいまだにネーション単位で動いているものの、経済はネーションを超えた形で動いており、「ナショナリズムグローバリズムという異質なふたつの原理に導かれ、統合されることなく、それぞれ異なった秩序をつくりあげてしまって」(123p)います。
 現代は、ナショナリズムグローバリズムという二層構造の社会だというのです。


 このような二層構造の社会において、著者は現代の政治思想を次のように読み解いています。

 リバタリアニズムグローバリズムの思想的な表現で、コミュタリアニズムは現代のナショナリズムの思想的表現である。そして、リベラリズムは、かつてのナショナリズムの思想的な表現だ。
 リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれどもその立場は20世紀後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍的な他者は現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である。(132-133P)


 やや乱暴な要約ですし、リベラリストからは「ちょっと待った!」の声がかかるでしょうが、著者は現状をこのように整理した上で、ネグリとハートが『帝国』で主張したマルチチュードの議論に注目します。
 著者はマルチチュードグローバリズムの中から生まれてくることに注目しますが、ネグリらが国民国家から「帝国」への移行を考えているのに対して、著者は移行は起こらずに二層構造がこれからもつづくと考えています。
 ただし、ネグリらがネットワークや連帯を重視するのに対して、著者は連帯そのものを重視するような考えは「否定神学的」であり、限界に突き当たると考えています(著者はラクラウのラディカル・デモクラシー論も同じようなものだと考えている)。


 ここで著者が提示するのが「郵便的マルチチュード」=「観光客」という概念です。
 ここでの「郵便的」とは、もちろん『存在論的、郵便的』で提示されていたもので、ある種のまちがい=「誤配」が生み出すような関係性です。
 著者は観光は誤配を生み出すものと見ています。観光客は楽しみを求めて、好奇心を満たすために観光に出かけますが、しばしばそこで予想外のものに出くわします。近年、話題となっており、著者も注目しているダーク・ツーリズムなどは、そうした誤配を狙ったものといえるかもしれません。
 

 ネグリたちはマルチチュードの連帯を夢見た。ぼくはかわりに観光客の誤配を夢見る。マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーションなしに連帯をするのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする。前者が帝国から生まれた反作用であり、私的な生を国民国家の政治で取りあげろと叫ぶのだとすれば、後者は帝国と国民国家の隙間から生まれたノイズであり、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させるだろう。(160P)。


 ネットワーク理論によると、人間同士のつながりの距離は意外に近いと言います。社会学に「六次の隔たり」という仮説がありますが、これは六回の遊人・知人関係を経由することで世界中のすべての人に行き着いてしまうという仮説です。
 この距離の「近さ」は、ネットワークの「つなぎかえ」によって発生する「近道」によって生じるとされます。ランダムな「つなぎかえ」によって人間同士の距離はグッと縮まるのです。このことをネットワーク理論では「スモールワールド」と言います。
 また、著者は現代の社会は「正規分布」の世界ではなく「べき乗分布」の世界であり、例えば富もウェブページの被リンク数も都市の規模なども、一部に集中しています。ネットワーク理論ではこれを「スケールフリー」と言います。
 

 この二つの特徴は矛盾するようにみえるかもしれませんが、ネットワーク理論では両立することであり、著者に言わせると実際の社会においてもこのことは同時に起こっています。

 ぼくたち人間は、もうひとりの人間(他者)をまえにしたとき、一対一で向かいあう対等な人間だと感じるときと、富や権力のあまりの格差に圧倒されるだけのときがある。アーレントは、否、彼女だけではなく20世紀の人文系の思想家たちの多くは、その前者の関係こそが人間本来のあり方であり、後者では「人間の条件」が剥奪されていると考えた。けれども、ほんとうはその両者はひとつの関係のふたつの表現であり、つねに同時に感覚されていると考えるべきなのだ。(183p)

 

 著者の現代社会に対する抵抗の戦略はスケールフリーの世界に誤配を引き起こすことによって、集中したネットワークを解体可能なものであると認識させることです。
 そして、その誤配を引き起こす、あるいは誤配を演じるのが「観光客」ということになります。
 さらに第1部の最後にはローティの「憐れみ」の考えを紹介し、この「憐れみ」こそがある種の誤配を生み、社会をつくるものだと締めくくっています。


 第2部は人間にとって誤配の源とも言える「生殖」や「家族」の問題に切り込んでいきます。
 ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と亀山郁夫の『カラマーゾフの兄弟』の続編の構想などをもとに議論が展開される第7章などは非常に面白く読めますが、まだ来るべき「家族の哲学」の序論という位置づけでもありますし、ここでは特にまとめなどはしないでおきます。


 というわけで、ここでは第1部を読んで感じたことをいくつか書いておきます。
 まず、第1部の議論を読んでちょくちょく思い起こされたのが、稲葉振一郎『政治の理論』における議論です。
 すごく大雑把に言うと、この『ゲンロン0』も『政治の理論』も、経済的価値がますます幅を利かせ、しかも格差の広がっている現代社会において、「人間」や「政治」はいかにあるべきかということを論じています。また、「共同体」から市場を否定せずに「普遍」へというベクトルも同じです。


 しかし、問題への対処の仕方はまったく違います。
 稲葉振一郎はなんとかしてすべての人に「財産」を持たせることによって平等を回復させようという非常に地道な戦略を取ろうとするのに対し(地道だからといって実現可能性が高いわけではない)、東浩紀は貧乏人も金持ちも等しく直面する「偶然性」や、先進国の国民であれば所得の多寡によってそれほど変化が出ない部分(ショッピングモールへの注目はこのあたりから出てくる)に注目することによって、この格差を撹乱させようとします。もちろん、両方とも短期的な問題解決につながるような戦略ではありませんが、二人のスタンスの違いは大きいです。 
 そして、おそらくこの違いは両者の学問的な背景とともにリベラリズムに対する評価からも来ているのでしょう。稲葉振一郎リベラリズムにこだわっていますが、東浩紀は「リベラリズムは死んだ」と考えています(トランプ大統領は、この「リベラリズムの死」を表す象徴的な人物なのでしょうが、そのトランプ大統領が「子どもが化学兵器の犠牲になるのは許されない」という「憐れみ」からシリアを攻撃したことは興味深いと思います)。


ゲンロン0 観光客の哲学
東 浩紀
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