岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』

 近年、さまざまな場所で批判的に語られることが多いPTA。どんな事情があってもやらされるかもしれない恐怖の役員決め、非効率の権化のように言われてるベルマーク集めなど、PTAについてのネガティブな話を聞いたという人は多いと思います。

 また、PTAをなくした学校についての記事なども出てくるようになり、まさにPTAの存在意義が問われているとも言えます。

 

 そんな中、政治学者である著者が他薦によってPTA会長になり、改革のために悪戦苦闘を重ねた記録が本書になります。

 外で働いている人とPTAの常識の乖離といったものは多くの人が指摘していることではありますが、本書は、著者がその「PTAの常識」なるものがいかなる理由で生まれてきたものかを見極めようとしている点が面白いです。

 慣習的につづいてきた制度というものは、いかに非合理に見えるものであっても何らかの来歴があり、存続してきただけの理由があるのです。

 そして、本書は同時にそうした慣習の「改革」を試みた本でもあります。なかなか一筋縄では行かないものが多いのですが、一方であっさりと廃止できた行事もあります。慣習に染まっていたために見えなくなっているものもあるのです。

 

 PTAに興味がある人はもちろん、教育現場、さらに組織一般に興味がある人にとっても面白い本だと思います。

 

 目次は以下の通り。

はじめに 千差万別だけど「自治」としてのPTA
第1章 手荒い歓迎
第2章 「変える」がもたらすもの
第3章 現場という偉大なる磁場
第4章 自分たちで決めるということ
第5章 コロナ禍になって見えたこと
おわりに 僕たち持つ力を思い出す

 

 最初に著者も断っていますが、一口にPTAと言っても地域や学校によって千差万別で、それぞれが抱える問題は異なっています。

 その上で、著者はPTAをまずは「自治」のための組織だと捉えています。PTAはParentとTeacherのAssociationであり、親と先生のつくる任意団体です。

 しかし、現在のPTAで先生の存在感は薄いですし、「任意団体」という性格も隠れてしまっています。親がよくわからないもののために動員されるといったイメージが強いでしょう。

 そうした中で、著者は本書について「これは自治(自分たちで決める)話なんです」(9p)と述べています。

 

 著者は息子が小学校のサッカークラブに入ったことから子どもの活動に関わり始め、その流れでPTA活動のいくつかにも参加することになります。

 そんなことをしていたら、「選考委員」なるものに目をつけられてPTA会長に推されたというのが著者のPTA会長就任の経緯です。

 

 このあたりのディティールも面白いのでぜひ本を読んでほしいのですが、著者は「PTAを改革してくれそうな人」として期待されています。男性の大学教授という「異物」だからこそ、従来のPTAのやり方を変えてくれそうだと白羽の矢を立てられたのです。

 しかし、「異物」に期待する人もいれば、「異物」を警戒する人もいます。著者は内定者の懇談会でいきなり就任の経緯について強烈な抗議を受けています。

 基本的に会長選出の手続きは選考委員に任されており、手続き的には問題ないのですが、「異物」への不安感と「聞いていない」ということが一部の役員から大きな反発を呼ぶことになったのです。

 

 著者が最初に直面したのは、他の女性役員たちの「不安」です。とにかく彼女たちは「不安」に陥っており、結果的に非常に細かい部分や必要性の感じられない部分まで前例が踏襲されています。

 著者などは、そのときの役員が必要だと思う活動を、役員がやりやすいようにやれば良いと考えているわけですが、他の役員たちは「不安」なので、膨大の引き継ぎ書類が受け渡されていくのです。

 

 そんな中で、著者が問題だと思いつつもなかなか動かせなかったのが「ポイント制」です。

 多くのPTAで取り入れられている制度ですが、子どものいる6年間に一定のポイントを獲得しなければならないという仕組みで(別に義務ではなく目安でしかないけど大きなプレッシャーになっている)、著者の学校では12ポイントが目安になっています。

 庶務役員をやると15ポイント、教員の送別会の準備委員をやると2ポイントといったように負担の重さとポイントが連動しており、PTA活動のインセンティブともなっています。

 もともとは希望の多かったPTA活動への参加を抑制するための仕組みだったそうですが、現在では果たさなければならない義務と認識されています。

 

 このポイント制が著者の行おうとする改革を阻みます。

 例えば、「月1回の古紙回収は負担ばかり大きくて収入はほとんどないのだから廃止しよう」と言うと、「それでは月1の古紙回収への参加でポイントを稼ごうと思っている人が困る」となるわけです。

 保護者たちは入学のときからいかにして12ポイントを稼ぐかを計画しており、行事の廃止やスリム化はそうした計画を壊すことにもつながるからです。

 

 そういった中でも、著者は運動会のお茶出しシフトの廃止や(ペットボトルのお茶を配る)、PTAの役員会を月イチの土曜の登校日の午前中のみにする、地域の人々との「お月見会」の廃止などをやっていきます(「お月見会」という地域の人々(長老)との懇談会を防災懇話会に発展的に解消した)。

 こうしたこともあって2年目の役員は立候補と他薦であっさりと決まり、男性の役員も増えました。

 

 著者はPTA活動をボランティアに喩え、「「平等なボランティア」などという物言いは、あたかも「秩序ある想像力」みたいな矛盾するものであって、日本語として成立するかどうかも怪しい」(151p)と言います。

 ポイント制に代表されるような日本のPTAにおける「平等志向」は本来のボランティアの考えと相容れないものです。やりたい人がやるのだから不平等であって当然だというのが著者の考えになります。

 

 ただ、「PTAのスリム化」というのもそう簡単にはいかないことも著者には見えてきます。

 例えば、無駄の象徴のように言われるベルマーク集めですが、ベルマークを切り貼りしながら何時間もママたちでしゃべるのを楽しみにしている人もいるわけであり、費用対効果が悪いからといって単純に廃止すべきかというとそうでもありません(廃止に傾いていた著者は残すことにした)。

 

 古紙回収に関してもやめようと考えますが、手一杯でPTAの活動に参加できずに、せめてこれくらいはと思って参加している人もいると聞いて著者は逡巡します。

 ここで再びポイント制の話に戻ってくるのですが、著者はポイント制がさまざまな問題の根源にあると認識しながらも、同時にポイント制があるからこそPTA活動に関わってみた、ポイントは自分が頑張った証だといった話を聞いて揺れ動きます。

 PTAや地域の活動に「居場所」を見出している人がおり、そこは「合理性」では突破できない局面なのです。

 

 そして、著者の会長任期最後の年にコロナがやってきます。コロナによって臨時休校となり、当然ながらPTAの活動も止まりました。

 それによって数々の会合もなくなりましたが、それは同時にそれらの会合が特に意味がなかったということを教えてくれるものでもあったといいます。

 

 さらに著者はこのコロナ禍によって「学校は地域社会の弱者の立場にある」(235p)という認識を決定的にしたといいます。児童数800人の学校に電話回線は2本しかなく

だから連絡帳で欠席を伝えるしかない)、教員は個人のメールアドレスをもたず、Youtubeも見れないし、Zoomも使えない、教育委員会がつくった動画さえ教員が学校で見ることができなかったといいます。

 

 ここまでざっと本書の内容を紹介してきましたけど、本書の面白さは著者と関係者のさまざまなやり取りのディティールにもあります。著者は何度も関係者と衝突したり、止められたりするわけですが、その経験が反省的に捉え返されており、とても「政治的」と言えるかもしれません。

 

 最初にも述べたように、PTAに関心がある人はもちろんですが、学校、あるいは組織について興味のある人であれば、きっと面白く感じるのではないかと思います。