木寺元『地方分権改革の政治学』

  御厨貴編『「政治主導」の教訓』に収集されていた論文「 「脱官僚依存」と「内閣一元化」の隘路 「前の調整」・「後ろの調整」・「横の調整」」が面白かった木寺元の単著。 
 タイトルは抽象的で地味ですし、サブタイトルの「制度・アイディア・官僚制」ときても多くの人はピンと来ないかもしれませんが(この抽象的なタイトル+副題に3つの単語というのは自分の卒論のタイトルと同じで、あんまよいものではないですよね)、実はなかなか面白い研究ですし、地方分権改革以外の政治過程にも適用できそうな議論が展開されていると思います。


 政治の世界では、与えられた制度の中で、政治家や政党、圧力団体、有権者といったアクターが合理的に行動し、自らの利益を最大化することを狙っていると考えられています。例えば小選挙区比例代表制のもとでは、各圧力団体は今までのように自民支持一辺倒ではなく、政権交代の可能性も視野にいれて献金先やその額を調整しますし、公明党組織力で比例で議席を取りつつ、自民党との選挙協力によっていくつかの小選挙区での勝利と比例票の上積みを狙っています。
 ところが、各アクターが前提とする制度は不動のものではありません。衆議院選挙制度中選挙区制から小選挙区比例代表制へと大きく変化しましたし、この本にも書いてあるように地方自治制度はここ20年ほどで大きく変化しました。 


 この本の大きな問いは「制度改革はいかにしてなされるのか?」ということです。
 成功する改革もあれば挫折する改革もありますが、その差はどこにあるのか?この本では「アイディア」という概念に注目し、改革のアイディアが「認知的次元」と「規範的次元」の両方で受容され、その改革を行う「主導アクター」を獲得し、さらにその「主導アクター」が「専門的執務知識」を持っている場合に、改革が成功し、制度改革がなされるとしています。


 「アイディア」というと多くの人は「今までになかった考え」といったものを想像するかもしれませんが、この本でいう「アイディア」はもっと幅の広いもので、第1章ではGoldstein and Keohaneが「アイディア」を「世界観」、「道義的信念」、「因果的信念」に分類した議論を紹介しています。
 例えば、「神が存在する」とかは「世界観」ですし、「堕胎は罪である」は「道義的信念」、「因果的信念」は少し難しいかもしれませんが「二酸化炭素を削減すれば温暖化は止まる」といった信念です。
 この本では、基本的に「道義的信念」が「アイディアの規範的次元」、「因果的信念」が「アイディアの認知的次元」という形で整理されています。
 わざわざ「アイディアの規範的次元」と「アイディアの認知的次元」に分けているのはなぜかというと、「規範的」には皆が同意することであっても、その方法論について皆が同じ考えを持つとは限らないからです。例えば、「政府の力で景気をを一刻も早く回復させるべきである」という「規範」に皆が同意したとしても、「景気回復には思い切った金融緩和が必要」という方法論に皆が同意するとは限らないからです(この例はあくまで自分で思いついた例なので筆者の考えとは少しずれているかもしれません)。

 
 この「アイディアの認知的次元」と「アイディアの規範的次元」、さらに「主導アクター」の「専門的執務知識」がすべて揃うと制度の改革が成功するわけですが、著者は地方分権改革の成功と失敗、その要因を次のように整理しています(この表は62pの表をもとに作成したもの)。
 

    市町村合併(~80s) 市町村合併(90s~) 機関委任事務(~80s) 機関委任事務(90s~) 交付税総額削減 交付税制度(~90s) 交付税制度(00s~) 第2次分権改革
構成的局面 認知的次元  ×  ◯  ×  ◯  ◯  ◯  ◯  ×
構成的局面 規範的次元  ×  ◯  ◯  ◯  ◯  ×  ◯  ×
因果的局面 専門的執務知識  ー  ◯  ー  ◯  ◯  ー  ×  ×
  政策の帰結  ×  ◯  ×  ◯  ◯  ×  ×  ×


 このようにアイディアの認知的次元」と「アイディアの規範的次元」、さらに「主導アクター」の「専門的執務知識」がすべて揃った改革だけが成功しています。
 例えば、機関委任事務の廃止に関しては、80年代までは、知事会からの要望があり、自治省の官僚もその必要性を認めていたものの(「規範的次元」は満たしていた)、機関委任事務の廃止に向けた学問的な精緻な理論がなく自治体の中にも必ずしも機関委任事務廃止を求めないものがいたため(「認知的次元」を満たさず)、改革は失敗したとしています。
 一方、90年代以降になると、市町村への権限の移譲によって危機感を覚えた都道府県の動きや、「役割限定論」(国の役割を限定列挙し、その他の役割は地方のものであると推定させる発想(122ー123p))の登場などによって、「認知的次元」でもアイディアが受容され、それが機関委任事務の廃止につながります。
 また、00年代以降の交付税制度の改革は、竹中平蔵総務大臣のもと、いわゆる「竹中チーム」が財政学者の理論や一連の小泉改革の流れのもとに取り組んだものの、チームに「専門的執務知識」を持つ自治制度官僚がいなかったために十分な成果をあげることができなかったとしています。


 この他の部分については実際に本を読んで確かめて欲しいのですが、全体的に説得力はあると思いますし、実際の政策の実現過程を分析したものとしても面白いと思います。いわゆる「官庁文学」の重要性や、審議会の役割、審議会での意見集約のされ方など、「こんなふうにして日本の政治は決まっていくのか」と思える部分も多いです。 
 この本を読むと、民主党の「事業仕分け」があまりうまくいかなかった理由も見えてくるでしょう。「事業仕分け」では「規範的次元」はともかくとして、改革のための精緻な理論が積み上げられるわけではありませんし(つまり「認知的次元」でアイディアが受容されない)、仕分けを実行する「主導アクター」がはっきりしません。


 ただ、最後にいくつか疑問に思ったことをあげておきます。
 まず、アイディアの「認知的次元」と「規範的次元」をきれいに分けることができるのか?という点。
 特に「規範的次元」の位置づけはやや不明確な部分もあると思います。この本の第4章の「地方財政制度改革」における「規範的次元」の説明は竹中チームの説明に当てられていて、これをもって「規範的次元」とするのはどうかな、とも思います。


 そしてもう一つはGoldstein and Keohaneが「アイディア」を分析した時に出してきた「世界観」について触れられていない点です。
 現在、多くの国会議員が選挙の際に「地方分権」を口にし、地方分権は誰にとっても正しい政策のように扱われています。けれども、地方分権が進めば国会議員の権限はそれだけ弱くなるはずで、本来ならば国会議員がこれだけ「地方分権」の大合唱をするのはおかしい気がします(例えば、国会議員がよく「外交と国防以外は地方に任せるべき」みたいなことを言いますが、実際にそうなれば国会議員の地位は大きく低下し、献金なども集まらなくなるはずです)。
 このおかしな現象を読み解く一つの答えとして「地方分権は正しいという世界観が広がっている」というのがあるのではないでしょうか。こういった「世界観」あるいは「時代の趨勢」のようなものは分析の枠組としてはあまりふさわしいものではないのかもしれませんが、やはりその影響は無視できないと思います(橋本龍太郎首相による省庁再編という大きな制度改革が成功したのも、「行政改革こそ日本の課題!」という「世界観」なり「時代の趨勢」があってのものではないでしょうか)。


 まあ、そんな疑問を持ったりしましたが、制度改革を分析する上で有効な枠組を提示してくれていることは間違いないですし、日本の政策決定システム、地方分権
改革の流れを知る上でも有益な本だと思います。
 あと、「あとがき」のエピソードはドラマ化希望!


地方分権改革の政治学 --制度・アイディア・官僚制
木寺 元
4641149003