松尾隆佑『ポスト政治の政治理論』

 面白く読みましたが、なかなか紹介の難しい本でもあります。

 まず、タイトルを見ても中身がわからない。これが「ポスト代議制の政治理論」とかであれば、「ああ、直接民主制その他を語った本なのか」と想像がつきますが、「ポスト政治」という言葉は一般の人にはわかりにくいです(「ポスト学校の教育理論」なら中身が想像できるが、「ポスト教育の教育理論」では想像できないのと同じ)。

 わかりにくいタイトルを補うのが副題ですが、この副題が「ステークホルダー・デモクラシーを編む」。これを読んでも多くの人はイメージが掴めないでしょう。自分もわかりませんでした。

 「ステークホルダー」という言葉は企業経営で使われる言葉で、多くの人が一度くらいは聞いたことがある言葉だと思います。ただ、それと「デモクラシー」の結びつきと言われてもいまいちピンとこないでしょう。

 

 この「わからなさ」に関しては、第1章を読めばほぼ解消されると思います。このエントリーでもそこは紹介する予定です。

 ただし、この本の紹介しにくさは、第3章以降になると、どんどん話が大きくなっていくという部分にもあります。新しい政治的な問題解決方法を模索する本かと思いきや、実はこの社会全体の書き換えを狙うような本なのです。

 というわけで、どこまで紹介できるかわかりませんが、できるだけ内容がイメージできるように書いていきたいと思います。

 

 目次は以下の通り。

序文 なぜデモクラシーか
第1章 なぜステークホルダー・デモクラシーか
第2章 ステークホルダー分析―民主的統治主体の定位
第3章 ステークホールディング―主体化へ向けた基本権保障
第4章 マルチステークホルダー・プロセス―民主的統治への多回路化
第5章 ステークホルダーによる民主的統治
結語 織り成されるヴィジョン

 

 まずは「ポスト政治」という言葉ですが、これは政治が断片化する中で今までの政治が機能不全に陥っている状況を指しています。

 選挙への投票率が下がり、政党の党員も減っているような状況ですが、一方で、フェミニズムが今まで個人的な問題だとされていたことを政治化したように、大文字の政治が退潮し、小文字の政治が活性化するような状況が起きています。

 また、グローバル化により主権国家ではコントロールできない問題も増えており、政府の問題解決能力の限界も指摘されています。さらに冷戦の終焉はイデオロギー対立を終わらせ、政治における大きな対立軸は見出しにくくなっています。

 こうした中で、政治よりも統治(ガバナンス)重視する見方も広がっており、政治が「経営」に近づいている側面もあります。

 こうした状況が本書の想定する「ポスト政治」という状況です。

 

 この状況に対応するのが「ステークホルダー・デモクラシー」というわけですが、まず「ステークホルダーとは、株主、従業員、取引相手、消費者、地域社会、政府機関など、広く企業に対する利害関係主体を意味する語として1980年代なかば以降のアメリカで普及」(33−34p)した言葉になります。

 ステークホルダーのstakeはもともと「杭」を意味していた言葉で、アメリカの開拓民が杭を打って土地の所有権を主張したことから、権利主張者を「ステークホルダー」というようになりました。さらに「ステーク」は出資等に伴う、「持ち分」や「分け前」の意味も持っています(35p)。

 この言葉が、企業の株主以外の権利主張者(従業員や取引相手など)を指し示す言葉として定着したのです。

 

 政治における株主にあたる存在は有権者でしょうか?

 確かに会社の経営方針が株主の投票で決まるように、政治は有権者の投票によって決まります。

 しかし、有権者と政事的決定の影響を受けるものがズレることも考えられます。今年は地球温暖化問題でグレタ・トゥーンベリさんが話題となりました。地球温暖化において影響を受けるのは子どもたち将来世代ですが、子ども(さらにまだ生まれていない世代)は投票権を持っていません。

 他にも、東京の市部ではゴミ焼却場が市の端っこのほうに建設されることが多いですが、これについて、実際にゴミ焼却場が近くに立地する隣接の市の住民は立地の決定を行う首長や議員を選ぶ選挙に参加できません。

 つまり、世代なり居住地域なりによる政治単位の切り分けが問題解決の妨げとなっているケースも考えられるのです。

 このあたりについて、著者は次のように述べています。 

諸個人の利害がますます多様化・個別化している現代では、一元的な決定権力を前提とする政治システムは利益代表機能を低下させており、むしろ社会内に偏在する多元的な決定権力のそれぞれを、個別に民主化する制度枠組みが必要とされている。ステークホルダー・デモクラシーはこの課題に、民主的統御の主体を分野争点ごとに再構成するというアイデアによって解決を与えようとするものである。ステークホルダー・デモクラシーの視座からすれば、現代における代表性の「危機」は、政治過程が正しく分割されていないことを一因とする。」(46p)

 

 このステークホルダー・デモクラシーの考えは、国際政治の面で主張されており、テリー・マクドナルドは「グリーバル・ステークホルダー・デモクラシー」(GsD)の考えを提唱しています。世界全体での選挙や直接投票のない国際社会においては、従来のような主権国家だけではなく、政策課題ごとにNGOなどのさまざまな主体の参加が重要となるのです。

 

 つづく第2章では「誰がステークホルダーなのか?」という問題がとり上げられています。

 最初にあげられている例は原発の問題です。原発の運転や再稼働については、地元自治体の同意が必要とされてきました。ところが福島第一原発事故が明らかにしたのは、原発事故の影響は立地自治体のみには収まらないという現実です。原発が立地していない自治体の住民も長期避難を強いられることになりました。

 こうなると問題になるのが、原発への賛否をどの範囲にまで求めるかということです。つまり、ステークホルダーの範囲をどうするのかということが問題になるのです。

 

 本書では権力(P)、利害関心(I)、関係性(C)という各概念から、ステークホルダーの範囲を定めようという「PICフレームワーク」というものを提案しています。

 ステークホルダーというと固定的になりやすく、それがその枠組から除外された人の反発を生みますが、本書では問題に対して上記のフレームワークを用いてステークホルダーの同定作業を進めていくことで、その問題をクリアーしようとしています。

 

 さらにこの章では、福島原発事故によって発生した放射性廃棄物処理の事例をとり上げて、ステークホルダー分析の必要性を意義を説いています。各県ごとに最終処分場建設を1箇所建設するという枠組みでは意見の集約は難しく、さまざまなステークホルダーを包摂するような意思決定の枠組みが必要なのです。

 ただし、この部分に関しては実際に「PICフレームワーク」を当てはめた分析をやってほしかったとも思います。 

 

 ここまでは、把握しやすい話だと思うのですが、本書はさらに「汎デモクラシー理論」ともいうべきものを展開していきます。

 このまとめのはじめの方で述べたように「ステークホルダー」 の「ステーク」には「持ち分」や「分け前」の意味もあります。第3章で検討されているのはこの問題です。

 

 デモクラシーにおいてはメンバーの権利が平等であることが重要です。しかし、現実には日々の仕事に追われて政治に参加する余裕を持たない人もいるでしょうし、障害を持っていて発言が難しいといったケースもあります。

 本書ではまず、「ある政治社会の構成員として正当に認められるべき地位・権利の保障」(143p)していくための原理として「ステークホールディング」という考えを用い、 個人の「自律」を目的に、さまざまな仕組みを考えています。

 

 本書では「国境は原則として開放されるべきである」(157p)といった思い切った主張もしており(もちろん「原則として」がポイントでさまざまなコストや問題は著者も認識している)、トービン税や航空券税を財源とした超国家的な枠組みも構想しています。

 そして、個人の「自律」のためにはさまざまな福祉だけではなく、ベーシックインカムや財産所有デモクラシーの構想なども検討しています。例えば、成人時に一律8万ドルの「ステーク」を政府が給付し、死亡時に利子を含めて払い戻させる(返還の余裕がない者は返さなくても良い)アッカーマンらが提案した「ステークホルダー・グラント」などがとり上げられています。

 

 また、本書では普遍的福祉の重要性を強調していますが、「それは、ステークがシティズンシップに伴う社会への「持ち分」かつ「掛け金」であり、したがって、特定の政治社会への帰属に基づく地位身分以外に何らの条件も問わずに配らなければならないから」(171p)です。「自らの手では賭けることのできない人の前にも、掛け金は置かれなければならない。掛け金を配らないことは、存在の否認を意味するからである」(171p)というのが著者の立場になります。

 

 さらに本書では親密圏の民主化といったことにも触れています。デモクラシーの原理を拡張していく場合、それをどこまで適用すべきかということが問題になりますが、著者は、子どもをはじめとする個人の自律を支援することによって、デモクラシーの範囲を広げていこうとしています。

 

 第4章では「市民社会民主化」を掲げ、企業にもデモクラシーを拡張する可能性を検討しています。

 一般的に「民主化」といえば「政府の民主化」が想定されますが、テリー・マクドナルドの「グリーバル・ステークホルダー・デモクラシー」(GsD)においては、政策ごとにステークホルダー共同体を組織して課題解決にあたることが想定されており、いわば「政府」に限らず「市民社会」全体の民主化が図られることになります。

 こうしたGsDの構想に対しては、政治的平等と政治的拘束性に欠けるとするエヴァ・エルマンの批判などもありますが(218−219p)、著者は政治的拘束性に対する批判を受け入れつつも、現代の脱領域的なガバナンスを考えれば、現在において政治的拘束性は保証されていないと考えています。

 

 現代社会において、脱領域的に行動するプレイヤーの1つが企業です。巨大な多国籍企業はときに政府を無視して行動し、政府の決定に影響を与えます。

 近年では政府においても企業においてもしばしば「ガバナンス」という言葉が使われるように、政府の運営を企業経営になぞらえるような言説も増えています・ウェンディ・ブラウンは『いかにして民主主義は失われていくのか』で、この経済的な言説の政治分野への進出を批判したわけですが、本書において著者は「デモクラシー」という政治用語を企業に適用しようとする逆転の発想に立っています。

 

 企業の民主化というと労組の経営参加が思い浮かびますが、ここで登場するのがステークホルダー理論です。

 もともとステークホルダー理論は、株主以外の利害関係者に配慮した経営を考える中で生み出されましたが、この利害関係者に権利があると考えれば、「私企業の事業目的は、ステークホルダーとの対話を通じて単なる利潤追求とは異なった形に再定義され、その限りで公共的意味を帯びることになる」(237−238p)のです。

 これはずいぶん思い切った考えにも見えますが、経営学の世界でもステークホルダー理論は支持されており、「企業経営を非政治的な活動と捉えるのは、経営に対する一つの見方でしかなく、翻って政治に対する一つの(狭い)解釈でしかない」(240p)というのが著者の主張になります。

 

 企業の民主化のために、著者は「労使代表だけでなく消費者・債権者・地域代表・公益代表など主要ステークホルダーを交えた「ステークホルダー役員会(stakeholder board)」の設置を義務づけ、経営上の意思決定過程を統制させることが望ましい」(242p)と考えています。

 さらにステークホルダー役員会に包摂できなかったステークホルダーについては、国連の「グローバル・コンパクト」のようなネットワークを通じて、企業の外部からはたらきかける方法を提案しています。

 

 他にも消費行動を政治参加の1つとして見る考えなどを紹介し、次のように述べていまます。

 政治的消費がどれほどの実効性を持ちうるかについては、懐疑的な姿勢にとどまる人が支配的だと思われる。自らの一票が国政を動かすことはないと知りながら投票所におもむく人は多いのに対して、自らの買い物が微々たる力しか持たないと知りつつも、食品企業を望ましい方向に導くための選択を志してスーパーマーケットを闊歩する人は、ずっと少ない。たが、一票の実効性を疑うシニシズムが批判されやすいのに対し、購買投票の実効性を疑問に付すシニシズムは受け入れられやすい状況は、不思議なものだと言わなければならない。市民であることと消費者であることを切り離してしまうなら、市民としての責任を投票所で果たしたと自負する人びとが、スーパーマーケットでは同じ責任を果たさずにいることが許されてしまうだろう。本書の理解では、そこにこそ政治からの遊離を見いい出せる。(253−254p)

 

  第5章ではステークホルダー・デモクラシーのモデルを提示しようとしています。

 ステークホルダー・デモクラシーでは国家の意思決定する「大政治」だけでなく、さまざまなレベルでの「小政治」も重視されます。こうした「小政治」の試行の1つとして、近年ではくじ引きなどによって選ばれた市民による「ミニ・パブリックス」なども試みられていますが、著者は異なる利害関心をもつ自律した主体感による集合的な意思決定という側面を重視しているために、こうしたミニ・パブリックスの試みなどには否定的です。

 

 さまざまな課題についてステークホルダーによる話し合いが行われる中で、議会の役割は「政策形成(立法)よりも監視に求められることになるだろう」(277p)と著者は述べています。「社会の全体を代表する議会は、ステークホルダー委員会による政策形成を前提にして、その内容と長短を広く社会一般の観点から吟味・評価し、正統化する機能を持つ」(277−278p)のです。

 

 さらに本書では司法の分野にもステークホルダーの考えを取り入れようとしています。

 デモクラシーにおける治者と被治者の同一性や被影響原理を重視するならば、複数の主体間で何らかの紛争が生じた場合の解決は、当事者間での交渉か、そこに重要なステークホルダーを交えた協議によって図られるのが理想となるはずである。第三者による権威的調停は、自己決定の原理に違背するものであるから、本書が前提とするデモクラシーの理念からは容易に導けない。(290p)

  このあたりを読むと本書のラディカルな姿勢が実感できるでしょう。本書では加害者の処罰よりも原状回復・補償を重視する犯罪損害賠償論、修復的司法、裁判外紛争解決(ADR)などの道を示すことで、できるだけ当事者間での紛争解決が志向されています。

 

  結語において「異なる文脈に応じて複数のデモスに帰属することで、諸個人が多元的な集合的意思決定の機会に参加できるようになることは、ポスト政治期において減退しつづける政治的有効性感覚を再び取り戻させるのみならず、断片化した個々別々の政治と私たちが向き合っていくための新たな様式を指し示すであろう」(309p)とありますが、これは本書の端的なまとめになっていると思います。

 国政に対する無関心が一定程度広まる一方で、フェミニズムが「個人的なことは政治的なことである」と言うように、今まで私的な問題だと思われていたものにも「政治」を発見するような動きがあります。

 こうした状況に対して、政治を分割して偏在させるというのが本書の戦略と言えるかもしれません。トランプ大統領に負けた民主党に対して「民主党や反トランプ派はメディアを通じて(性的少数派の人々が)男性用、女性用どっちのトイレを使うべきか、そんな議論ばかりしているように見えた」という批判がありましたが(例えば、金成隆一『ルポ トランプ王国2』(36p))、本書によれば大統領選とは別にLGBTのトイレ問題について話し合うステークホルダー委員会をつくることが解決の手段ということになるでしょうか。

 

  また、一見するとかなり雑多な内容が詰め込まれているかのようにも見えますが、例えば第3章の議論なども第3章を読んでいたときには踏み込み過ぎなように思えますが、第5章の司法を当事者の話し合いに委ねていく方向性などを見ると、このシステムが成員間の経済的な平等を前提にしたものであることもわかってきますし、かなり考えられた内容だということもわかってきます。

 博論を元にした本なのですが、まさかここまで包括的な政治理論の本だったとは読む前は想像していませんでした。

 

 その上であえて言うならば、この理論が「動く」可能性をもう少し見せてほしかった気もします。本書は城のように立派な建築物ですが、『ハウルの動く城』ではないですけど、部分的にしろ動くところも見たかったです。

 もちろん、本書の内容の実現可能性が薄いからダメだというのは、「社会契約が歴史的に存在しなかったら社会契約論に意味がない」というのと同じで、意義のある批判ではないと思います。本書はあくまでも規範を語っている本だからです。

 それでも、ステークホルダー・デモクラシーの導入にそれほど大きなハードルがなく、その適用によって改善が見込める部分などを指摘していると、より説得力が出たと思います。その意味で、第2章の放射性廃棄物処理の事例でもう少し具体的な分析があっても良かったのではないかと思います。

 

 あと、企業にデモクラシーを求める場合に問題になるのはそのコストでしょう。ロナルド・H・コース『企業・市場・法』によれば、なぜすべて市場取引で済ませるのではなく、企業という組織を作るのかというと、それは取引費用を節約するためです。しかし、デモクラシー導入のコストが大きくなれば企業を作るメリットは減少します。そうなると、プロジェクトのたびに人が集められるような「ギグ」的なものが主流になってくるかもしれません。

 それが一概に悪い変化なのかどうかはわからない部分もありますが、企業をなくして事業を個人同士の細かい契約に分解していくことで、ステークホルダー共同体を逃れるような行為がなされる可能性はあると思います。

 

 最後に少し、本書を読んで感じた問題点を書きましたが、前にも述べたように本書は近年には珍しく「すべてを論じようとしている」スケールの大きな本であり、経済的な言葉によって政治が語られるようになっている風潮の中での、「政治理論の逆襲」ともいうべき本かもしれません。新説な本とはいえないかもしれませんが、格闘する価値のある本だと思います。