『幕末社会』(岩波新書)の須田努と、『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ)や『戦国大名と分国法』(岩波新書)などの清水克行の2人が、縄文から現代に至るまでの「日本史」を語った本になります。
もともとは明治大学の文学部史学科以外の学生を対象にした「教養日本史」的な授業のテキストブックという形でつくられたものになります。
ですから、「歴史とはなんぞや?」「中世とはいかなる時代か?」といった大きな問いから入るのではなく、まずは歴史上の面白い事象を紹介し、そこから時代の特徴を探るような構成になっています。
歴史というと古い時代から順番に学んで、その変化を見ていくといった形になりやすいですが、本書では「流れ」よりも、当時の人々が生きた社会を直接つかみにいくようなスタイルです。
目次は以下の通り。
第0講〜第6講までを清水克行が、第7講〜第13講を須田努が担当しており、第14講が2人の手によるものになります。
第 0 講 縄文時代は「日本史」なのか―人類史のなかの環状列石
第 1 講 律令国家の理想と現実―巨大計画道路の謎
第 2 講 平安朝の女性たち―うわなり打ちの誕生と婚姻制度
第 3 講 武士の登場―武力の実態とその制御
第 4 講 室町文化―「闘茶」体験記
第 6 講 江戸時代の村―鉄火裁判と神々の黄昏
第 7 講 士農工商?
第 8 講 鎖国の内実―江戸時代の人びとの自他認識第 9 講 暴力化する社会―経済格差と私慾の広がり
第 10 講 ペリー来航のショック―日本とは何かという問いかけ
第 11 講 文明開化のなかの大衆芸能―松方デフレと三遊亭円朝
第 12 講 植民地朝鮮・台湾から見た日本―アジアのなかで生きる現代
第 13 講 「基地の島」の現実を知り、平和の内実を考える第 14 講 現在を生きる日本史
内容をすべて見ていくのは大変なので、ここでは面白かった部分を中心に紹介していきたいと思います。
第1講の「律令国家の理想と現実」では、律令国家がつくった巨大な道路がとり上げられています。
広い領域を支配する場合、道路というものは非常に重要で、ローマ帝国も道路を作りましたし、江戸幕府も五街道などを整備しました。
ですから、日本に中央集権的な国家を打ち立てようとした律令国家が道路建設を行うのは当然なのですが、この道路はとにかく巨大なのです。
静岡県静岡市の曲金北遺跡と呼ばれる旧東海道の道路遺構では、幅12メートルの道路が直線で東西350メートルにわたって伸びています。幅12メートルは4車線道路くらいの幅ですし、道路自体はさらに直線で数キロにわたって伸びていたと考えられています
道路の両側には側溝のようなものもつくられており、かなり手の込んだものでもありました。こうした道路はここ以外でも全国各地で見つかっています。
江戸時代の五街道は幅2間〜4間(約3.6〜7.2メートル)ほどであり、しかも地形にそって曲がっていました。
中世以降の道は地形に沿って作られるようになるので、古代の道はだいたいが使われなくなって、埋もれてしまっています。
ところが、古代の道路の立地を現代の高速道路の立地は重なることがあるそうです。佐賀付近をみると高速道路のインターチェンジと古代の駅家の位置や間隔も重なっています(37p図1−4参照)。
これは、目的地と目的地をできるだけまっすぐに最短距離で結びつけようとすると、そのルートが重なるからだと思われます。
当然ながら、当時これだけの道路を必要とする需要があったとは思えず、示威的な色彩の強いものだったと思われます。
現在の兵庫県の山陽道にあった駅家は、瓦葺きで柱には赤い丹塗り、壁は白壁という豪華なつくりでしたが、これはこの道を外国からの使節が通ったためです。
白村江の戦いで破れてから本格的な律令国家の建設に着手した日本ですが、当時の動員可能な兵力は旧日本陸軍の8個師団に相当するとの試算があります。当時は明治期の1/10程度の人口だったと考えられていますが、明治期を上回るような兵力の確保を目指していたのです。
この講の小見出しに「早熟な専制国家」とありますが、7〜8世紀の日本は身の丈に合わない無理をした国家であり、それを道路がよく表しているのです。
第2講は「平安朝の女性たち」というタイトルですが、とり上げられているのは、前妻が後妻を襲撃する「うわなり打ち」です(前妻が仲間を引き連れて後妻のを襲撃し、台所などを破壊したという)。
このうわなり打ちは、江戸時代の初期まで行われていたそうですが、始まったのは平安時代で、「うわなり打ち」という言葉の初出は、藤原道長『御堂関白記』の「宇波成打」だとされています。
藤原教通の乳母だった蔵命婦(くらのみょうぶ)が、夫の愛人の家や夫の襲撃したということが、藤原行成の『権記』と『御堂関白記』に出てきます(うわなり打ちは2回行われた)。
『源氏物語』などで描かれている恋愛模様とうわなり打ちは何だか合わないイメージがありますが、本書によると、ちょうどこの時期に正妻とそれ以外の女性の格差が生まれる時期だったといいます。
実際、『源氏物語』でも、源氏と関係を持った多くの女性は正妻になれず、正妻と言える立場だった紫の上も、女三宮に正妻の地位を追われるという展開になっています。
こうした中で、正妻の座を追われた女性の無念がうわなり打ちというものを生み出したというのです。
このあと、第3講では中世の武士の残虐性をこれでもかと書かれており、第4講では実際に闘茶を体験してその宗教性などが指摘されています。第5講は八王子城周辺を舞台に、戦国大名と領民の関係が描かれています。
第6講では鉄火裁判がとり上げられています。以前、NHKの「タイムスクープハンター」でも題材にされていたので見たい人もいるかも知れませんが、熱した鉄をもって所定の位置まで運べたかどうかで、双方の主張の勝ち負けを決めるものです。
室町時代までは熱湯に手を入れる「湯起請」と呼ばれるものが行われていましたが、戦国時代から江戸時代初期にかけては、それがエスカレーターして鉄火裁判が行われるようになっていました。
本書でとり上げられている2つの事件はともに1619年に起こっており、村同士の山をめぐる争いが鉄火裁判にまで発展しています。
中世は「自力救済」の時代であり、ときに山や水利をめぐって村同士が合戦のような状況にまで及ぶことがありました。
それを考えると、この鉄火裁判は、取り手が大火傷をしたりする可能性があるものの、暴力のエスカレートを抑えるものでもあります。
自力救済の代償が明らかになり、一方で裁判を行う公権力が不十分といった中で鉄火裁判という解決が選ばれたのです。
また、神の審判にもかかわらず、取り手が大火傷を負った際の生活保障など細々としたことも決められており、必ずしも全面的に神仏を信じていたわけではないことがうかがえるのも興味深いです。
つづいて第8講の「鎖国の内実」にいきます。最初にも書いたように第7講からが須田努の担当です。
「鎖国の内実」というと、いわゆる長崎・対馬・琉球・蝦夷地の「四つの口」の話かと思いますが、ここで考察の対象となっているのは、そこから見えてくる「日本型華夷秩序」と日本の自意識をとり上げています。
なお、近年では「鎖国」よりも「海禁」という言葉が適当だという主張もありますが、日本のほうが統制が厳しく、民間貿易の可能性もほぼなかったことから「鎖国」が適当だろうと著者は述べています。
興味深いのは日本人の対外関係を通じた自意識で、フィクションなどをみると日本人が日本を「武威の国」と見ていたことがわかるといいます。
近松門左衛門は「本朝三国志」で秀吉の朝鮮侵略を舞台に日本人武者の強さを描きましたし、紀海音も「神宮皇后三韓責」で三韓征伐を描きました。ここには日本人は強く、朝鮮人は柔弱であるという図式があります。
また、近松門左衛門の「国性爺合戦」も日本人の武威を強調した作品だと言えます。
この日本を武威の国だとする見方は、山鹿素行などにも共通するものです。
この「武威」を担うべき存在が徳川幕府でしたが、幕末になるとこれが崩れます。この武威の失墜を描いたのが第9講です。
この武威が決定的に揺らぐのは第10講でもとり上げられているペリー来航ですが、著者はそれより少し前の天保期の動きに注目しています。
著者が注目するのは1836(天保7)年に起こった甲州騒動です。郡内騒動とも呼ばれる大規模な百姓一揆で、もともとは天保の飢饉時に穀留(藩内から米を出さないこと)によって食料の流入を絶たれた郡内地域の百姓が窮状を石和の代官に訴えたものでした(郡内地域は養蚕地域で食料は他から買っていた)。
彼らが米穀商の打ちこわしを行ったことから騒動は始まりますが、次第にこの騒動に長脇差を帯びた「異形の集団」が加わり、米穀商に限らず、富家の打ちこわしを始めます。
この暴動に対して幕府の代官たちは無力でしたが、甲府代官は甲州の村々に、騒動勢を「悪党」とした上で、彼らを殺害しても良いとのお触れを出します。
本来ならば、「兵農分離」の原則のもと、幕府が領民を保護する代わりに領民は自力救済をあきらめるというのが約束事でしたが、それが破られたのです。
この後、多摩地域では農民の剣術修行が流行し、それが近藤勇や土方歳三と行った新選組の面々を生むわけですが、本書ではこの剣術修行の流行の起点を甲州騒動にみています。農民たち(特に村役人層)は自衛を考えざるを得なくなったのです(その代表例が土方歳三の義兄の佐藤彦五郎)。
この他にもいろいろと面白い部分はあるのですが、ここでは最後に、清水克行の「あとがき」の中の「教養日本史」の意義について書いてある部分を紹介したいと思います。
名著『歴史学入門』を書かれた西洋史の福井憲彦さんは、文学部史学科で歴史学研究を志す読者を対象に、大学では「歴史像の受け手、消費者」ではなく「みずからが歴史像を描き発信する側、つまりは生産者」をめざすべきことを熱く求めています。その比喩を借りるなら、私たちの「教養日本史」がめざすべきところは、「みずからが歴史像を描き発信する側」に立たないまでも、「歴史像の受け手、消費者」として、巷にあふれている粗悪な歴史像と良質な歴史像を理性的に弁別することのできる「賢い消費者」を育てることにあると考えています。(380p)
このあたりは、例えば高校の歴史の授業とかにも通じるものであって、高校で新しく「探求」の授業が始まり、「高校でも研究を意識すべきなのか?」というムードがある中で、もう1つの方向性を示してくれているのではないかと思います。
もちろん、教育とかに関係なく、歴史に興味がある人であれば面白く読める本であることは間違いないです。