2010年3月、東工大で2日間に渡って行われた国際シンポジウムの記録。
ただ、書籍かにあたって順番が入れ替わっていて、東浩紀+ジョナサン・エイブル+ヘザー・ボーウェン=ストライク+宮台真司+毛利嘉孝+シュテフィ・リヒター+(司会)クッキ・チューで行われた1日目のプレゼンと討議が本では第2部に、キース・ヴィンセント+黒沢清+宮台真司+村上隆+(司会)東浩紀で行われたプレゼント討議が第1部になっています。
そして、この配置には納得。第1日目に参加した大塚英史が本への収録を拒否したという事情があるにせよ、圧倒的に面白くて議論が噛み合っているのは2日目の第1部。キース・ヴィンセントの最初のプレゼンも素晴らしいですし、村上隆のMr.をいかに国際マーケットに売り出したかというプレゼンもすごいです。そして討論もかなり噛み合っていて面白いです。
特に村上隆のプレゼンは「ここまでぶっちゃけていいのか…?」という内容で、村上隆のしたたかさ、底知れぬバイタリティ、そして戦略眼を感じさせるものです。
一方、第2部は最初のプレゼンから議論がかなり拡散してしまってますし、毛利嘉孝のプレゼンが東浩紀とこの企画へのいちゃもんみたいになっていて、討論でもうまく噛み合ってない。宮台真司の発言のいくつかは面白いですが、全体的に散漫な印象を受けます。
そんな中でも個人的に注目したのが次の2つの発言。
キース・ヴィンセント「日本語専攻の学生の多くは、何か無意識のレベルで、日本で勉強したら自分の子ども時代をもう一度追体験できるのではないかと夢想しているフシがあります。」(18p)
宮台真司「(ジョン・ゾーンは)どんな人間が日本的なるものにはまるのか、シネマテークに通って日本映画を見続けるのはどんな人間のタイプなのかという問いに、「たとえば、いじめられっ子とか」と答えました」(252p)
こうした発言を読むと、日本のアニメやマンガは何か「失われた子ども時代を取り戻すためのもの」のような形で消費されているようにも思える。
日本でも「イケてる/イケてない」の区別や「スクール・カースト」などと呼ばれるコミュニケーション能力などによる子どもたちの間の「格差」のようなものが存在しますが、アニメやマンガと言うと、一般的に「イケてない」側の子どもと結びつきます。
アメリカでも「スポーツができてパーティーでカップル組める」ような人間と、そういったことから排除された人間がいますし、全世界でこういった「格差」は存在するのでしょう。
そして、いつの間にか日本のアニメやマンガはこうした人々に普遍的に訴える何かを身につけてしまった。
それが東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「萌え要素」のようなものなのか、それとも全く別なものなのかはわかりませんが、やはり何かがあるのでしょう。
宮台真司はこれについて、日本のポップカルチャーには「現実の差異を、自己から無関連化する機能があるから」だとしていますが(208p)、それはあるにせよ、それ以外の何かもあるような気がします。
「イケてない」子どもたちのための文化が「クール」と呼ばれるようになる。とてもパラドキシカルな現象ですが、この本を読むと確かにそういうことが世界で起こっているのだと感じます。