木下衆『家族はなぜ介護してしまうのか』

 「家族はなぜ介護してしまうのか」、なんとも興味をそそるタイトルですが、本書は、認知症患者のケアにおける家族の特権的な立場と、それゆえに介護専門職というプロがいながら、家族が介護の中心にならざるを得ない状況を社会学者が解き明かした本になります。

 本書は専門書であり、イアン・ハッキングや「概念分析」の考えを援用しながら認知症と介護について分析したりもしています。ただし、多くは分析は当事者の実際の声を拾いながら行われており、社会学の難しい概念がわからなくても介護経験者などには「わかる」部分が多いのではないかと思います。介護問題が身近になくても、対人援助職についている人などは「わかる」と感じる部分が多いのではないでしょうか。

 また章と章の間にはコラムも挟まれており、実際に介護問題に直面している人はそこから読んでみてもいいかもしれません。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

序章 新しい介護、新しい問題

1章 認知症の概念分析へ――本書が問うもの

2章 認知症に気づく――何が、なぜ「おかしい」のか

3章 患者にはたらきかける――「より良い介護」を目指して

4章 悩みを抱える/相談する――規範を再構築する

5章 他の介護者に憤る――介護家族による「特権的知識のクレイム」

終章 新しい認知症ケア時代を生きる――悩みが映し出すもの

 

 認知症は、以前は「ボケ」「痴呆」などと呼ばれており、医療支援の対象ではあったものの、きちんとした支援を受けられるのは運がよい場合に限られており、自宅であるいは精神病院で監禁されているケースも少なくありませんでした。

 こうした状況は2000年代に入ると大きく代わってきます。2000年には介護保険制度がスタートし、01年には厚生労働省が『身体拘束ゼロへの手引き』と題した対策を発表しました。04年には「痴呆」という用語が「認知症」に変更され、「痴呆になると何もわからなくなってしまう」(11p)というイメージの刷新が図られました。

 同時に患者を個人として尊重しようとする動きも強まります。認知症患者は退行しつづけ子どもに帰っていくというような見方は退けられ、認知症患者のその人らしさを尊重し、その人の個性や今までの人生に応じたはたらきかけが重視されるようになります。

 

 これは基本的には良い流れなのでしょうが、そこでは新しい問題も登場します。

 認知症のケアのあり方の変化に大きな影響を与えた精神科医小澤勲は「患者の人生が透けて見えるようなかかわり」を求めましたが、このようなかかわりをすることができるのは誰なのか? という問題です。

 

 日本では家族による介護が広く行われています。この背景として、例えば介護保険の不十分さ、家族規範の強さ、あるいは遺産相続との関係などがあるのかもしれません。「家族規範の強さが介護保険の利用を手控えさせている」(施設よりも自宅が幸せ)という見立てはそれなりに説得力のあるものでしょう。 

 ただし、いくら介護保険を利用したとしても、介護における判断を行わなければならない「ケア責任」は残ります。「本書が明らかにするのは、私たちが新しい認知症ケア時代にあるからこそ、家族のケア責任が強化されるという事態」(27p)です。

 患者本人に寄り添った介護が理想ですが、認知症患者の意思を聞くことはしばしば困難を伴います。そこで頼りにされるのが患者の一番近くにいたと考えられる家族です。患者に寄り添うためには家族の持つ知識が必要になるのです。

 

 そして、患者本人についての知識だけではなく、家族の持つ認知症についての知識が、患者への見方や、家族の振る舞いを変えていきます。例えば、「年をとって目立ってきた怒りっぽい性格」は「認知症の症状」として理解し直されるのです。

 また、認知症を知ることで、家族は患者に対して「やって良いことと悪いこと」を知ります。この知識は規範となり、介護は道徳性を帯びてきます。

 本書では、熱心で意識の高い(新しい介護の流れを受け入れている)家族や家族会へのフィールドワークやインタビューを通じて、このメカニズムを明らかにしようとしています(第1章では理論的背景についてハッキングや概念分析の考えを使って説明されています)。

 

 第2章は「認知症に気づく」と題されていますが、実は同居している家族であってもすぐには気づかないケースも多いです。家族は「何かがおかしい」と思うのですが、その出来事の1つ1つはたいしたものではないですし、正常範囲の老化と見られることも多いです。

 

 本章では80代の認知症の女性患者Kが認知症だと気づかれる過程を追い、「何かがおかしい」が「認知症ではないか」という考えに変わる様子を分析しています。

 Kには長女と次女がおり、長女はホームヘルパー1級を持ち、次女は義母が認知症になるなど、2人とも認知症に対する知識はあるはずでした。

 Kが文字が書けなくなっていること、家のバリアフリー化に強硬に反対したことなど、それなりにおかしい兆候はあったのですが、文字が書けないのは入院による環境の変化、バリアフリー化への反対は長女が言い出したからではないか? などと解釈され、なかなか「認知症だ」との判断には至りませんでした。ここでは相手をよく知っているからこそ、おかしい行動にも説明がつけられてしまうという形になっています。

 結局、次女が説得したにもかかわらずバリアフリー化を受け入れなかった(説明したのに説明をどんどん忘れているようだった)ことから、認知症の診断を受けさせようという合意がなされます。

 そして、認知症という診断が下ると、改めて過去の出来事(例えば、夫を亡くした後に台所にゴミが散乱し始めた)も、夫の死というショックや本人の性格ではなく、認知症が原因ではないかと捉え直されるようになります。いわば過去が遡及的に構成されるのです。

 

 第3章の冒頭では、認知症になった母親の食事の介助をしている息子がやたらに大根の話をしていたエピソードが紹介されています。他にもさまざまなメニューが並んでいるにもかかわらずです。

 このエピソードの背景には「できなくなったと思っていたら、能力が眠っていたりする」(95p)という認知症患者への理解があります。この母親は施設に入所しているのですが、家族は月に1回程度の訪問で、なんとかして眠っている能力にはたらきかけようとします。そこで、息子は母親がかつてよく畑で作っていた大根に注目し、大根を使って眠っている能力を引き出そうとしているのです。

 

 こうした患者の今までの人生に着目したはたらきかけというのは他の家族の間でもよくなされています。お金を稼ぐことが好きだった夫に簡単な作業をさせてお金を渡す妻、毎日化粧をして出かけていた妻に化粧を施す夫など、過去のライフスタイルに沿ったはたらきかけがなされています。

 注目すべきはこうした患者の人生についての知識は家族にとって「特権的知識」(102p)であることです。認知症患者本人からその人の人生や好物などを聞き出すことは難しく、患者の家族に頼ることになります。専門職も患者の行動を家族の話から解釈し、また家族からの情報を元にはたらきかけを行うことになるのです。

 

 しかし、家族だからすべてにおいて適切な判断ができるわけではありません。先程の食事の介助のケースでは、昔好きだったカボチャを食べさせようとしたものの食べてくれず、職員に介助を代わってもらってから食べさせようとさせた部分が繊維質で飲み込めなかったかもしれないということに気づきます。ときには専門的な知識や技術が良い反応を引き出すこともあります。

 また、人生におけるイベントに対して患者がポジティブな印象を持っているのか、ネガティブな印象を持っているのか、といったことは家族にもわからないことがあります。家族は患者にはたらきかけながら、いわば患者の人生を再構築していくことになるのです。介護というのはこのように反省的なプロセスでもあります。

 

 第4章の冒頭では、家族会において、ある介護者が夫が夜中に「[外を]タイヤが転がってきたので見に行く」というから「それは夢やから」となだめたという話をしたところ、ベテランの介護者が「それは絶対に言うたらアカン」と注意したエピソードが紹介されています(126p)。

 認知症患者を介護する人々の間では家族会がつくられてきました。家族は患者の過去を参照しながら介護を行いますが、ときにそれは患者の過去、あるいはそのイメージに縛られたものになります。一方、家族会のメンバーは患者の過去をそれほど知りません。そこで、家族会には思い込みを相対化し、自分たちの介護を批判的に振り返る役割が期待できます。

 

 この家族会でのアドバイスは自らの経験だけではなく、一種の規範に基づいて行われます。典型的なものは「相手は認知症なのだから」と言って、トラブルの原因を患者本人の性格などにではなく、認知症という病気に求めるものです。

 そしてここから「否定しない」という規範が生まれてきます。冒頭のタイヤの話も、「妄想だと否定しても意味がない」という認識と「否定しない」という規範のもと、やや強めの口調でアドバイスが送られているのです。

 逆に感情面では「患者はわかっている」と認識されることもあります。例えば、表情などは患者もよく認識していると考えられ、「ニコニコ方式」での介護が良いとされています。

 患者の突飛な行動につい怒ってしまったり、あるいは以前の自分と患者の関係を重ねて思い悩んでしまうケースもあるのですが、家族会では「悪意のない患者」というイメージのもとで患者を受容することが求められます。ただし、これは言うは易し行うは難しで 、わかっているのについ怒ってしまいます。ここで、家族は今までにはなかった(認知症についての認識が深まらなければ内面化されなかった規範からくる)「罪」を抱え込むことになるのです。

 

  こうして介護をつづける患者の家族は新たな規範を身につけるわけですが、それゆえに周囲と衝突することもあります。そのことについて分析したのが第5章です。

 介護に熱心な家族は新たな規範を身につけるだけではなく、患者の今までの人生に対してはたらきかけるような介護を行い、患者の人生を再構成していきます。患者の人生についての知識は家族が持つ「特権的知識」であり、だからこそ専門職に対しても「わかっていない」と憤ることがあります。

 さらに他の家族に対して憤ることもあります。例えば、面会の頻度が少ない家族や親戚が認知症患者のもとを訪れたとき、意外にシャキッとしたり、昔の出来事をいきいきと語ったりすることがあります。そこで「意外と元気」「大丈夫そう」といった判断が出てくるわけですが、こうした判断は普段から介護している家族のメンバーからは「認知症にはそういうところがある」として却下されます。普段介護に関わっていない家族や親戚は、患者の人生に対する知識はあるかもしれませんが、認知症を知らないのです。

 

 終章では今までの知見が次のようにまとめられています。

 では、なぜこうした事態が生じるのか。

 それは、私たちが新しい認知症ケアの時代に生きているからだ。新しい認知症ケアの考え方のもとでは、患者たちは、介護者たちの「はたらきかけ」次第で、患者たちの症状が改善することが強調される。そしてそのはたらきかけの際に重視されるのが、患者の「その人らしさ(personhood)」を徹底的に重視することだった。患者個々人のライフヒストリー、すなわち人生は、介護に関与する多数のアクターの中でも、特に介護家族が知っていると想定される。

 つまり患者の人生は、介護家族にとって一種の「特権的知識」となる。だからこそ、介護家族は「患者が何を望んでいるのか」「現在が過去と比べてどういった状態か」「介護サービスはどのように提供されるべきなのか」などを、しばしば判断することになる。介護における重要な責任を、いわば自ら背負い込んでいくのだ。(187p)

  これがタイトルの「家族はなぜ介護してしまうのか」に対する答えです。

 

 こうなると、「じゃあ、どうすればいいのか?」という声があがると思いますが、この処方箋はなかなか難しいです。患者の個性に応じてはたらきかけるような介護をやめれば問題は解決するのかもしれませんが、そう割り切れる人は多くないでしょう。

 著者は最後に家族に「このスタイルの介護の理想を完全に実現するのは不可能だということ」、「他の介護者と意見がしょうとするのはしょうがないということ」という2つのメッセージを送っています。

 答えとしてやや物足りなく感じる人もいるかも知れませんが、問題の構造を考えると妥当な答えなのでしょう。

 

 このように、本書は介護をしている家族へのメッセージを持った本ですが、同時に、問題解決のための新たな概念の獲得が新たな認識と新たな問題を呼び込む項王を分析した本としても面白く読めると思います。ここでの紹介では理論的な考察や先行研究への言及についてはそれほど触れませんでしたが、そうした部分もきちんと書かれています。  

 ページ数(240ページほど)も価格(2300円+税)も手頃ですし、介護問題に興味がある人、対人援助職の人、社会学に興味がある人、そして介護に直面している人にと、多くの人に薦めることができる本です。