アンドレアス・ヴィルシング、ベルトルト・コーラー、ウルリヒ・ヴィルヘルム編『ナチズムは再来するのか?』

 AfD(ドイツのための選択肢)の躍進などによって混迷が深まっているドイツ政治ですが、そうなると取り沙汰されるのが、この本のタイトルともなっている「ナチズムの再来」です。

 確かに2017年の総選挙でAfDは一気に94議席を獲得し、既成政党への不満の受け皿となりましたが、2019年の欧州議会選挙においてAfDの得票は11%ほどにとどまり、その勢いは薄れているようにも思われます。

 ただ、それでも「ナチズムの再来」が取り沙汰され、それが世界的な注目を集めるのがドイツという国家の宿命なのでしょう。

 

 本書はそんな声に対して、ドイツの歴史学者政治学者が集まってつくられたものです。もともとドイツのバイエルン放送と『フランクフルター・アルゲマイネ新聞』でメディアミックス的に展開されたエッセイを再構成したもので、20ページ弱の論考が並んでおり、読みやすいボリュームとなっています。

 原題は「ヴァイマル状況? われわれの民主主義にとっての歴史的教訓」で、AfDとナチの類似点をさぐるというよりは、政治、経済などさまざまな状況が、どのていどヴァイマル期と似ていて、どの程度似ていないのか、ということを考察したものとなっています。

 また、後述しますが、訳者の一人の小野寺拓也の「訳者あとがき」も本書の読みどころの1つではないかと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 〈政治文化〉 理性に訴える(アンドレアス・ヴィルシング)
第2章 〈政党システム〉 敵と友のはざまで(ホルスト・メラー)
第3章 〈メディア〉 政治的言語とメディア(ウーテ・ダニエル)
第4章 〈有権者〉 抵抗の国民政党(ユルゲン・W・ファルタ―)
第5章 〈経済〉 ヴァイマル共和国の真の墓掘人――問題の累積をめぐって(ヴェルナー・プルンペ)
第6章 〈国際環境〉 番人なき秩序――戦間期国際紛争状況と軍事戦略の展開(ヘルフリート・ミュンクラー)
第7章 〈外国からのまなざし〉 不可解なるドイツ(エレーヌ・ミアル=ドラクロワ
おわりに 警戒を怠らないということ(アンドレアス・ヴィルシング)

 

  第1章のテーマは「政治文化」。著者のアンドレアス・ヴィルシングは「ヴァイマル共和国の政治文化の際立った弱点は、社会が多元的であるとこの正統性に対する根深い不信である」(3p)と述べています。

 こうした考えが大連立を志向させ、それが議会制の機能不全に寄与したのです。また、こうした態度の根底には共同体(ゲマインシャフトイデオロギーがあり、この考えは共同体の敵や撹乱者を排除すれば、国民的な統一が実現できるというものでした。

 この、ある種の「敵」を排除できれば社会は良くなるはずだという態度は現代のポピュリズムにも通じるものです。ヒトラーの主張なども今風に言えば「ポスト・真実」と言えるのかもしれません。

 しかし、当然ながらヴァイマル期との違いは大きいです。多元的な民主主義への信頼は揺らいではいません。ただし、同時に著者は見通しが不透明なグローバル化の中で、見通すことが可能な単位である国家に立ち戻ることが魅力的になっているとも指摘しています。

 

 第2章のテーマは「政党システム」。その国にいくつの政党があってどういう力関係になっているかなどを示すものが政党システムです。ヴァイマル期には最大で14の政党が国会に議席をもっていましたが、現在は7つの政党からなる6つの会派であり、まず数からして違いがあります。

 ヴァイマル期の政党の多くは「階級と強く結びついた世界観政党」(20p)であり、階級の縛りにとらわれなかったのはカトリックの中央党とプロテスタントドイツ国家国民党くらいでした。

 こうした状況において政治的妥協は難しく、選挙の際に与党であることがプラスではなくむしろマイナスに働くようになります。そして、議会における合意はますます難しくなっていったのです。

 一方、現在のドイツにおいて代議制民主主義への信頼感は強く、5%条項により極端な主張を持つ小政党の乱立も避けられています。

 個人的には最後のほうにあった次の部分に、「ドイツだなあ」と感じました。

経済的にひどく弱体化していたヴァイマル共和国は、深刻な社会問題から600万人の失業者とその家族を解放することができず、そのことが彼ら彼女らを過激な政党のもとへ走らせることとなった。強い経済力を備えた連邦共和国は、およそ500万人の失業者を抱えた時期も、深刻な財政危機も、比較的うまく乗り切ることができた。したがって、財政健全化は、決してそれ自体が目的なのではなく、むしろ財政的に安定した国家が深刻な経済危機に際して不可欠な社会的緩衝装置となることを可能にするものなのである。(30p)

 

 第3章は「メディア」。著者のウーテ・ダニエルは、1932年に発覚したドイツの東部国境警備に当たっていたナチ党の突撃隊がポーランド軍が攻めてきた際には敵軍とではなく「11月の犯罪者」(第一次大戦末期にドイツ軍を背後から攻撃してドイツを敗北させた左派とユダヤ人)を攻撃することになっていたというヒトラーの命令の扱いから話を始めています。

 これは大きな問題であり、この問題の発覚を受けてほとんどの州政府が突撃隊の禁止を支持しました。ところが、一時は禁止を支持したヒンデンブルクが態度を変えたことで、突撃隊は解体されず、ヒトラーの政権参加への道も閉ざされることはなかったのです。

 こうなった背景の1つに当時のメディア状況があります。この命令の存在は当時の新聞も知っていましたがいわゆるオフレコ扱いで、賠償交渉でのドイツの立場が悪くなるという理由で公開を渋る政府の要請に従う形で各社とも大々的な報道を控えたのです。

 政治家とジャーナリストの距離の近さがこうした新聞の動きの背景にあり、この距離の近さは第一次大戦中の報道統制などによって強化されていました。

 さらにこの時期の新聞の多くは特定の政党と結びついており、その論調が政治家の行動を縛っている側面もありました。

 では、現在はどうかというと、政治家とジャーナリストの関係の近さはいつの時代でもあるものだが、イデオロギー的な分断はヴァイマル期ほどではないと見ています。

 

 第5章は「経済」。結論としては「世界恐慌に対してブリューニングが負うべき責任は小さいし、ブリューニングが犯したとされる誤りから学んだと主張される政策が成功したから、世界金融危機が大した損害をもたらさなかったというべきではない」(83p)との結論ですが、そうなんですかね?

 

 第6章は「国際環境」。ヴァイマル期と現代で一番違うのがこの国際環境と言えるかもしれません。

 第一次大戦後の時代は「西欧的観点から「戦間期」と呼ばれるものは、中東欧・南東欧にとっては、内戦とも国家間戦争ともはっきりしないような戦争が漫然と続く時代」(89p)で、中東欧とバルカン地域は残虐行為の頻発する戦争地帯となっていました。

 戦勝国の新しい国際秩序に対するスタンスも一致せず、戦間期の国際関係は「番人なき秩序」(95p)というべきものでした。

 これに対し、冷戦崩壊後はEUの東欧への拡大が急速になされるなど、この地域の問題に対して一致して対応しようという姿勢がありました。ただし、冷戦時にいたアメリカとソ連という「番人」はいなくなり、「現在のヨーロッパは再び「番人なき秩序」となっている」(96p)とも言えるのです。

 

 第7章は「外国からのまなざし」。経済状況などをみれば現在のドイツとヴァイマル樹のドイツは大違いです。ただし、周囲の国はドイツを歴史的に見て特別な国だと見なす傾向があります。

 したがって、ヴァイマルの再来が目前に迫っているのかどうかという問いは、ひとつのパラドックスを投げかけている。たしかにこの点についてはなんの裏づけもない。けれども、不安の声はしばしばドイツ本国よりもその国外で頻繁にあがってはいないだろうか?(102−103p)

 本来であれば、国外の観察者のほうが客観的にヴァイマル期と現在の異同を認識できそうなのに、そうはなっていないという見立てです。

 こうした見方に対して著者は現在のドイツの民主主義の堅固さと、ドイツの市民社会やメディアが古い民族主義の出現を抑えていると主張し、次のように書いています。

 民主主義に敵対的な諸勢力は20世紀前半の民族(Volk)や国民(Nation)のイメージを受け継ごうとしている。[東欧諸国の]共産主義政権が倒壊してからというもの、そうしたイメージは移行期の社会にとって歓迎すべきアイデンティティの受け皿となった。なぜならそれら諸国は、過去との取り組みや、安全かつポストナショナルな価値規範のヨーロッパで規模での構築といった、西欧的な道を経由してこなかったからである。ここに、「ヴァイマル状況」が裏口から舞い戻ってくるための足場が存在するのだろうか? これはとりわけ東欧でみられるものの、徐々に西欧でもみられるようになるのだろうか?(111−112p)

 

 ここで疑問が浮かぶのですが、この著者(エレーヌ・ミアル=ドラクロワ)の中では旧東独地域はどのような扱いになっているのでしょうか?

 この考えからすると、共産主義の東欧諸国の1つである東ドイツは当然ながら西欧的な道を経由しておらず、20世紀前半の民族(Volk)や国民(Nation)のイメージが復活するのも当然という気がしていきます。 

 そうなると、現在のドイツの危機はヴァイマル期の再来というよりは、現在進行しているハンガリーポーランドにおける民主主義の動揺と重なるものなのかもしれません。

 ここまで読んできて、この本は「東ドイツ」というファクターがほとんど無視されていることがわかりました(正面から取り上げにくい問題だということもわかりますが)。

 

 このように本書はいくつか興味深い部分はあるものの、個人的には肝心な部分を取り逃がしているようにも思えるのですが、実は本書にはもう1つの読みどころがあって、それが訳者の一人の小野寺拓也の「訳者あとがき」です。

 「過去と現在を安易に比較すべきではない」、「歴史から教訓を引き出すべきではない」ということは、歴史学の中でよく言われることです。これに対して小野寺拓也は過去を過去として捉えることの重要性を認めつつも次のように述べています。

 時間の中に自分自身を位置づけていく」という、人間にとって根源的ともいえる営みに対して、「過去は過去、現在とは違う。安易に比較や教訓をいうべきではない」というだけで、(さきに述べた危うさや落とし穴はその通りだとしても)歴史学が社会から求められている役割や機能を果たせるのだろうか。歴史学(とくに外国史研究)が「ある種の選ばれし優秀な少数者向きの外国趣味」で終わってしまっては、多くの人びとの要請に応えることはできないのではないだろうか。(142p)

 

 その点、本書はあえて「比較」を試み、「教訓」を探った本と言えるかもしれません。その試みがどのくらい成功しているかはともかくとして、この「訳者あとがき」には他にもいろいろと重要なことが書いてあり、一読をおすすめします。

 

 ちなみに「歴史学が歴史から教訓を引き出すべきではない」という主張が正しいのかどうかは判断が付きかねますが、「歴史から教訓を引き出すべきではない」という主張は間違っていると思います。もし、この本でも言及されている世界金融危機においてバーナンキ世界恐慌に対するFRBの失敗という「教訓」を引き出していなかったら(もちろんバーナンキの前にミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツの研究があるわけですが)、私たちはもっと深刻な打撃を受けていたでしょうから。