ルーク・S・ロバーツ『泰平を演じる』

 副題は「徳川期日本の政治空間と「公然の秘密」」。

 何とも面白そうなタイトルと副題ですが、翻訳に関しても監訳を務める三谷博が本書の面白さに注目してネット上で訳者を募り、それに応じた友田健太郎が訳したというもので、今までにはない切り口で江戸時代の政治空間を分析しています。

 

 「ホンネとタテマエ」というのは日本社会の特徴というもので、江戸時代の政治に「ホンネとタテマエ」の乖離があったと言っても、「そんなものだろ」と思ってしまうでしょう。

 しかし、本書で紹介されている「ホンネとタテマエ」の乖離は異常なもので、例えば、死んだはずの大名が生きていることにされたりしています(「ゾンビ大名」)。

 

 本書はこのような徳川期の政治空間を「表」と「内」または「内証」という概念を使って描き出します。表向きは徳川の厳し掟に従っていても、内側では従ってない。しかも、徳川も表の秩序が維持されるならそれを認めるというロジックが至るところで見られるのです。

 (追記:Twitter上で河野有理氏の指摘を受けましたが、ここまでの書き方ですと、著者は「ホンネとタテマエ」の乖離を日本ならではの特質のように捉えていると読み取れてしまいますが、著者はこの「表」と「内」のズレを前近代社会に特徴的なものとして見ています。)

 

 さらに本書では、明治期になってから近代国家を前提にして遡及的に使われるようになった「幕府」や「藩」という言葉を使わず、できるだけ当時に認識に沿うような形で江戸時代の政治空間の再構成を試みています。

 非常に刺激的で面白い本です。

 

 目次は以下の通り。

序論

第1章 政治の地理学
第2章 巡見使と情報収集における演技
第3章 ゾンビの政治

第4章 境界争い

第5章 神となった大名

第6章 複数の歴史

結論

 

 徳川は帝の権威に形式的に従属する一方で、「徳川の政府は武士を支配する家の政府と、領内の住民を支配し課税する大名国家の政府という二重構造を持ってい」(26p)ました。

 戦国時代はそれぞれの大名が戦争をしたり外交を行っていたりしましたが、徳川時代になるとそれはなくなり、徳川の統治は「公」、大名の領地経営は「私」とされていきます。

 大名は相変わらず領内に対する強い権限を持っていましたが、徳川からみれば、あくまでもそれは私的なことでした。

 ただし、全国的にみれば「公儀」とは徳川のことであっても、土佐では山内家が「公儀」と言われたりするように、領内では大名の統治は「公」とされていました。

 そして、大名の領内や家の問題は基本的にその内部で処理され、それができないとなると大きな問題となりました。

 

 このような構造は村でも見られます。村では自治が行われており、小さな違法行為は村の内部で処理されるのが通例で、大名権力が違法行為の取締などに乗り出してくることは稀でした。

 こうした構造は村だけでなく職業集団の中でも行われていました。

 女性は基本的に「内」に属するものとされ、「表」に出てくることは稀でした。「奥様」「内緒様」といった呼び方もそれを表しています。

 

 第2章では徳川による大名への監視がとり上げられています。

 大名のランクなどを表すときに重要になるのが石高ですが、これも「表高」と「内高」があり、その数字は乖離していることが度々ありました。例えば、毛利家は江戸時代の初期に29万石あまりと42万石あまりという2つの数字を出し、どちらを徳川に提出するか検討しています(59p)。

 後の時代になっても大名たちは国役などを増やされるのを嫌って、大大名ほど低い石高を申告しています。土佐でも20%以上低い石高を徳川に申告していました(81p)

 

 こうした中、3代将軍家光の時代から、大名領に対する諸国巡見使が派遣されるようになります。この巡見使は次第に形式化・儀式化したと言われていますが、本書では最初からそのようなものであったと指摘しています。

 1667年、土佐に巡見使が派遣されますが、領主の山内忠義は、近隣諸国でどんなもてなしをしたのかを部下に調べさせ、重臣たちに接待させました。

 家光もこの巡見使によって大名の領内の実情を探ることをさほど重視していなかったようで、巡見から間もない時期に島原の乱が起こっても、この地を巡見したものが咎められることはありませんでした。

 

 この徳川による大名領の巡見と同じような関係が、大名領主と領民の間にもありました。ほとんどの領主は襲封すると、自らまたは家臣に領内を巡見させましたが、これも一種の儀式であり、村は巡見使を接待しました。

 ここでも重視されたのは実態を知ることではなく、権威を受け入れることが重要だったのです。

 

 「ゾンビの政治」と名付けられた第3章では、冒頭でも紹介した死んだはずの大名の話がとり上げられています。

 跡継ぎがいないことは大名を取り潰す理由となり、また徳川が末期養子(死の間際にとる養子)を認めていなかったので、江戸時代の初期には多くの大名がこの規定によって取り潰されました。

 そこで4代将軍家綱のときに末期養子の禁の規定が緩和され、50歳未満の将軍の直臣が末期養子をとることが認められています。

 ただし、大名は跡継ぎを指名する前に公方のお目見えを経ていなければならず、そのために大名は17歳に達している必要がありました。さらに徳川の大目付が大名の死の床を訪れ、大名が生きているうちに養子を指名する文書に印を押させ、意思を確認する必要もありました。

 

 このルールによれば、大名が17歳未満で亡くなってしまったり、突然死した場合には「御家断絶」となるはずですが、跡継ぎ不在のための改易は激減しています。

 まず、後者の突然死のケースですが、これは大目付が大名があたかも生きているかのような演技を受け入れることでクリアーされました。

 明治期にインタビューを受けた大目付の山口直毅は、死んでいても生きているかのように皆が振る舞い、親類の者などが判を押していたと述べています(89p)。

 こうしたことは徳川の権威の衰えの証拠と考えられることもありますが、1651年以降、17〜50歳で亡くなった大名のうち、跡継ぎ不在で改易されたのが3件に過ぎないと考えると、このような運用はずっと行われていたと考えられます。

 

 17歳未満の問題に対しては、保険として年齢にサバを読ませることが行われました。例えば、土佐領主の山内豊興は実際よりも3歳年上とされ、1809年に死んだ時、徳川の記録では20歳でしたが、実際は17歳でした。

 子どもが病弱だったので届けるのが遅れたという理由で、徳川に対して実際よりも上の年齢を報告したのです。

 

 さらに大胆なケースでは相続を報告しませんでした。岡山領の支領である生坂領の領主・池田政房は1777年に3歳で死にましたが、本家ではまだ誕生届を出していなかった6歳の鉄三郎を身代わりとし、そのまま政房としました。後年彼は名を政恭と改めていますが、大名の改名は珍しいことではなかったので特に注意を引きませんでした。

 徳川吉宗は本多忠村が17歳になる前に天然痘で死んだと聞かされると、2度にわたって「疱瘡と云ものは面体のかはる者なり」と語ったと言いますが、これは暗に入れ替わりを示唆したものだと考えられます(なお、本多の家臣はこの示唆が理解できずに公式に領主の死を報告し、半分の減封となった(100p))。

 

 吉宗がこのように述べたことからも、徳川は大名家の相続のごまかしをある程度認識していたと考えられます。それでも「表」で徳川のルールに従っていれば、「内」ではごまかしがあってもよかったのです。

 例えば、田原領の三宅家では、江戸時代の全領主のうち公式の命日に死んでいるのは初代だけで、他は実際の命日と「表」の命日が違っています(106p表2)。

 これは直系の問題のない相続でも、相続にお金がかかるために、そのタイミングを人為的に調整する必要があったためと考えられます。

 

 第4章は国境と村境をめぐる争いがとり上げられています。

 まず、とり上げられているのが1644〜1659年にかけて土佐の山内氏と宇和島の伊達氏の間の争いで、一件目は土佐と宇和島の沖に浮かぶ2つの小島、二件目は2つの領内をまたいで建っていた篠山の神宮寺をめぐるものです。

 

 この争いは徳川の評定所に持ち込まれますが、評定所はできるだけ裁定を行うのではなく、非公式の「内証」による和解に持ち込もうとします。

 そこで両家は金や地位を使って江戸城の有力者や親戚からの支持を集めようとします。当時、伊達家は老中首座の松平信綱と、山内家は老中の酒井忠清とつながりがあり、その関係を使って情報を収集し、訴訟戦術を考えます。

 裁判というと、公開の法廷でお互いが主張を戦わせるイメージがありますが、江戸時代の大名同士の争いはほぼ非公式な場で行われました。これによって大名同士が直接争うことは避けられましたが、「参加者から見た道理にかなう実務と腐敗との境界は常に揺れていた」(141p)のです。

 

 村の境界争いでは、17世紀に田原領でおきた争いがとり上げられています。

 1668年、田原領内の赤羽根村と野田村の間で争いが起こりますが、役人たちは野田村からの訴えをとり上げようとはしませんでした。そこで野田村の名主らは江戸にいる領主に請願を行おうとします。

 江戸屋敷の役人はこれを拒否し、田原に戻って訴えるように命じますが、ここで野田村の人々は違法でありながら非公式には認められていた徳川の役人に直接訴えるという手に出ます。

 これは秩序を乱す行為でしたが、騒乱を抑制し封じ込める手段として非公式には認められていたのです。

 

 野田村の人々が寺社奉行の屋敷に駆込訴を行うと、田原領の役人たちは訴願者の妻や子どもを投獄するという報復行為に出ます。これに対して村民らは次々と寺社奉行らに駕籠訴を行い、領主の体面を失わせました。

 さらに90人以上の村人が巡礼を装って江戸に駆けつけ、老中に駕籠訴を行うと、平穏を保つために老中らはこの訴えをとり上げます。

 さらに度重なる領主の弾圧にもかかわらず野田村が駕籠訴を続けたために、ついに老中らは野田村勝訴の判決を言い渡します。村の指導者の一人は処刑されましたが、野田村は領主をある意味で屈服させたのです。

 

 こうした訴訟システムについて、本書では「臣民に「表」の封建的な原則に従って行動するように促す一方、秩序ある形で非合法な訴訟を許すことで、権力の乱用をある程度抑制した」(149p)と評価されています。

 

 第5章は「神になった大名」。

 徳川は「表」では仏教の優位を認めるように求めましたが、その方針はすべての領域に一貫したものというわけではありませんでした。著者はキリスト教の禁止について、「キリスト教は要するに、徳川の理想とする「表」と「内証」の政治に従わなかったのである」(153−154p)と述べています。

 そうした中で、家康は「神」になったわけですが、この「元祖」を神格化する動きは「表」では禁止されているにもかかわらず、各地の大名家で起こることになります。

 

 例えば、保科正之は遺言に「土津(はにつ)神として祀られることを望む」と書いていましたが、その神格化は徳川を刺激しないように慎重に行われました。これを徳川も黙認しましたが、18世紀前半に大明神の標札を吉田家につくらせて掲げようとして、徳川と非公式に交渉をしたところ、これは退けられました。

 ここまでくると「表」の秩序を乱すものと見なされたのです。

 

 19世紀になると、各大名家でその元祖を神として祀る動きが出てきます。家臣だけでなく領民を巻き込んで、領内を包摂するような仕組みをつくろうとしたのです。

 ここでも各大名家は徳川に非公式に問い合わせながら、一線を超えないように神格化を進めていきました。この中で、各大名家は禁裏とも関係を持つようになっていきます。

 この「表」では徳川の決めた宗教秩序に従いつつ、「内証」では大胆に自らの始祖の神格化を進めていく姿について、著者は明治の内村鑑三不敬事件と重ね合わせています。内村が処罰されたのも「表」の儀式に従わないからでした。

 

 最後の第6章は「複数の歴史」と題されていますが、ここでは、江戸時代の歴史が後世につくられた言葉によって語られている問題がとり上げられています。

 渡辺浩が言うように、「幕府」「天皇」「朝廷」「藩」というのは江戸時代には実際にはあまり使われていなかった言葉で、「幕府」「天皇」「朝廷」は水戸学者が普及させた言葉です。

 

 江戸時代の歴史書において、当然ながら「表」の秩序が優先されます。例えば、徳川の「表」の家史である『徳川実紀』では、多くの大名は「松平」という徳川があたえた名字で記述されています。

 これが山内家の『年代略記』になると、山内家は徳川家と同格のような仕方で記述され、家臣は領主が与えた山内の名字で記述されています。

 それぞれのレベルに「表」の歴史があり、それが重なっている感じなのです。

 

 このように本書は江戸時代の社会というか世界のありかたについて新しい光をあてた本と言えます。

 江戸時代において表と実際が違っているということは多くの人が知っているし、歴史を学べば感じることだとは思いますが、本書はこれを多角的に掘り下げることによって、これを1つの秩序として取り出しています。

 歴史学の本ですが、同時に文化人類学的な面白さも持った本だと思います。