笠原嘉『うつ病臨床のエッセンス (笠原嘉臨床論集)』

 笠原嘉のうつ病に関する論文をまとめた本。1970年代からの論文が収録されているのですが、今読んでも新鮮なものが多いです。
 この本の中でもっともボリュームがあるのが1975年に発表された木村敏との共著「うつ状態の臨床的分類に関する研究」。
 ここ最近も双極2型への注目など、うつ病の分類は行われていますが、この論文の特徴は「病前性格ー発病前状況ー病像ー治療への反応ー経過」の5項目をセットにして分析しているところ。これによって、その人の人生の中での「うつ」というものが見えてきます。
 特に「病前性格」に関してはテレンバッハの提唱した「メランコリー親和型性格、下田光造の「執着型性格」を中心に興味深い分析がしてあります。
 例えば、「うつ病病前性格について」という論文に描かれている対他的円満を求める人への鋭い分析は、ドキッとさせられるものがあります。

 他人との円満な関係をのぞむことのなかにある第一の弱点は、他人の是認ないし賞賛なしには自己評価を確立できない点であろう。その場合の他者とは現実の重要な一人物という場合もないではないが、ふつうそうではなく、非現実的に理想化された人物像であるとか、抽象化された社会的規範であることが多い。そこには社会的規範との、あるいは一般的他者との過度の一体化がおこる。しかもその一本化はしばしば幻想的一体感でしかない。他者によってしか与えられることのない自己評価は、その人をして他者との間に当然あるべき角逐さえ避けさせ、しばしば自分を社会に安売りさせる。楽しみとか遊びさえ、彼らは他者もまたそれによって喜び楽しむことのできるような楽しみしか楽しみえない。他者をなしに存立しえない人の自我とは、いってみれば一種の自我欠損である。
 第二の弱点としては、個性的な人間関係の不成立をあげるべきだろう。誰とも争わず誰とも円満な関係を保持するということは、相手の個性、相手の誰を無視して画一的人間関係を意味する。相手のwhoよりも相手のwhatの方が問題となる。誰かに帰依するということはありえず、尊重されるのは多数者がよしとする没個性的・平均的価値観である。そして、彼らは人間関係に置いて円満であることの代償として、相手の個性的な心情の機敏を察する能力を失う。
 第三の弱点は、その世俗性からくるものであろう。次の項で述べることになるが、彼らはどちらかというと弱力的な性格の人で、必ずしも精悍な出世主義者でも脂ぎった拝金主義者でもないが、現世的職業的ヒエラルキーをその内面にふかく摂りこんでおり、しかもそれ以外の価値志向がよもやありえようとは考えない。そういう意味で世俗性のつよい人びとである。彼らの哲学は現世的所有のそれであり、地上密着のそれであって、現世超越的・世俗否定的、無用者礼賛的なニュアンスはきわめて乏しい。それはつねに一重の価値観といってよく、その中で彼らが影におびえるのはつねに所有喪失である。(76ー77p)


 笠原嘉の語り口は基本的のソフトで、治療の方針も非常に常識的と思えるものですが、引用して箇所に見られるように人間に対する洞察は、時に鋭く辛辣。この洞察が、論文を古びさせない理由だと思います。
 うつ病に興味のある人、そして人間に興味のある人に薦めたい本です。


うつ病臨床のエッセンス (笠原嘉臨床論集)
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