舞城王太郎『九十九十九』読了

 舞城王太郎九十九十九』を読了。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』で取り上げられていて、そういえば舞城王太郎の中でもこれは読んでなかったと思って今回読んだんだけど、毎度のこと無茶苦茶でありながら、面白い。
 この小説は清涼院流水のJDCシリーズの中に出てくる、あまりの美しさに見たものはみんな失神してしまうという名探偵・九十九十九を主人公にした作品で、清涼院流水の強引なアナグラムや見立て、そしてメタフィクション的な構成がさらにインフレ化したような内容になっている。
 この作品の1話は2話の中では謎の作家清涼院流水が書いた小説として扱われ、さらに2話は3話では同じく小説として扱われるという入れ子構造や、さらに後半の複雑な構造、そして村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を意識したテーマ設定なんかに関しては、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で指摘しているので、そちらに譲りますが、一つだけ読んでいて改めて感じたのが舞城王太郎の持つ、ある種「倫理的」な所。
 この小説では、そのテーマや<世界の終わり>という言葉への言及だけでなく、そうした「倫理的」な部文が、村上春樹を思い起こさせます。
 例えば、

そうだ。愛情というものは、苦しみを乗り越えることをシステマティックに組み込むことで、怪物へと育ってしまう。そこから逃れることができなくなってしまう。だから人は、苦しみの多い愛情を、もしそこから逃れるというつもり/可能性/ひょっとしたら・あるいはという選択肢があるならば、長い時間継続させないほうが賢明だ。苦しみがあるのなら、その愛情は諦めて、別の相手を探したほうがいい.世界には他にも自分の愛情を注ぎたくなる人間がたくさんいる。
 苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ。(15p)

なんて部分は、個人的な感触としては村上春樹が書いてもおかしくない文章だと思います。

九十九十九
舞城 王太郎
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晩ご飯は牛肉とナスとタマネギの味噌炒めとトマト