想像力と現実が切り離されてしまった時代に、文学には何ができるだろう。ライトノベル・ミステリ・アニメ・SF、異なるジャンルの作家たちは、遠く離れてしまった創作と現実をどのように繋ぎあわせようとしていたのだろうか。新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京―四人の作家がそれぞれの方法で試みた、虚構と現実の再縫合。彼らの作品に残された現実の痕跡を辿りながら、文学の可能性を探究する。著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論。
これがAmazonのページ載っている内容紹介。最後には「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」とあります。確かに東浩紀の文芸評論は、『郵便的不安たち』に収められてものなどがありますが、単行本というのははじめてですね。
ただ、新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京というとり上げられた作家を見てもわかるように、普通の文芸評論ではありません。
すごく乱暴にまとめれば、「宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で行った東浩紀+セカイ系への批判に答え、セカイ系が実は日本文学の中に息づいてきたことを示し、さらにそのセカイ系からの脱出の経路を探った本」と言えるでしょうか。
まず、セカイ系とは90年代後半から00年代にかけて勢いを持ったフィクションの類型で、「君と僕の恋愛」と「世界の破局」というような小さい話とやたらに大きな話がリンクしながら語られているようなお話です。高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、新海誠のアニメ『ほしのこえ』なんかが代表作になりますが、そこでは戦争の理由とか社会の仕組みとか政治とか、そういう「君と僕の恋愛」と「世界の破局」の中間にあるようなものはほぼ完全に排除されています。
東浩紀は、これをラカンの三界区分の理論を借りて、「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」(19p)と表現しています(個人的には象徴界は言語の世界なので、それを欠いたマンガや小説というのは何なんだ?という疑問は残りますが…、このあたりは斎藤環も疑問を呈していました)。
まあ、とりあえずラカン解釈の話はさておき、一時期、こうしたタイプの作品が流行っていたのは事実で、それに対して宇野常寛は、「そうした想像力は古い」と切り捨てました。
その時は、セカイ系が退潮しつつあったということもありましたし、東浩紀も宇野常寛の議論にそれなりに理解を示していたこともあって、なんとなく「セカイ系はゼロ年代に咲いたあだ花だった」的な感じになっていましたが、この本ではもう一度そうしたセカイ系への評価を覆そうとしているのです。
新井素子や押井守はセカイ系の源流として今までその名前が上がったことがあったと思いますが(特に押井守が監督した『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』はセカイ系、あるいはそのセカイ系で好まれるループものの源流的な作品としてよく名前が上がります)、法月綸太郎と小松左京の名前には疑問を感じる人もいるでしょう。
特に小松左京に関しては『日本沈没』で、日本の政治や社会を描いた作家だけに、セカイ系を語るときにその名前が持ちだされることに対して違和感を感じる人も多いと思います。
けれども、このあたりの人選はさすがで、この4人を通じて、セカイ系の源流を探るとともに、近年のセカイ系の作品にはない「セカイ系が現実と関わる方法」を探る構成になっています。
作品を見ていたこともあって個人的に一番素直に楽しめたのが押井守論。
押井守といえば、『機動警察パトレイバー2』で日本社会の「平和ボケ」的な現状を鋭く批判した「社会派」と思われがちですが、東浩紀は『機動警察パトレイバー2』を「明らかに政治的な映画」だとしながら、「でも政治的主張はいっさい含まれていない」と評しています(94p)。
つまり、日本社会の「平和ボケ」的な現状を鋭く批判しているように見えながら、「日本をどう変えるか?」「今の日本の問題点は何なのか?」といったことは描かれていないのです。
また、押井守の作品でよく登場するのがループの構造です。このループの構造についてこの本では『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『スカイ・クロラ』がとり上げられ、精緻に分析されています。
「両者は、ともにセカイ系の困難に捕らわれた「子ども」の物語」であり、「ループのモチーフが、脱出の不可能性を象徴するものとして機能して」いて、「おまえたちは永遠にセカイ系の困難のなかに捕らわれたままなのだ、まるで押井は、そのように観客に語りかけているようです」(104p)と、東浩紀は述べています。
実際、『スカイ・クロラ』を見た時は、現代における「成長の不可能性」という事態を極端な形で描いてみせた作品だと思いました。
ところが、東浩紀はこのループ構造に対する視点を変えた時の微妙な変化に注目します。『スカイ・クロラ』については、函南ではなく草薙の視点から読み解くこと、『ビューティフル・ドリーマー』については、ラムの「いつまでも今までどおり楽しく暮らしたいという夢」だけではなく「あたると結ばれたいという夢」から読み解くことです。
詳しくは本書を読んで欲しいのですが、これによって『スカイ・クロラ』の閉塞感には一筋の光が差しますし、『ビューティフル・ドリーマー』は単純に「オタクの欲望」を描いた作品だとは言えなくなります。
けれども、この本の中核をなすのは新井素子論と小松左京論、さらには小松左京を経由した新井素子論でしょうね。
新井素子と小松左京については恥ずかしながら作品を読んだことがないので東浩紀の読解が適切なものなのかどうかはわかりませんが、ここでは二人の作品を分析しながらセカイ系を脱するためのキーワードとして「生殖への欲望」が取り出されています。何も変わらないように見える「セカイ」の中でも、生殖にはつねに変化のチャンスが隠されているからです。
ただ、実は新井素子は、キャラクター(ぬいぐるみ)との擬似家族の形成といった普通の「生殖」ではない不思議な話も描いています。東浩紀は最後に「ぼくはここからふたたび、新井素子のぬいぐるみをめぐる想像力に戻りたい誘惑に駆られるのですが、それはまた別の機会にしておきましょう」(165p)と言って筆を置いてしまうのですが、この部分こそ、昨今の「キャラクター」を巡る議論をさらに活性化させる重要な部分のような気がします。
この本は、東浩紀の「最後の文芸評論」と銘打たれていますが、この部分はぜひ続きが読みたいですね。