笠原嘉『再び「青年期」について』

 斎藤環が自分の基本的な考えを説明するときによく使う言葉に「変われば変わるほど変わらない」というものがあります。これは社会がいくら変わっても人間性は変わらないといった認識を示すものとして使われるのですが、この笠原嘉『再び「青年期」について』を読めばその言葉が実感できると思います。
 

 この本には、次の論文が収められています。

青年期精神医学の現況と展望(1980)
今日の青年期精神病理像(1976)
自立と個性化(1979)
大学生にみられる特有の「無気力」について―長期留年者の研究のために―(1971)
アノレキシア・ネルボザァの心理的側面(1985)
家族についての精神医学的一考察(1983)
クリニックで診る青年の「ひきこもり症」(2011)

 最後の論文を除けば、いずれも書かれた時期は25年以上昔。ここから現在に至るまで、青年を巡る環境が激変し、新人類、オタク、コギャル、草食系などさまざまな若者が登場しています。ですから、今更これらの論文を読む価値はないと考える人もいるでしょう。
 ところが、「変われば変わるほど変わらない」のです。
 例えば、「今日の青年期精神病理像」の次の部分。

 この青年前期の、つまり中学後半から高校前半の子どもたちは、ふつうおずおずと、しかし抗いがたい力におされて異性との接近を試行錯誤しだす。俗にいうテレフォン・エイジ(電話時代)で、学校などで直接顔をあわすときには出来ない個対個の対話を電話という間接的で、不安の少ない方法で練習的におこなう。(51p)

 もちろん、今の若者にテレフォン・エイジ(電話時代)はないでしょうが、基本的に固定電話が携帯、そしてメールに置き換わっただけですよね。


 また、同じ論文で不登校の原因について次のように述べています

 この時期の男子の学校嫌いにはあからさまではないにしてもすでに男性アイデンティティをめぐる悩みがはっきりと一枚かんでいることが多い。そのことを理解するには、この年代の男児の同年輩集団がしばしば、そのメンバーにかなり荒々しい男性確認的儀式の共有を要求することを知っておく要があろう。ある中学一年生の男児の登校拒否の契機となったのは、友人たちのその種の荒々しい行為によって生じた打撲痛の心気的拡大であった。(40p)

 多少ばらつきはあるものの現在でも中学生あたりになると、男子にはこうした「男性確認的儀式の共有を要求する」行為みたいなものがあって、それが登校拒否などにつながるということについては、実際に中学生を見ている人なら思い当たるものがあるのではないでしょうか。


 ですから、この本の精神医学の方法や研究を紹介した部分に関しては古びたかもしれませんが、人間性について書かれた部分は古びていません。この本に散りばめられている洞察は今なお光っていると思います。
 特にそれを感じるのが、先ほど引用した「今日の青年期精神病理像」と「自立と個性化」、「家族についての精神医学的一考察」の3つの論文。
 「自立化と個性化」は、中公新書として出版された『青年期』をまとめたような内容なのですが、その中で笠原嘉は、アイデンティティの探索に疲れて「無気力」化してしまう青年たちの特徴を8つあげています。前半の4つでは、男性に多いことや年齢のこと、努力型の真面目人間であること、どちらかというと完璧主義であることなどをあげているのですが、面白いのは後半の4つ。笠原嘉は次のような特徴をあげています。

(5) 勝敗に意外に敏感なので、負けそうなときには戦わずにリングからおりる。副業はできる。副業には真の意味の星取表はない。人生副業主義者。
(6) 「成人恐怖」的傾向を長くもつ。自分にアイデンティティがないとき、他人のそれは、とくに成人のそれは巨大堅牢にみえて、とうてい近づきがたいからである。とくに近親者中に優越者をもつときこの傾向は助長される。二人きょうだいの多い今日、二人の間に分極化がおこり強者と弱者ができやすいことも、この文脈で注目されてもよいのではないか。
(7) ある種の「やさしさ」をもつ。このことは必ずしもネガティヴに考えるべきことではない。
(8) 自分の進路決定を他人の手に委ねてきた人に多い。(100ー101p)

 (5)に関しては、例えば、ネットの中でやたら副業についての記事が人気を集める(具体的には「はてブ」を集める)ことが思い出されますし、(6)に関してはアニメやマンガの登場人物の設定を思い出します。近年のアニメやマンガにおいて、主人公の少年を導くのはだいたいが少女であったり人間以外の何かであったりで、成人の男性が主人公を導く話ってずいぶん少なくなりましたよね。


 こうしたアイデンティティについての漠然とした悩みは男性に多いのですが、女性にも皆無というわけではありません。そのあたりについて笠原嘉は次のように述べています。

高学歴の女子学生中にも失速的無気力が散見されはじめる気配のみえること。ただ彼女らの場合、男子に伍しての自己実現と女性的・母性的存在としての自己実現との間にはさまれての、いってみれば現実的葛藤がはっきりと存在する。男子学生についていわれたアイデンティティの危機に正確に対応するものは、女性の場合むしろ育児をほぼ終えた後の長いポスト青年期に来るのではないか。(101p)

 ここで思い出されるのは桐野夏生の小説など。育児を終えた母親のアイデンティティをめぐる葛藤というのは、ここ最近よく持ち出されるお話ですよね。


 「家族についての精神医学的一考察」では、家族について「遺伝と環境」、「個人と社会」、「現実と空想(もしくは事実とフィクション)」という3つの軸という観点から家族が分析されています。
 家族はまさに「遺伝と環境が交錯する場所」でありますが、「遺伝か環境か?」という二元論は乱暴でもあり危険でもあります。このことについて笠原嘉は以下のように警鐘を鳴らしています。

 「遺伝と環境」という文脈は科学的には一見クリアにみえるが、実地上ではしばしば「遺伝か環境か」の二分法で割り切れない場合も決してまれではないことについて一言しておこう。たとえば、ある母親がある子どもについてとりわけ過保護であって、その結果その子どもをスポイルしたという事実が仮りに確認できたとしても、それを純粋に「環境」問題として取り扱うべきかどうかは疑問である。なぜなら、その選ばれた子どもはある種の先天的な脆弱性を有したがゆえに、母性の過保護を(暗に)要求したかもしれない。「分裂病をつくる母親」といわれた女性たちの特性も、あるいは子どもの側の何がしかの特性に対応するために出来上がった二次的なものでないという証明は、私のみるかぎり、今のところ十分にはなされていない。(166p)


 また「個人と社会」の軸においては、家族を一つのシステムとしてみる見方が提示されています(この本の中では「システム」という言葉自体は使われていませんが)。
 躁うつ病の病人の出やすい家族には、伝統墨守性、保守性が強く、また大家族性的なメンタリティが残っているケースが多い、統合失調症の患者の家族には個々のメンバーの家族からの独立・出立を許さない雰囲気があるなど、いくつかの興味深い知見が紹介されています。
 そして「現実と空想」の軸ではファミリィ・ロマンスやダブル・バインドなどの概念が検討されています。


 このように現在にも通じるさまざまな洞察が詰まった本なのですが、やはり今の精神科医の書くものとは違っている部分もあります。
 冒頭で、笠原嘉は「社会的ひきこもり」について「失礼ながらこれは病名に値しないと私は思う」と述べていますが、現象だけを見て診断を下すのではなく、あくまでもその現象の奥にある原因を探ろうとするところは、例えば斎藤環の本とは違ったところです。
 そして、この本の最後は今までの精神医学が想定してきた「成長」という概念が薄まりつつある現場を認めつつも、次のように文章を閉じています。

 氏(『青春の終焉』を書いた三浦俊彦のこと)のいうように、その「青春」と「成長」が消えたとしたら、われわれ精神療法家が成長概念の影が多少薄くなったと感じるのも、そんなに不思議ではないかもしれない。しかし翻ってわれわれの診察室を今一度みると、社会に参画しないまま四十代に及んだ退却症の男性の幼さ・純粋さに比して、長年うつ状態を悩みながらこれを克服した青年女子にはそれなりの成長があるようにみえる。精神医学的治療にはそういった魔力(?)があると信じたい。それとも今日それは精神科医ナルシシズムにすぎないのだろうか。(203p)


再び「青年期」について (笠原嘉臨床論集)
笠原 嘉
4622076241


 この本の内容は中公新書の『青年期』と重なる部分が多く、初めて笠原嘉を読む人にはこちらの新書がお手軽でオススメです。


青年期―精神病理学から (中公新書 (463))
笠原 嘉
4121004639