ディッシュの描く「純粋コミュニケーション」

 国書刊行会の<未来の文学>シリーズのトマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』は、ジャンル的にはSFなのかもしれないけど、そういったジャンルに収まらない傑作を含んだ短編集。特に文学的に非常に完成度の高い表題作「アジアの岸辺」と風刺とかを超えたレベルにある「話にならない男」は最高。そして、今回はこの「話にならない男」を題材にコミュニケーションについて。


 「話にならない男」の舞台は、他人と自由に会話するためには免許証が必要な世界。主人公のバリーは、システムのトラブルから仮免許を取得して、その仮免を本当の免許にするために、免許の保持者から「推薦」をもらおうとするが…という話。この話の面白さは独自の設定もさることながら、小説の中で行われる自由な会話の空疎さというものが、非常にブラックな笑いを誘うところにあります。例えば、次の部分(地の文は省略して会話だけを抜き出します)。

女の子「こんにちは」
女の子「調子はどう?」
バリー「最高、最高さ」
女の子「あなたの靴すてきね」
バリー「どうもありがとう」
女の子「あたし靴ってすごく好きなの」
女の子「靴フリークだって言ってもいいくらい」
バリー どう反応していいかわからずほほえむ
女の子「でもあなたのはとってもすてき。いくら払ったの、嫌じゃなかったら教えてくれない?」
バリー「憶えてないんだよ。大した額じゃなかった。別にどうってことない靴だし」
女の子「あたしは好きよ」彼女は言い張った。


といった具合に、どうしようもなく陳腐で退屈な会話が続きます。ただ、ここで思い知らされるのは自分たちの行っている会話も所詮こんなものだということ。たわいもないおしゃべりに、テーマや展開がある訳でもないし、ましてや必然性すらない場合が多いはずです。一般に行われている”自由な”な会話を繕っているのは、ある種の「ノリ」であって、上記のバリーの会話よりましな部分といえば、その「ノリ」くらいなものでしょう。


 斎藤環は著書『若者のすべて』の中で、過度にコミュニカティブで自己像が曖昧な「自分探し系」と、自己像は安定しているがコミュニケーションは苦手(または消極的)な「ひきこもり系」という2つの若者の類型を描き出しました。ここで注目したいのは、自己像とコミュニーケーションのスキルというものが一種の相反するものとしてとらえられている点です。コミュニケーションを裏打ちするものはある種の自信といったもので、自己像が安定しているからこそ、他人に対して積極的になれる、という考えの方が一般的で、確かにそれが当てはまるケースもあるとは思うのですが、携帯に100人以上の友人の番号を入れて常に連絡を取り合っているような人間を考えると、斎藤環の提示する類型に大きな説得力を感じます。


 もし、コミュニケーションが自分の考えを伝えるための手段であれば、「自分」というものがないコミュニケーションはまるっきり空疎なものになってしまいます。ちょうど、バリーの会話が、会話を続けるぎこちない儀礼のようなもので構成されているように、何かぎこちない言葉の羅列のようになってしまうかもしれません。けれども、コミュニケーションがそれ自身を目的としていたら、つまりコミュニケーションを続けることがコミュニケーションの最大の目的だとしたら、自分の考えや趣味といったものは円滑なコミュニケーションを妨害するノイズとなりかねません。ちょっと考えてみればわかると思うのですが、自分の考えをえんえんとしゃべり続けるような人としゃべりたいと思う人はそんなにはいないと思うのです。


 ただ、自分とは違う他者との関わりの中でまったく新しいものが誕生するというのもコミュニケーションの一つの力です。バリーは、推薦をもらおうと女性詩人と知り合いになり、その女性から「詩のアイディアを12個出せ」という難題をふっかけられて、苦し紛れのようにアイディアを出します。しかし、その苦し紛れのはずのアイディアは今までのバリーにはなかったオリジナリティにあふれています。例えば、こんな感じです。

一 彼女の一番好きなビールについて、広告のように書いた詩
二 クリスマスの買い物リストの形で書いた詩
五 古今を問わず、彼女が一番嫌いな大統領の墓碑銘となる、ごく短い詩
六 彼女がいちばん最近にひどく失礼なことを言った相手に対して詫びる詩
九 彼女がいままで誰にも打ち明けたことのない秘密のまわりをめぐりながら、最後にやはり秘密のままにしておこうと決意する詩
十一 恋人に捨てられた事件で極刑を正当化する詩
十二 彼女自身の顔を肯定的に細かく描写した詩


アジアの岸辺 (未来の文学)
トマス・M.ディッシュ 若島 正 浅倉 久志
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