P・シーブライト『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』

 かなりインパクトのある日本語のタイトルですが(原題は『THE COMPANY OF STRANGERS』、「異邦人たちの付き合い」といった感じでしょうか?)、みすず書房の本で内容はしっかりっしています。そして訳者は山形浩生みすず書房山形浩生の組み合わせといえばアビジット・V・バナジーエスター・デュフロ『貧乏人の経済学』が素晴らしく面白かったですが、『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』も面白い本です。


 ただ、一方で扱っているテーマが広すぎてなかなか紹介の難しい本でもあり、「訳者あとがき」で山形浩生も次のように書いています。

 本書をどんな本か一言で説明するのはなかなかむずかしい。ぼくが書店員なら、これをどこの本棚に置くべきかでずいぶん悩むことだろう。基本的には、各種の経済制度の発達を描いた経済学の本だというべきだろう。だがその根底には、ヒトという生物種の持つ社会性とその進化発展の分析もある。そしてそこからさらに、お金や市場、貧困と格差、グローバリゼーションといった経済学の本道ともいうべきテーマに加えて(ついでに2013年現在でもまだ尾を引いている、現在の世界金融危機に関する説明まである)、通常は経済的な仕掛けとは思われていない都市や国家、戦争といった社会システムについても話が広がる。あれもこれも、きわめて節操なくぶちこまれた本ではある。だが、そのすべてに通底する一つのテーマがある。それは、協力とそのための信頼だ。(414p)


 目次は以下のとおり。確かに「節操ない」です。

第 I 部 視野狭窄
第1章 責任者は誰?

第 II 部へのプロローグ
第 II 部 殺人ザルから名誉ある友人へ――なぜ人は協力できるのか?
第2章 人と自然のリスク
第3章 私たちの暴力的な過去
第4章 人類はどうやって暴力本能を手なずけてきたか?
第5章 社会感情はいかに進化したか?
第6章 お金と人間関係
第7章 泥棒たちの信義――貯蔵と盗み
第8章 銀行家の信義? 金融危機の原因とは?
第9章 仕事と戦争におけるプロフェッショナリズムと達成感
兵士と哲学者/物語の探求/プロの規範と視野狭窄
第 I 部、第 II 部のエピローグ

第 III 部へのプロローグ
第 III 部 予想外の結果――家族の結束から工業都市まで
第10章 都市――古代アテナイから現代マンハッタンまで
第11章 水――商品、それとも社会制度?
第12章 何にでも価格?
第13章 家族と企業
第14章 知識と象徴体系
第15章 排除――失業、貧困、病気
第 III 部のエピローグ

第 IV 部へのプロローグ
第 IV 部 集合的行動――交戦国家から国家間の市場へ
第16章 国家と帝国
第17章 グローバリゼーションと政治活動
第18章 結論――大いなる実験はどのくらい脆いのか?

 
 人類の経済発展の歴史をたどった本としては、ヒックス『経済史の理論』やダグラス・C・ノース『経済史の構造と変化』なんかがありますが、この目次をみてくれればわかるように、この本はジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』あたりから流行している「人類史」的なものに近いです。
 企業の分析などではダグラス・C・ノース『経済史の構造と変化』と同じようにロナルド・コースの理論などが引用されていますが、歴史の発展段階よりも面白い着眼点とわかりやすい例で物事を説明していくさまは、経済学をあまり知らない人でも楽しめるものになっています。


 さまざまな内容の詰まった本書ですが、一番の読みどころはやはりタイトルの「殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?」という部分でしょう。
 よく動物ドキュメンタリーなどでチンパンジーボノボの知能の高さを紹介する番組があります。確かに、道具を使いある程度の記号を使いこなすボノボなどを見ると、「人間まであと一歩」というイメージを抱きます。
 しかし、ボノボチンパンジーは野生では主に血縁関係の中で暮らし、他の群れに対しては強い警戒心をいだきます。さらにゴリラやチンパンジーは親族以外の個体を殺そうとする傾向があります(76p)。おそらく、人類の祖先もそうだったのでしょう。血縁集団で徒党を組み、他の集団に対しては敵対的に接していたはずです。
 ところが、いつからか人類は血縁関係のない集団と協力、分業を行い、驚くべき文明を発展させるに至りました。

 
 著者はその始まりを、親しい間柄の取り決めと「強い返報性」に見ています。「強い返報性」とは「他人が自分にしたことを相手にもしたいという本能的傾向」(83p)です。
 これは「打算」とは少し違います。打算であれば、お返しは将来を見越してのものであり、二度と会わないであろう相手にはお返しはしないはずです。しかし、この本によればエルンスト・フェールらの実験などによって、二度と再会しない他人に対してもお返しをすることが確かめられているそうです。 
 現代の社会では警察や裁判所など、ルールを破った人間を処罰するための機関が整えられていますが、人類が狩猟採集生活を送っていた頃には当然ながらそのようなものはありません。それでも、見知らぬ他人同士の協力関係が始まったのは、この「強い返報性」のおかげだというのです。


 そして、この「強い返報性」が「信頼」を生み出し、それが「協力」、さらには「分業」を可能にします。この分業は一種の「視野狭窄」を生み出すものですが、実はこの視野狭窄があってこそ、現代の人間はスームズな社会生活を送ることができるのです。
 この本の第1章では、1枚のシャツを題材にしてその驚嘆すべきしくみが説明されています。自分が今日たまたまシャツを買ったとします。しかし、売る側はある特定の個人がシャツを買いに来るとは想定していません。また、シャツ生産の工程に携わる人、インドの綿花農家から、マレーシアのシャツ縫製工場の従業員から、配送業者まで、シャツを買うのが誰かなどということはひとつも考えていません。
 ところが、「分業」、そして「市場」と「価格」のメカニズムが働くことで、シャツはほしい人のもとに届けられるのです。著者は「もしも誰か一人が、全世界の人々に対するシャツ供給最高責任者になったら、その人が直面する課題の複雑さは、戦争を戦う大将の苦境にも匹敵するだろう」(23p)と述べていますが、まさにその通りでしょう。


 ただ、この「視野狭窄」がマイナスになることもありますし、なんとなく保たれている「信頼」が崩壊することもあります。
 例えば、金融は人類が生み出した大きな発明の一つですが、それは「信用」という脆弱な基礎の上に成り立っています。この本の初版は2004年で、2010年に増補版が出ているのですが、その増補版(この訳は増補版を訳したもの)では第8章でサブプライム危機をとり上げ、「信頼」が崩壊する可能性にも注意を向けています。
 また、ナチスドイツの蛮行を可能にしたもの、ある意味で「分業」と「視野狭窄」でした。「ヒムラーの命令」「ドイツへの責務」といった言葉に忠実だった人間たちが恐ろしい蛮行を行ったのです(173ー175p)


 また、「協力」は人類の素晴らしい特性ですが、誰とどの範囲で協力するのか?という問題も残ります。
 この本の15章「排除」では、個人の生産性はより生産性の高い人間と協力したほうが伸びるということから、同類マッチングによって能力の高い物同士が結びつき、能力の低いものが排除されてしまう危険性を指摘しています。失業者、貧乏人、重病人といった人々は、人々の「信用」の網の目から排除されてしまう危険性があるのです(しかも、一度排除されると情報などさまざまな面で不利になり、能力も正当に評価されなくなる)。
 

 このようにこの本は人間の生み出した「分業」、「市場」といった社会制度の素晴らしさを説くとともに、そこに潜む危険と抜け落ちてしまう部分を指摘する本です。
 とり上げられているトピックが多く、また具体例が多すぎると感じる部分もあるのですが、単純に面白く、またそれとともに社会と歴史を考える上で新しい視点を付け加えてくれています。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』あたりを面白く感じた人にはぜひお薦めしたいですね。


殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?―― ヒトの進化からみた経済学
ポール・シーブライト 山形 浩生
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