コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』

 帯には「この衝撃は『ザ・ロード』を超える。」とありますが、それはもちろんそう。
 さらにこの小説はコーマック・マッカーシーのアンチ人間中心主義の行きついた果てといった感じで、マッカーシーの他の小説、例えば『血と暴力の国』、『すべての美しい馬』なんかに比べても「マッカーシー度」が高い。
 確かに無差別な虐殺を続けるインディアン討伐対を描いたこの小説は、残虐度からしても衝撃的なのですが、それ以上に小説にはまず書かせないと考えられる「人間」が極めて希薄で、ほとんど「人間」のいない小説と言ってもいいレベルにあります。


 ストーリー的には、19世紀半ば、「少年」と呼ばれる名無しの主人公がインディアンの討伐隊に加わりインディアンやメキシコ人やその他諸々を虐殺して回る話。
 いくら残虐なシーンが多い小説でも、それをきっかけに主人公の少年が成長する様を描けば、それなりにまっとうな小説になります。事実、『すべての美しい馬』でも残虐な刑務所のシーンがありましたが、あれはあくまで主人公の「試練」ともとれるような描き方でした。
 ところが、この主人公は名無しで、しかも討伐隊に加わったあと、しばらく彼がその討伐対に参加し続けているかどうかもよくわからなくなるほど存在が希薄になります。また、討伐隊のメンバーも「人間的」には描かれていません。
 内面描写をしないというのがコーマック・マッカーシーの特徴ではありますが、それにしても「人間的な深み」を感じさせるような人物は誰一人いません。


 ただ、そんな中で圧倒的な存在感を放つのが「判事」と呼ばれるスキンヘッドの巨漢男。
 彼はいわゆる地上の倫理から抜け出した悪魔のような男です。そして、ニーチェ的な「超人」に近いのかもしれません。以下の部分を読めば、明らかにこの判事がニーチェの思想をもとにつくられているかがわかると思います。

 倫理というのは強者から権利を奪い弱者を助けるために人類がでっち上げたものだ、と判事は言った。歴史の法則はつねに倫理規範を破る。倫理を重んじる世界観は究極的にはどんな試験によっても正しいとも間違っているとも証明できない。決闘に負けて死んだからといってその人間の世界観が間違っていたとみなされるわけではない。むしろ決闘という試行に参加したこと自体が新たな広い物の見方を彼が採用した証拠になる。両当事者がもうそれ以上議論しても無意味だと正しく判断して歴史の絶対性が審判をくだす法廷へじかに訴えを持ちこむ意志を示したということは意見そのものがいかに重要でなく意見の対立のほうがいかに重要であるかを示している。というのは議論はたしかに無意味だが議論によって鮮明になる意志の対立は無意味ではないからだ。(317ー318p)


 そしてまた、次の判事のセリフからもわかるように彼は合理主義者で神をも畏れぬ男です。

 自然だけが人間を奴隷にできるのであってありとあらゆるものが掘り出され人間の眼の前で裸にされて初めて人間はこの地球の宗主になれるんだ。(251ー252p)

  

 この悪魔的な判事は『血と暴力の国』の殺し屋シュガーを思い起こさせます(映画でバビエル・バルデムが演じた人物)。
 ただ、『血と暴力の国』ではシュガーと対決する「人間」の保安官ベルがいますが、この『ブラッド・メリディアン』では、判事に対抗できるような「人間」は一人もいません。


 荒涼とした砂漠で「悪魔」ともいえる判事がただ一人踊る。
 この小説はそんな小説です。


ブラッド・メリディアン
黒原敏行
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