東浩紀『一般意志2.0』

 読み終わったけど、どう語ろうか悩む本でもある。
 とりあえず面白かったし、わかりやすい。そして「ルソーの一般意志の考えがGoogleTwitterニコニコ動画によって新しい形で実現する」というこの本のアウトラインを聞いたときにパッと思いつく反論に対しては、政治学や哲学の伝統を踏まえてきちんと答えてある。

 筆者はこれから夢を語ろうと思う。それは未来社会についての夢だ。

 との書き出しから始まるこの本は冒頭で「エッセイ」と銘打たれていますが、「エッセイ」という言葉でイメージされるような緩さはなく、明確な政治的主張があります。その点でこの本はアメリカ独立革命のころのフェデラリストたちが書いた政治的パンフレットのようでもあります。


 この本はまずルソーの一般意志の説明から入ります。
 この一般意思とは人民の個々の意志の総和とも言えるべきもので、「イギリス人は選挙の時だけ自由でふだんは奴隷だ」と言って間接民主制を否定したルソーが政治を動かすべき力として『社会契約論』の中で提示したものです。
 東浩紀はこの一般意志をベクトルの考えを使って説明していますが、これは僕も聞いたことがあるというか、よく授業で使う喩えです。すべての国民の意志を平面上にマッピングしてそれを相殺すると出てくるのが一般意思というわけです。
 

 一般意志についてルソーは「つねに正しく、つねに公共の利益に向かう」と断じていますが、この一般意志は政治学の歴史の中では非常に評判の悪い概念でもあります。
 ルソーは結社や政党さえも禁止して政治的決定はすべてこの一般意志に従うべきだと論じました。しかし、この一般意志をどうやって理解できるのでしょうか?また、一般意志がつねに正しいのなら反対意見の可能性すらありません。つまり「一般意志による独裁政治」が生み出されることになるわけです。 
 実際、ルソーの影響を受けたフランス革命ジャコバン派の独裁を生みましたし、アーレントは『革命について』でアメリカの独立革命フランス革命を比較して前者を高く評価し、ルソーとは全く違った民主主義観を持っていたトクヴィルの議論を支持しました。
 一般意志などというものを政治的に評価することは、ナチスを支持したカール・シュミットの言うような「拍手と喝采の政治」をもたらすだけだというのが今までの政治学での基本的な扱いだと思います。


 が、それを東浩紀は大胆にも読み替えます。
 まず、ルソーが一般意志を導くときにコミュニケーションの役割を否定していることに注目します。
 第4章で検討されているように、これはかなり大胆な考えです。アーレントあるいはハーバーマスといった人びとによれば政治とはまずコミュニケーションであり、この本で提示されている「コミュニケーションなき政治」というのは、「政治的行為そのもの」を否定するようなものです。
 「どうやらその試みはあまりにも常識はずれのようなのである」(75p)と東浩紀は自ら書いていますが、政治学、あるいは社会学の本を読んできた人からすると、この考えはまさに「常識はずれ」でしょう。
 
  
 その上で、ルソーの求めていたのは「拍手と喝采」のようなものではなく、むしろフロイト流の無意識だというのです。
 国民の中には意識的に政治に関わっている人もいればそうでない人もいます。基本的に今の政治システムでは熱心に政治に関わろうとする人たちだけの意見が政治の場に届くことになっています。けれども、声を挙げない人も政治に関して何がしかの思いを抱くことはあるわけですし、その行動や言論には何がしかの政治的な欲求が隠れているケースがあるはずです。
 東浩紀は、そうした政治的な「無意識」がもし可視化出来るようになるならば、それこそが一般意志、あるいはアップデートされた「一般意志2.0」ではないかと言うのです。
 

 では、この「一般意志2.0」が政治においてどのようにはたらくのか?
 東浩紀アメリカの建築家クリストファー・アレグザンダーの方法論を用いてそのおおまかな形を描こうとします。アレグザンダーは高速道路の経路を決めるときに、コスト、安全性、環境破壊のリスクなどさまざまな要因をマッピングし、それを重ね合わせることで道路の経路を浮かび上がらそうとしました。これによって道路の経路が決定するわけではありませんが、地図上にはいくつかの経路の候補が浮かび上がります。最終的な経路に関しては人間が決定するにしろ、このマッピングされた地図によってある程度の経路の姿は決まってくることになるのです。
 東浩紀はこのアレグザンダーの考えを政治に応用しようとします。
 つまり国会なり審議会なりの場につねに国民の行動の履歴のようなものが見える形であるならば、それが「一般意志2.0」として機能し、それによって議論は制約され、一種の民主主義として機能するというのです。


 さらに東浩紀ニコニコ動画のコメントシステムのようなものを使った議会というものも提案しています。
 議会での審議はリアルタイムですべて公開され、ニコニコ動画のコメントと同じようにその審議には次々とコメントが付けられていきます。それらのコメントは聴衆だけでなく議員たちにも可視化されます。議員はつねに聴衆のリアルタイムなコメントを見ながら議論を続けなくてはならないのです。もちろん、このコメントに必ずしも従う必要はないと東浩紀は言いますが、同時に議論はそのコメントにある程度拘束されざるをえないだろうとも言います。ここではコメントが「一般意志2.0」として議論を導くものとなるのです。


 これがこの本の描く政治の新しい姿です。
 おそらく、これを「夢物語」として捉えた人も多いでしょう。
 ところが、東浩紀は実は今政治学で注目されている「熟議」こそが「夢物語」であるといいます。
 東浩紀は「熟議」の不可能性を次のように示します。

 熟議民主主義の支持者は、しばしば弱点として「熟議に参加するコスト」を掲げる。けれども、この弱点は、単に弱点のひとつとして片付けられるようなものではない。むしろ彼らの理論の致命的な欠陥を示してしまっている。人間は確かに理性的な動物だが、つねに理性の動物であるわけではない。他人の話にきちんと耳を傾け、合理的な判断を下し、その結論にしたがって行動することは実際にはかなりの精神的なコストを要求する。
 人間は普段は理性的に行動しないし、行動したいとも思わない。だから議論のテーブルにつきたくないひと、あるいはつくことのできないひとの意志は、どうしようもなく零れ落ちる。(172p)

 
 つまり、東浩紀は彼の提案する国民の無意識的な意思を可視化する装置よりも、全ての人が熟議に参加するような状態のほうを「ありそうもない」と考えるのです。
 ここは人によって判断の別れるところでしょうし、現時点では僕も東浩紀の考える政治システムのほうが「ありそうもない」と思います。
 ただ、20年後はどうでしょう?あるいは50年後ならどうでしょう?と考えていくと、熟議民主主義は永遠の「未完のプロジェクト」に留まりそうなのに対して、東浩紀の提唱するようなシステムは次第に現実的になっていく可能性が高いです。


 しかも、この議論はたんに技術的な進歩によって支えられているだけでなく、思想的な裏付けもあります。
 東浩紀アーレントの公的領域と私的領域の区分をひっくり返します。アーレントにとって生存のための動物的な生はあくまでも私的領域で行われるものであり、政治はそれらとは離れた公的領域で行われるべきものでした。
 ところが、東浩紀は次のように述べます。

 民主主義2.0の社会においては、私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)を形づくり、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない。(202ー203p)


 これはたんなる思いつきではなく、ルソーやローティーの考えにも裏打ちされています。
 理性こそが人間社会を創り上げると考えた多くの思想家とは違い、ルソーは「憐れみ」こそが人間社会をつくり出したと言い、ローティーは理性ではなく「想像力」こそが連帯の基礎になると論じました。
 つまり、多くの人が考えたように理性が社会をつくり上げ、それをつなぎとめているわけではなく、哀れみや共感、想像力といったある意味で私的とも言える感情こそが実はこの社会の基盤であり、政治もそうした私的な感情、あるいは無意識に寄り添い制約される形で行われるのがこれからの政治のあるべき姿であるというのです。


 僕の拙いまとめでどれだけのことが伝わったかはわかりませんが、これは非常のラディカルな本です。そして「夢を語った」本でありながら、現実の政治に対する提言としても大きな意味を持つ本です。
 もちろん、トクヴィルアーレントの思想で育ったといって過言ではない僕の政治経の考えからすると、この本の主張に無条件で賛成はできません。
 しかし、この本で東浩紀の提示した問題は、政治に対してどのようなスタンスを取るにせよ考えていかなければならない問題でしょう。


 この本の紹介はこれで終わりですが、最後に簡単にこの本への疑問点をメモとして挙げておきます。

  • ニコニコ動画的なコメントへの敷居は低いとはいえども、やはりそこには参加のコストがあり、その問題は大きいのではないか?
  • 無意識の解釈に関しては危険もあります。例えば、ハッキングが『記憶を書き換える』でしめしたような「ルーピング効果」(精神科医が症状をつくりだしてしまう現象)のようなものです。そしてデータとしての一般意志を可視化する際にもやはりそういった危険があるのではないか?
  • 「人権」、「法の支配」といったある意味で民主主義の制約要因となりうるものをいかに守っていくか。
  • 外交交渉など、国家を一つの一貫した意志を持つ存在と仮構してければならない場合をどうするか。
  • この本の最後で描かれる「インフラとしての国家」は、おそらく世界中のすべての国がそれなりに豊かになって国家の「外部」(例えば、一時期のアフガニスタンや現在のソマリアのような国際社会の「外部」のような存在。テロリズムの温床となる可能性が高い)がなくならなければ実現しないように思えるが、そんな時代は果たしてやってくるのか?


一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
東 浩紀
4062173980


革命について (ちくま学芸文庫)
ハンナ アレント Hannah Arendt
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