中井久夫『「伝える」ことと「伝わる」こと』

 ちくま学芸文庫中井久夫コレクションの第4巻。
 『世に棲む患者』は著作集の第5巻「病者と社会」を中心に、『「つながり」の精神病理』は著作集の第6巻「個人とその家族」を中心に、『「思春期を考える」ことについて』は著作集の第3巻「社会・文化」を中心に、それぞれ編まれたものなのですが、この『「伝える」ことと「伝わる」こと』は著作集第1巻の「分裂病」、第2巻の「治療」を中心に編まれたものです。
 

 ということもあって、今までの「中井久夫コレクション」の中では最も精神医学的な内容といえるかもしれません。
 ですから、初めて中井久夫の本を読もうと考えている人には、このコレクションの前の巻のほうがおすすめです。ただ、今回の『「伝える」ことと「伝わる」こと』でも、治療における「言葉」の機能や役割といったものが突き詰めて考えられていて、人とのコミュニケーションが仕事の中で大きな役割を占める人にとっては非常に示唆にとんだ内容になっていると思います。


 まず「統合失調症者における「焦慮」と「余裕」」では、統合失調の治療において非常に有用で、統合失調症者の共感をえやすい言葉として「あせり」と「ゆとり」があげられています(他にもこの本では「アンテナ感覚」という普通ではあまり使わない言葉が統合失調症者の共感を得る言葉としてあげられています)。
 近年、「ゆとり」というと「ゆとり教育世代」を揶揄する言葉として目にすることが多くプラスの印象が以前ほど感じられなくなった言葉ですが、次の引用文に見られるように、この「ゆとり」というものは人間にとって非常に重要なものです。

 ここで、筆者の経験によれば、統合失調症者をおとしめず辱めず、その他要するに病者の安全保障感を掘り崩さずに病者からも語られ、治療者も口にしうる少なくとも二つのことばが存在する。それは「あせり」(焦慮)と「ゆとり」(余裕)である。「ゆとり」にはその欠如態において、すなわち「ゆとりがない」と語られることも含めよう。これらのことばは、発病過程の初期から寛解過程の晩期までを通じて語られる点においてきわめて他をぬきんでたものである。
 (中略)(73ー74p)
 慢性破瓜病者や年余の緘黙患者がこれらのことばでみずからを語るのはありえないことのように思われるかもしれない。しかし、ある。一般に冷たい対人距離を固守しつづけて、よもや焦燥感と縁がそもそもあるとは思えない病者に、約八年目にはじめてたずねたところ、彼は、一寸ためらってから沈痛な表情で「自分は焦りの塊であることに甘んじているのです」と答えて私を驚かせた。(73ー75p)


 なかなか外部の人間からはその心の中がわからない統合失調症の患者ですが、「ゆとりがない」、「あせっている」というのが一つのポイントのようなのです。
 統合失調症の患者が「あせっている」というのは意外な感もします。むしろ、「あせり」というとうつ病の患者などをイメージしますが、この統合失調症の患者の「あせり」とうつ病患者の「あせり」というものは次に引用するように少し違ったものだそうです。

 ここでまず念頭に浮かぶのは、うつ病患者、あるいは躁うつ病患者の「あせり」である。しかし、それは一般に世俗的なものの限界線内で動き、具体的な到達可能なものへの「あせり」であり、この世の階層秩序的価値観の堅固な枠組に守られている。しかも、統合失調症者の「あせり」とは対照的に、事後的な「あせり」、「とりかえしのつかない」という「くやみ」の感情と表裏一体をなした「何とかしてとりかえしをつけよう」とする「あせり」であることが多いであろう。ここに躁うつ病者、うつ病者の「あせり」の持久性と解消困難性がある。彼らにとっては「あせり」の対語は「ゆとり」でなく自責の念を伴った「あきらめ」であるようにみえる。(84p)


 また、「統合失調症者の言語」では、統合失調症者の言語の特徴の1つとして、「ルーズさ」がないことをあげ、そこから言語の特徴、そして人間の会話における「話の継ぎ穂」について考察しています。
 「話しの継ぎ穂」とは、会話における「あのー」や「えー」といった部分や語尾のつけ方などのことで、これが人間の会話をスムーズに進行させる一つの鍵なのですが、この「話しの継ぎ穂」と統合失調症者の関係について中井久夫は次のように述べています。

 親しい人同士の会話は、語尾という相手とつなぐ機能を持っている部分が、のみ込まれたようにあいまいに語られる。一方、相手も、そこは分ったということでもう次の言葉がその上に重ねられる。そう、会話とは二人で一つの文章をつくり上げることをめざすのだ。統合失調症の人相手の場合は、これが起こらない。この相手とつなぐ継ぎ穂が弱まっているように思える。
 統合失調症の人や統合失調症気質の人は、そのまま文章になりそうな話をする。実は、病気でない人の話のほうがテープにとってみるとルーズである。(143p)


 さらに「統合失調症者の言語と絵画」では、統合失調症者の言語の世界を次にように描写しています。

 彼らが自閉的であるといわれるのは、強固な壁を内面の周囲に廻らしているからではない。彼らは、実は風の吹きすさぶ荒野に裸身で立ちつくしているのである。すべては見透しである。外面と内面の境界がないとき、”表現”がいかにして可能であろうか?(156p


 こうした言葉の問題だけではなく、この本では絵画療法、そして統合失調症者の絵の問題などについても分析されていますし、タイトルにもなっている「「伝える」ことと「伝わる」こと」では、コミュニケーションの中での「伝え」ようとすることと、おのずから「伝わって」しまうことの違いと、それが医療や看護に与える影響が考察されています。

 
 さらに「私の日本語作法」、「翻訳に日本語らしさを出すには」といった文章論も面白い。
 特に「翻訳に日本語らしさを出すには」には翻訳や日本語の文章を書くコツが箇条書きにされていて非常に役に立つ内容。例えば、「複数の形容詞が一つの名詞にかかっている場合、その順序は、西洋語と逆にすると、とおりが良いことが多い」(346p)とか「文章を並べていく時の接続詞の順序は、「また」「なお」「さらに」の順序であるようだ。「また」と「なお」は逆の順序でもよい」(347p)「「のである」を動詞終止形の後に付けると、文章が書きやすくなるが説得調になり、しばしば、文章の品が下がる」(348p)など。
 

 これ以外にも、震災後の神戸について磯崎新と語った対談などもあり、コレクションの既刊のものと同様に非常に読み応えのある内容になっています。


中井久夫コレクション 「伝える」ことと「伝わる」こと (ちくま学芸文庫)
中井 久夫
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