スタニスワフ・レム『地球の平和』

 第2期の刊行が始まった国書刊行会の「スタニスワフ・レム・コレクション」の第2弾は〈泰平ヨン〉シリーズの最終作にして、レムにとって最後から2番目の小説になります。

 カバー見返しの内容紹介は次のようになります。

自動機械の自立性向上に特化された近未来の軍事的進歩は、効果的かつ高価になり、その状況を解決する方法として人類は軍備をそっくり月へ移すことを考案、地球非軍事化と月軍事化の計画が承認される。こうして軍拡競争をAI任せにした人類であったが、立入禁止ゾーンとなった月面で兵器の進化がその後どうなっているのか皆目わからない。月の無人軍が地球を攻撃するのでは? 恐怖と混乱に駆られパニックに陥った人類の声を受けて月に送られた偵察機は、月面に潜ってしまったかのように、一台も帰還することがなかったばかりか、何の連絡も映像も送ってこなかった。かくて泰平ヨンに白羽の矢が立ち、月に向けて極秘の偵察に赴くが、例によってとんでもないトラブルに巻き込まれる羽目に……《事の発端から話した方がいいだろう。その発端がどうだったか私は知らない、というのは別の話。なぜなら私は主に右大脳半球で記憶しなくてはならなかったのに、右半球への通路が遮断されていて、考えることができないからだ》レムの最後から二番目の小説にして、〈泰平ヨン〉シリーズ最終話の待望の邦訳。

 

 いろいろな要素が詰め込まれた小説なのですが、まず最初に前面に出てくるのが分離脳の問題です。

 これはガザニガなどが研究していたものですが、てんかんの治療などで右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断する手術を受けると出現する状態です。こうなると自分の左半身で起こったことは右脳で処理されるので、言語をつかさどる左脳はその状況を知ることができずにうまく経験を言葉に表せない状態になります。

 

 レムはこれに興味を持ったようで、ヨンは月で脳梁切断(カロトミー)を受けたという設定になっています。

 レムはあたかも一人の中に二つの人格があるかのうようにこの状況を描き、右脳の人格を「彼女」という代名詞で読んだりしています。そして、左手は勝手に女性のお尻をつねったります。

 

 実際にはこのようにはならないはずですが、本書の1つのポイントはヨンの右脳に重要な記憶が埋まっているという設定です。

 ヨンは月面で何かを見ており、その記憶は右脳にあって、ヨンの左脳もそれが何かを認識できません。そして、秘密をめぐってさまざまな人物が暗躍するのですが、その記憶は、例えばヨンを捕えて拷問にかけても取り出せないものなのです。

 

 このように前半は分離脳をめぐるドタバタという感じなのですが、中盤からはもう1つのテーマである兵器開発競争、そして月面での進化したAIとのコンタクトが中心になり、話はシリアスになっていきます。

 このあたりは『ソラリス』や『砂漠の惑星(インヴィンシブル)』を思い起こさせる内容で、レムならではの想像力と描写で読ませます。

 

 人類は地球に平和をもたらすために、各国が月面で兵器を開発して争い合うというアイディアを生み出したわけですが、人類の預かり知らぬところで進む競争は、当然ながら人類が想像のつかない進化をもたらしていくのです。

 

 レムは『砂漠の惑星』で究極の兵器として虫のような機械の大群を描いたわけですが、本書の結末で登場するのはさらに一歩進んだものになります。

 本書は1984年に書かれたものですが、この最終兵器の在り方に関しては、21世紀の実態を先取りしており、「さすがはレム」といったものです。

 時代を感じさせる描写もありますが、大元となるアイディアはまったく古びてはいないですね。