ペ・スア『遠くにありて、ウルは遅れるだろう』

 独白は混乱とともに終わった。その後。ぴんと張られた太鼓の革を引っかくような息づかいが聞こえてきたが、それは私のもののようだった。(7p)

 

 なかなか印象的な一節ですが、これはこの小説の始まりです。

 主人公はある部屋で目を覚ましますが、なぜか記憶を失っています。しかも同室には男(同行者と呼ばれている)がいます。

 主人公らは持ち物を調べ、外に出てバスに乗り、巫女のもとへと行きます。

 そして、印象的な文体で不思議なエピソードが語られていきます。

 

 著者のペ・スアは韓国文学の世界ではよく知られた存在だそうですが、その独特な文体もあって今作が初めての日本語訳の単行本になります。訳者はおなじみの斉藤真理子です。

 

 ペ・スアは作家であるとともに翻訳家でもあり、30台後半から本格的にドイツ語を学び、ドイツ語、そして英語の小説の翻訳を精力的に行っています。

 韓国とドイツと行き来している生活をしており、韓国にいるときは翻訳に集中し、ドイツにいるときは自分の作品を執筆しているそうです。

 

 そうしたこともあるのか、この作品はここ最近翻訳されている韓国の女性作家の作品とは違っています。

 韓国の女性作家の作品は韓国社会の過去の傷や現在の軋みを感じさせてくれるものが多いですが、本作に「韓国」は登場しませんし、「無国籍的」とも言っていいような印象を受けます。

 

 本作は3部仕立ててで、いずれもウルという女性が中心にいますが、第1部は一人称、第2部は三人称と変わりますし、ウルという女性が同一人物なのかははっきりしません。

 「ウル」という名前はメソポタミアの最古と都市と言われる「ウル」からとったといいますが、本作は何かが始まりそうな雰囲気をたたえながら、何かが本格的に始まることはなく、さまざまなイメージが語られていきます。

 

 「純粋芸術」っぽい作品であり、その文体とイメージには独特の魅力があります。

 ただ、個人的にはもっと現実の社会とダイレクトな関係性を持っている作品のほうが好きですね。