五十嵐元道『戦争とデータ』

 副題は「死者はいかにして数値になったか」。

 本書の序章の冒頭では、著者がボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争における死者を調べていて、20万人という数字と10万人という数字が出てきたというエピソードが紹介されています。

 死者数というのは戦争の悲惨さを伝えるためのわかりやすいデータではありますが、それが倍近くも食い違っているのです。

 特に文民の死者数となると、なかなか正確な数字は出ません。

 

 しかし、実際に何人の兵士が死んだのか? 戦争によってどれだけの文民が犠牲になったのかというのは非常に重要なデータです。

 本書はこうした戦争での死者がいかに数えられるようになったのか? 誰が数えているのか? どのようにカウントされているのか? といったことを過去に遡って明らかにしながら、戦争とデータの問題を考えています。 

 今まであまり光の当たっていなかった問題をとり上げた興味深い本です。

 

 目次は以下の通り。

序章 専門家の発言はすべて正しいのか
第1章 兵士はどこへ行った―戦死者保護の軌跡
第2章 殺してはならない人間―文民保護の道程
第3章 戦争の証言者の登場―NGOと国連
第4章 死者を数える―戦争のなかの統計
第5章 遺体を掘り起こす―一九九〇年代の戦争と法医学
第6章 化学兵器を追う―いかに実戦投入を確認するか
終章 戦争の実像を知りえないとしても

 

 まずは兵士についてです。

 19世紀半ばまで、下級兵士が戦場で死んだ場合、その場で集団で埋葬されていました。身元の特定も行われませんでしたし、戦死者の遺族に対しての説明などもほとんど行われませんでした。

 

 1859年に第2次イタリア独立戦争(イタリア統一戦争)が起こりました、この戦争で戦傷者の救助に当たったのが赤十字の創設者でもあるアンリ・デュナンです。

 この体験が1864年ジュネーブ条約の締結へとつながっていきます。赤十字国際委員会(ICRC)もつくられ、敵味方を問わず負傷者を救護する活動を始めます。

 

 こうした中で、1866年に普墺戦争が置きますが、ここで戦場で戦死者の持ち物が奪われ、身元が分からなくなる問題も持ち上がります。

 そこで勝者側に遺体の保護などを求めるとともに、身元を確認するための認識票の導入などが進んでいくことになります。

 

 1906年ジュネーブ条約では、戦場での傷者や死者の保護、埋葬前の遺体の検査、認識票や傷者および病者の名簿の相手方の送付などが盛り込まれました。

 これらの条項の成立を後押ししたのがギュスタブ・モアニエらの国際法学者の存在で、かれらが国際世論を喚起しながら、議論をリードしていきました。

 

 第一次世界大戦はかつてないほどの戦死者を生み出しました。敵兵の遺体の保護どころか自国の兵士の遺体の確認もできないほどでしたが、それでも政府は遺体の身元を特定し、埋葬地がわかるように努力をしました。

 ただし、イギリスにおいてはインドやアフリカ出身の兵と白人兵の埋葬方法は区別され、ミシェル・バレットによれば、アフリカ人については「彼らは個人の墓の価値を正しく認識するであろう「文明の段階」に達していないと論じられ、そして、その遺体は「自然に還る」ようにされ、墓標なしとなった」(67p)そうです。

 

 第2章では戦場における文民保護に焦点を当てています。

 文民といえば民間人、一般市民のことですが、実はこの範囲ははっきりしていません。19世紀になってナショナリズムが高まってくると、文民は徴兵されて兵士になるかもしれませんし、占領軍に抵抗する非正規兵になるかもしれないと考えられるようになります。さらに、総力戦の時代となると、武器などを製造する工場なども破壊されるべき目標と考えられるようになりました。

 

 それでも第2次世界大戦におけるドイツの占領を経験した各国で、占領に伴う文民の保護が重要であるとの認識が高まり、1949年に「戦時における文民の保護に関するジュネーブ条約」がつくられることになりました。

 ただし、「文民」の定義を積極的に明示することはできませんでしたし、実際の文民保護を監視するアクターは不在でした。

 

 だれが文民保護を監視するのか? そこで登場したのが国際NGOと国連の人権関連組織です。このことが書かれているのが第3章です。

 ただし、国際NGOの先駆けであり、戦場での医療活動に従事していた赤十字国際委員会(ICRC)は、自らの活動の確保するために主権国家の人権侵害行為を批判したり、その実態を証言しようとはしませんでした。

 ICRCはナチスユダヤ人虐殺についてもその実態を告発しようとはしませんでしたし、20世紀初頭のドイツの南西アフリカで起こした虐殺や、イタリアによるエチオピアでの毒ガス仕様についてもそうです。

 

 こうした中、NGOが積極的に国家の人権侵害を告発するきっかけになったのが、1967〜70年にナイジェリアで起きたビアフラ戦争です。

 ビアフラ戦争のさなかには大規模な飢餓も発生し、武器の密輸を疑われたICRCがナイジェリアの連邦政府から攻撃される事態も起きました。

 

 これに対して、ベルナール・クシュネルをはじめ、のちに国境なき医師団を設立することになるフランスの医療団は、ビアフラにおける深刻な飢餓やナイジェリア連邦政府の問題を国際世論に向けて公表することを求めるようになります。

 同じような問題は60年代の北イエメン内戦でも存在しており、ICRCの「中立的」なスタンスに批判が集まるようになります。

 ただし、医師が人権侵害を告発することによって、医療活動が続けられなくなる問題もあり、医療活動を行うNGOにとっては特有の難しさもありました。

 

 1970年代になると、こうした状況に変化が現れます。

 1977年のジュネーブ諸条約の追加議定書では、捕虜や文民の保護についての規範がより精緻化され、それらが植民地からの解放闘争や内戦にも適用されるとしました。

 また、チリ、ブラジル、アルゼンチンなどの権威主義体制の国の中から、人権活動家たNGOが人権侵害の状況を記録し、告発し始める動きが起きます。

 こうした活動がアムネスティ・インターナショナルなどの国際NGOと結びつき、国際的なネットワークを形成していきます。

 1977年にはアムネスティ・インターナショナルがチリのピノチェト政権による弾圧を告発してノーベル平和賞を受賞しました。

 

 80年代には、エルサルバドル紛争での政府や準軍事組織による市民の拉致や殺害などを告発するNGOも現れます。

 エルサルバドル紛争ではエルサルバドル政府をアメリカのレーガン政権が支援していたこともあって、アメリカズ・ウォッチという組織を中心にアメリカで人権侵害を告発する動きが盛り上がっていきます。

 人権NGOが、現地政府に代わって人権侵害や被害者数をチェック、発表する体制がでいあがっていきます。

 

 国連でも第3次中東戦争におけるイスラエルの占領地での人権侵害や、ソ連アフガニスタン侵攻時の人権侵害が調査され、1993年には国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が設立されました。さらに2006年には国連人権理事会が設立されています。

 

 第4章では、再び戦死者の数の問題がとり上げられています。

 まず、最初に書かれているのがベトナム戦争の経験です。ベトナム戦争では通常の戦争のように領土を奪い合うような戦争ではなく戦況を把握するのが困難でした。

 そこで登場したのが敵や見方の遺体の数を数える「ボディカウント」という指標です。敵をたくさん殺せば、北ベトナムに大きなダメージを与えることになり、交渉も有利に運ぶというわけです。

 

 当時の国防長官のマクナマラは数値合理主義の信奉者でもあり、このボディカウントは戦況把握だけではなく、軍隊内での競争を促すしくみとしても使われました。

 しかし、この結果起こったのが数値の水増しです。戦場での正確な遺体の数の確認は難しく、ましてや空爆となればおおよその数字しかあげることはできませでんした。各部隊がそれぞれ数を上にあげていったために二重のカウントなどもあったといいます。

 さらに文民を殺害し、それをゲリラ兵(ベトコン)に仕立て上げたこともありました。

 このようにベトナム戦争では、不適切な指標のもとで文民の死が積み上げられていくことになりました。ベトナム戦争での文民の死者数はギュンター・レヴィの推計で40万〜60万人、北ベトナム政府は200万人だと主張しています。

 

 これがグアテマラ内戦になると科学的に死者を明らかにしようとする動きが起こってきます。

 グアテマラ内戦自体は1960年頃に始まり、1996年まで続きましたが、特に78〜83年の時期に虐殺などが多かったといいます。

 1960〜96年にかけて、グアテマラ内戦の真相究明委員会(CEH)によると、犠牲者はおよそ20万人、女性や子どもも多く含まれ、記録された犠牲者の83%がマヤ民族の人々で人種主義に基づく偏りもありました。

 

 虐殺を行った軍はアメリカに支援されており、報道の自由もなかったために虐殺された人数はなかなか明らかになりませんでしたが、これに対してさまざまな人権団体が情報を収集し、それを共有していくことになりました。

 この情報は人権調査国際センター(CIIDH)の送られ、データベースが構築され、統計学的な分析が行われていくことになります。

 

 それでも証言や報告のない虐殺をどう扱うかということが問題になりました。

 そこで導入されたのが多重システム推算法(MSE)と呼ばれる手法で、これは各NGOの犠牲者のリストの重複などをもとにして全体の犠牲者を推計するもので、これに基づいて前述の20万人という数字が推計されました。

 

 こうした死者の推計はユーゴスラビア内戦におけるスレブレニツァの虐殺ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争でも行われています。

 国際刑事裁判所ICTY)は、2010年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の犠牲者はおよそ10万人で、そのうち40.2%が文民、その中の大半がムスリム系住民だという見解を締めましました。

 しかし、この数字はそれまで一般に流布していた20万人という数字に比べると半分にとどまっており、反発も出ました。ボスニア政府は犠牲者は20万人だと主張し、セルビア系の政治家らはセルビア系住民の犠牲者の割合が少なすぎると反発したのです。

 

 また、シリア紛争においても犠牲者の推定は難しいものになりました。シリアではアラブの春以降、反政府でもが起こりそれを政府が弾圧する形になったのですが、いつから「内戦」になったかというと、難しい問題になります。

 シリア内戦では、シリア政府、反政府勢力、現地のNGOが出してくる数字がいずれも中立的とは考えられないという問題もありました。

 シリアでもさまざまなデータから死者数を推計する試みがなされており、OHCHRは2011年3月〜2021年3月に30万6887人の文民が死亡したとしています。

 

 第5章は「遺体を掘り起こす」というタイトルで、戦死者をミクロ的に捉える法医学的なアプローチについてとり上げられています。

 虐殺などを裁こうとした場合、重要になるのは死者の属性や死因であり、法医学の出番となります。まずは遺体が埋まっている地点を特定し、遺体を掘り起こし、そして遺体を分析していくのです。

 

 ユーゴ内戦におけるスレブレニツァ虐殺事件では、事件が起こってからかなり早い時期に遺体の埋却地が発見されました。一方で、セルビア系の軍事組織が虐殺の発覚を恐れて遺体を掘り起こして別の場所に埋め直したりもしたそうで、その途中で損傷を受けた遺体も多かったといいます。

 見つかった遺体に関しては身体的特徴から身元や死因が分析されましたが、2001年以降、身元の特定の大きな武器となったのがDNA鑑定です。

 ただし、遺族からDNAを求める際には、家族の死を受け入れたくない遺族からの抵抗もあったそうです。

 

 スレブレニツァ事件の裁判では、法医学によって分析された証拠が大きな役割を果たしました。

 少なくとも448体の遺体に目隠しがされていたこと、両手などを縛っていたと思われる423本のヒモが見つかったこと、戦闘でつくあろう傷がなく銃撃で死亡していたことなどから、多くの犠牲者は処刑によって志望されたと認定されたのです。

 こうした法医学的な調査はウクライナ戦争におけるブチャの虐殺などでも行われています。

 

 第6章は化学兵器が使われたかどうかをいかに検証するかというテーマです。

 ここは死者の数の話からはずれるので紹介は割愛しますが、シリア内戦における化学兵器の仕様に関して、ベリングキャットという一般の人々がオープン。ソースの情報を分析して共有する機関が大きな役割を果たした部分などは興味深いです。

 

 このように本書は「戦争のおける死者数」という重要で、なおかつよく比較に使われたり数字がどのようにできあがっているのか、そして、この数字を出すためのどんな歴史があったかを教えてくれます。

 普段、スルーしてしまいがちな部分に改めて光を当てた面白い本だと思います。

 

 また、政治や経済の歴史の中で比較的忘れられがちなラテンアメリカがこの問題で重要な役割を果たしてきたというのも興味深かったです。

 ラテンアメリカ独裁政権や軍事政権のひどさはラテンアメリカの作家の小説などを通じて知っていましたが、考えてみれば、そうした体制の中でもそれを告発する作家が出てきたということでもあります。

 同様に、ラテンアメリカの人権NGO独裁政権や軍事政権の抑圧の中、本書に書かれているように、その闇を記録・告発し続けてきました。

 こうしたラテンアメリカの「抵抗力」のようなものも改めて感じましたね。