ベン・ラーナー『10:04』

 著者のベン・ラーナーは1979年生まれのアメリカの作家で、詩人としても知られています。小説デビュー作でポール・オースタージョナサン・フランゼンらに絶賛され、この『10:04』は2作目です。
 タイトルは10時4分という時刻を表しており、この10時4分とは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、裁判所の時計台に雷が落ち、主人公マーティーが現代に戻ってくるときの時刻のことです。


 このようなタイトルの由来や、訳者がピンチョンなども訳している木原善彦ということもあって、読む前はポップカルチャーなどを大胆にとり入れた小説家と思ったのですが、読み始めてみると主人公は作者と同じような詩人であり小説家という人物で、かなり私小説色の濃いものでした。
 文章は上手いと思いますし訳者もよいので読ませはするのですが、出だしは正直なところ平板な感じがして、あまり面白い小説だという匂いはしませんでした。


 ところが、女友達に精子を提供することになったあたりから、この小説はどんどん面白くなっていきます。
 今までのやや古臭い感じもあった主人公のウジウジとした悩みは、ニューヨークという最先端の場所でインテリが直面する悩みという時代性を獲得していき、さらにそこにフィクションとしての奇妙なアイディアが付け加えられていくことで、非常に批評的な小説になっていくのです。


 例えば、フードコープ(食料品生協)での話。このフードスコープでは組合員は店で労働することで品質のよい物を安く手に入れられる仕組みになっているのですが、、このいかにも「左翼」的な場所に集まってくるのはいわゆる上流の人びとで、ジャンクフードを食べる人を憐れむような人たちです。
 この様子を著者はこんなふうに批評します。

それは人種的そして階級的な不安を表明するための、新しいタイプの生政治的な語彙だった、「肌の色が茶色い人や黒い人は生物学的に劣っている」と言う代わりに、「彼らが摂取している食品や飲み物が悪い」〜そうなっている原因は本人たちのせいでもないし、その状況には同情する〜と主張する。彼らは人工着色料などのせいで内側が黒ずんでいるというわけだ。カラメル色素やリン酸の入った高カロリーな炭酸飲料はほとんど口にしたことがない自分の子供は、それに比べるとずっと繊細。純粋で、頭がよくて、暴力とは無縁。そうした思考法に従えば、生態系への気遣いとか、私企業反対のアジテーションとか、60年代風の急進的な語彙を使いながら社会的不平等の再生産を正当化することが可能になる。(111p)

 
 他にもつくり上げられるスペースシャトルチャレンジャー号爆発事故の記憶の話とか、作家がアーカイブをでっち上げようとする小説の話とか、事故に遭いその価値を失う代わりに保険金が支払われた芸術作品=全損作品の展示を試みようとする話など、虚実入り交じるエピソードが小説を引っ張っていきます。
 現実の世界から完全に遊離することはないのですが、私小説的な文章の中に現実から少しだけずれたような世界を書き込んでいくのです。
 これはなかなか面白い感覚で、ありそうでなさそうな小説といえるのかもしれません。書かれている対象は違いますが、読みながらW・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』を思い出しました。写真が使われているといった共通点意外にも、現実にある種のフェイクを読み込んでいくスタイルが『アウステルリッツ』と似ているのかもしれません。


10:04 (エクス・リブリス)
ベン・ラーナー 木原 善彦
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