パク・ソルメ『未来散歩練習』

 パク・ソルメについては、同じ白水社の〈エクス・リブリス〉シリーズから『もう死んでいる十二人の女たちと』という日本オリジナル短編集が、本書と同じ斎藤真理子の訳で出ています。

 『もう死んでいる十二人の女たちと』の冒頭の「そのとき俺が何て言ったか」や表題作の「もう死んでいる十二人の女たちと」の印象が強い人は、この作品を読んで「パク・ソルメってこんなだったっけ?」と思うかもしれません。

 本書は長編小説という体裁ですが、かなりエッセイっぽい部分も多く、そうしたエッセイっぽい部分では、『もう死んでいる十二人の女たちと』にあったヒリヒリとするような文体は影を潜め、ゆっくりとした時間が流れているからです。

 

 ただし、途中で何度も1982年に起きた釜山アメリカ文化院放火事件がとり上げられ、想起されているのを見ると、「やはりパク・ソルメだ」とも思います。

 『もう死んでいる十二人の女たちと』で、韓国の古里原発の事故が何度もとり上げられていましたが、こうした過去の事件が何度も蘇ってくるのは、パク・ソルメの作品の1つの特徴だからです。

 

 釜山アメリカ文化院放火事件とは、1982年に神学生らが政権打倒と反米闘争を訴えて、一般市民とアメリカをつなぐ役割を持っていた文化学院に放火したという事件です。

 この背景には1980年の光州事件において、アメリカが韓国軍の出動を認めたことに対する怒りがあったとも言われています。

 光州事件以降、萎縮していた民主化運動はこの釜山アメリカ文化院放火事件をきっかけに勢いづき、85年にはソウルでもアメリカ文化院占拠事件が起きています。

 

 パク・ソルメは光州出身で、『もう死んでいる十二人の女たちと』の入っている「じゃあ、何を歌うんだ」では光州事件がとり上げられていました。

 ただし、そこでの光州事件は主人公が光州出身だとわかると必ず話題にされるものでありながら、主人公にとっては埋めがたい距離感にあるものとして描かれていました(パク・ソルメは1985年生まれ)。

 

 しかし、この『未来散歩練習』における釜山アメリカ文化院放火事件の扱いは違います。むしろ、興味を持ってその痕跡を辿ろうとするのです。

 

 本書では、作者と思われる人物を主人公とした話と、スミという女性とユンミ姉さんの交流を描いた話が交互に語られていきます。

 基本的には無関係な2つの話ですが、この2つの話に共通して出てくるのが釜山アメリカ文化院放火事件なのです。

 

 「じゃあ、何を歌うんだ」における光州事件は、「逃れたくても逃れられないもの」という感じでしたが、本書における釜山アメリカ文化院放火事件は、むしろ積極的に掘り起こされるものです。

 ただし、掘り起こすといっても事件の詳細について詳しく調べるといった形にはなりません。本書のタイトルは「未来散歩練習」というちょっと変わったものですが、まさに未来からこの事件に光を当てる、あるいは、未来になって出てくるであろう事件の解釈の可能性を考えるものとなっています。

 

 「練習」と銘打っているように、本書において釜山アメリカ文化院放火事件の決定的に新しい解釈が打ち出されているとかそういうものではないのですが、過去の事件を考える際の試行錯誤が示されているのです。 

 読んでいるときは、手軽に読める小説なのですが、読み終わるとずっしりと感じる小説ですね。

 

 

 

 

 

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