東浩紀『訂正可能性の哲学』

 『ゲンロン0 観光客の哲学』の続編という位置づけで、第1部は『観光客の哲学』で提示された「家族」の問題を、本書で打ち出される「訂正可能性」という考えと繋げていく議論をしていきますが、第2部は『一般意志2.0』の続編ともいうべきもので、『一般意思2.0』で打ち出された考えが「訂正」されています。

 

 第1部の議論については個人的には乗れないところもあります。

 一番の大きな理由はクリプキが『ウィトゲンシュタインパラドックス』で出してきたクワス算の例を使っているからです。本書の59pの註30でも書かれているように、クリプキの議論はウィトゲンシュタインの解釈としては不適当だと思いますし、たとえウィトゲンシュタイン解釈を別にしたとしても、クリプキの議論にはあまり意味があるとは思えないからです。

 

 確かに根源的な疑問や懐疑論には否定し難いものがあります。例えば、「この世界は歴史やその他諸々含めて今朝つくられたばかりなのだ」という主張を否定することは難しいですが、それは「そうかもね」と言って流せばいいだけの話であり、クワス算も同じように何かを訂正することには結びつかないと考えます。

 もし、根源的な訂正可能性を保持しようというのであれば、クワインホーリズムや、その説明で出てくる「ノイラートの舟」とかの話が適当ではなかったのかと思います(ただし、これは哲学の素人の感想なので、やはりクリプキは重要なのかもしれません)。

 

 ということもあって、ここでは第2部の『一般意志2.0』の続編的議論である「一般意志再考」を中心に紹介したいと思います。

 

 『一般意志2.0』では、ルソーの一般意志を一種の「無意識」として捉え、それを様々なテクノロジーによって可視化し、さらにその可視化されたデータと熟議を組み合わせることによって新しい民主主義か可能になるのではないか? という議論が行われていました。

 

 これは、成田悠輔『22世紀の民主主義』の中で提示されている考えに近いです。人間による熟議が最後の部分に必要か不要かで東浩紀と成田悠輔の考えはわかりますが、個人の無意識の集積をデータとして取り出すことで新しい民主主義が可能になるというスタンスは同じです。

 こう考えると、2011年の『一般意志2.0』は先駆的な著作だったとも言えそうですが、本書で著者はその『一般意志2.0』の議論の修正を図っています。

 

 ルソーは個人の意志を集めた全体意志と統治を導くべき一般意志を区別し、しかも、「一般意志は常に正しい」といった言葉も残しています。

 もし、一般意志が無意識であり、それが「常に正しい」のであれば、無意識のデータ化に成功すれば政治家などはいらないことにあります。実際、成田悠輔などはそのような議論をしています。

 

 しかし、著者はこうした考えを是としません。そして、ルソーや一般意志というアイディアを捨てるのではなく、ルソーの他の著作に一般意志を「訂正」する可能性を見出そうとするのです。

 

 もともとルソーは、個人の安全を保持するには社会をつくらなければならないと考えたホッブズと違い、人は1人でも生きられるが、現実は社会がつくられてしまったと考えています。

 社会契約自体はホッブズにとってもフィクションですが、ルソーのそれは遡行的にしか見出されないものです。

 

 それでいながら、ルソーは「統治者が市民に向かって、「おまえの死ぬことが国家に役立つのだ」と言うとき、市民は死ななければならない」(198p)とも書いています。 

 市民は共同体にすべての権利を譲り渡しており、それゆえ市民は統治者に絶対服従しなければならないというのです。

 

 しかし、同時にルソーは共同体にすべての権利と財産を譲り渡し、ただちに共同体からそれを返してもらうということも言っています。そして、この譲渡と返却を通じて社会が生まれるというのです。

 先程の死の例も、統治者が死を命じるということは実は自らが死を望んでいるということになります。個人の意志と一般意志が食い違うときは、個人の意志が思い違いをしているというのです。

 

 こうしたやっかいな一般意志の概念に本書は統計やビッグデータを重ねていきます。

 近年、ビッグデータによって人間の行動が予測されるようになりました。これこれこういう条件を満たしている人は、統計的にXをする可能性が極めて高いといった判断がさまざまな場所で使われるようになっています。

 

 データサイエンティストのキャシー・オニールは「ビッグデータ分析においては、「あなたは過去どのような行動をとったのか」という質問が「あなたに似た人々は過去にどのような行動をとったのか」という質問によって置き換えられていると指摘して」(228p)います。

 

 つまり、これは「訂正」が不可能だとも言えます。例えば、ある人が治安の悪い地域に生まれ、学校をドロップ・アウトしてしまったとしても、犯罪に走らないことは当然のことながら可能です。

 しかし、同じような条件を満たしている人が犯罪に走ることを阻止することはできません。そのため、ビッグデータはその人を犯罪に走るリスクが高い人として分類し続けるでしょう。

 

 ルソーの中で一般意志は自然にも重ねられています。

 雨が降ったり、山があったりするのを「正しくない」と言っても無意味なように、自然は常に「正しい」わけで、一般意志もそれと同じというわけです。

 ますます、一般意志の「訂正」は不可能に思われるわけですが、ここで著者はルソーの小説『新エロイーズ』を読み解き、「訂正可能性」を探ろうとします。

 

 詳しい分析は本書を読んでほしいのですが、ここではルソーの一筋縄ではいかない思考が分析されています。

 ルソーは基本的に自然と人為を対立させて自然を評価する哲学者ですが、『新エロイーズ』においては自然の絶対性を訴えつつ、それが訂正可能であることも示しているというのです。

 

 この小説の主人公はサン=プルーという青年とジュリという少女で、2人の間でかわされた書簡とその他の登場人物の書簡によってこの小説は構成されています。

 ここで著者が注目するのはジュリと結婚することになる、サン=プルーにとって恋敵のヴァルマールという男です。

 

 ヴォルマールはジュリとは親子ほども年が離れており、無神論者で、感情の書けた男です。憎むべき恋敵という設定ですが、同時に『新エロイーズ』の中では、農園経営に長けた人物としても描かれています。

 ヴォルマールがつくった農園は人為ではありますが、それを感じさせない自然でもあります。

 そして、サン=プルーとジュリの間の愛は自然ですが、ヴォルマールはそれを人為的に上書きしてジュリとの「自然」な愛をつくりあげようとします。物語的にはこの試みは失敗しますが、著者はこの小説を書くときのルソーのスタンスとヴォルマールのそれは重なるといいます。

 

 最終章で、著者は一般意志の訂正可能性を求めて、バフチントクヴィルという2人の思想家をとり上げて思考を進めていきます。

 ちなみにバフチンから、バフチンが分析したドストエフスキーの『地下室者の手記』に話が進み、2×2の答えが4であることを懐疑する話が出てくるところで、第1部のクリプキと話がつながるわけですが、個人的にはやはりこの手の懐疑からルールを訂正する対話が始まるとはあまり思えない。

 

 ここではバフチンの「対話」やトクヴィルの「喧騒」が一般意志を訂正する可能性を持ったものとしてあげられていますが、ここはさらなる議論があって良い部分かもしれません。

 

 それでも、成田悠輔や落合陽一らは実は素朴なルソー主義者であり、そこには一般意志を訂正できる可能性はない。しかし、一般意志を訂正する可能性を確保する可能性こそが重要な問題なのだという著者の主張には賛同しますし、それを探っていく本書の後半の議論は非常に面白いと思います。

 

 気がつけば『一般意志2.0』から10年以上の歳月が経っているわけですが、『一般意志2.0』を面白く読んだ人には、ぜひお薦めしたいです。

 もちろん、かなり丁寧に書いてある本なので、『一般意志2.0』を読んでいない人でも面白く読めると思います。