呉明益『雨の島』

 昨年は、『複眼人』、『眠りの航路』ときて、さらにこの『雨の島』と刊行ラッシュとなった台湾の作家・呉明益。『歩道橋の魔術師』や『自転車泥棒』が文庫化され、売れ方はわからないのですが完全にブレイクした感じですね。

 ただ、これだけ翻訳が続いても読ませるのは呉明益の引き出しが多いからで、この『雨の島』と『眠りの航路』ではずいぶんと作品から受ける印象は違います(『複眼人』とは少しにている)。

 

 本書は連作短編ですが、後記に「ネイチャーライティング」という言葉が使われているように、自然を題材としたノンフィクション文学のような趣もあります。特に各短編の前の置かれた呉明益自身によるスケッチは美しく、生物に対する繊細な視点が感じられます。

 「雨の島」とは台湾のことであり、その山や森林、海の様子が描かれています。そして、その自然に魅せられた人間たちが描かれるのです。

 

 ただし、あくまでも本作は小説であり、そのための仕掛けもあります。

 舞台は基本的に現代または近未来なのですが、どの短編でも1つのキーとなるのが「クラウドの裂け目」と呼ばれるウイルスによる秘密の暴露です。このウイルスは侵入すると当人が隠しておきたいファイルを探り出し、それを見るのにふさわしい人物に送りつけるのです。

 これによって本作の登場人物は、親しい人の思わぬ秘密や謎を知ることとなります。

 

 自然というのは人々を癒やしてくれる存在でもありますが、本作の登場人物たちには自然に癒やされるというよりは、そもそも人間の社会の中ではうまく生きられずに自然の中でしか生きられないような人々です。

 彼らは孤独になる必要があり、その孤独を与えてくれるのが台湾の山であったりします。

 

 個人的に特に好きなのが、まずは「人はいかにして言語を学ぶか」。

 狄子(デイーズ)は幼い頃から自閉症気味でしたが、鳥の鳴き声を音符にすることができるという特技をもった少年でした。彼は大学に入り鳥類の研究者となりますが、母の死をきっかけに聴力を失ってしまいます。

 このようにもともと言葉が得意でなかった彼は、得意な鳥の鳴き声を聞くことさえできなくなってしまいます。しかし、ここから手話を学んで言葉を取り戻します。

 物語時代は比較的淡々と進んでいくのですが、この過程が非常によく描けています。

 

 もう1つ強烈な印象を残すのがラストの「サシバベンガル虎および七人の少年少女」。

 呉明益の作品ではおなじみの台北の商場を舞台にした作品で、高校卒業後に浪人生だった叔父さんが市場で鷹を連れてきてしばらく飼っていたという思い出が語られるとともに、「叔父さんはどこからどのように鷹を連れてきたのか?」という謎と、叔父さんと友人たちが市場で虎を見たという話が語られます。

 終わり方はショッキングでもありますが、人間と自然の関係の歪みをわれわれに突きつけるような内容でもあります。

 

  全編を通じてエコロジーではあるのですが、ぱっと思い浮かぶ「エコロジー」とは少し違った「エコロジー」が展開しています。

 個人的には「エコロジー」的な仕掛けが目立った『複眼人』よりもこちらのほうが好きですね。

 『歩道橋の魔術師』に引き続き、呉明益の短編作家としての上手さを感じさせてくれる本でもあります。