1976年に中国に生まれ、11歳の時の渡米して、それ以来アメリカで生活しながら、数々の傑作SFを世に送り出し、また、劉慈欣の『三体』を英訳し、中華SFが広く世にしられるきっかけをつくったケン・リュウの日本オリジナル短編集。
今回の本も本当にいろいろな魅力が詰まった本なのですが、特にAIなどがつくり出す新たな世界の改変を描いた作品と、東アジアの歴史をSF的な虚構の力ですくいとってみせる作品が見事ですね。後者の「歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー」は特に傑出した作品だと思います。
収録作品は以下の通り。
宇宙の春
マクスウェルの悪魔
ブックセイヴァ
思いと祈り
切り取り
充実した時間
灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹
メッセージ
古生代で老後を過ごしましょう
歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー
まずはAIが改変していく世界を描いた作品から紹介します。
「ブックセイヴァ」
ある小説を読んでいて、物語は面白いけど描かれている女性が古臭くて興ざめしてしまう、物語を素直に楽しめなくなってしまうなんてことは、女性には結構多いのかもしれませんし、男性でもそう感じることがあるかもしれません。
一方、いわゆる「ポリコレ」的なものに配慮するあまりに陳腐なパターンに陥ってしまう場合もあるでしょう(個人的にはスター・ウォーズの新シリーズ(EP7~9)にそれを感じました)。
この問題を解決してくれるのが、本作品で登場する「ブックセイヴァ」です。このプラグインを使うと、ウェブ小説の「不適切」な部分をAIが自動的に書き換えてくれます。古臭い女性像や、作者の思わずにじみ出てしまう人種的偏見などに付き合う必要はないのです。
もちろん、作者はお路地なリティが毀損されると反発するわけですが、この「ブックセイヴァ」こそが不快な思いをしない最適解なのかもしれません。
そんな「ブックセイヴァ」をめぐる顛末をさまざまな立場の人の意見をコラージュ的に示すことで描き出しています。
「思いと祈り」
銃乱射事件に巻き込まれて命を落とした娘。母親は銃規制を求める団体の応じて、娘のさまざまな映像などを提供し、彼女の人生を追体験できるようなVRを作り出します。これによって人びとの心を動かそうとするのです。
しかし、この映像は悪意のある人々によって改変され、ネット上に溢れ出します。そして、かけがえのない娘は「素材」なり、ネットで互いを攻撃するための燃料になっていくのです。
つづていては、東アジアの歴史をSF的な虚構の力ですくいとってみせる作品。
第2次世界大戦中、強制収容所に入れられていた日系人のタカコ・ヤマシロが密命を帯びて日本に捕虜の交換という形で送り込まれます。タカコは日本で秋葉という陸軍士官にして物理学者でもある男と行動をともにすることになります。秋葉とタカコはタカコの祖母が生まれた沖縄に移って研究を行いますが、それはマクスウェルの考えを応用した永久機関の研究でした。
SFとファンタジー的な要素を融合させたアイディアに、沖縄戦と移民にとっての「故郷(ホーム)」の問題を重ね合わせた重層的な内容になっています。
「歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー」
遠い星の光は今から何年も前に放たれた光です。本作品では、そうした原理を利用して(もちろん本作品ではもっときちんとしたSF的な説明がしてあります)、過去の光景を見ることができる装置が開発された未来が舞台になっています。
その装置をつくったは桐野明美という日本人女性で、そのパートナーは日本史を専攻するエヴァン・ウェイという中国系アメリカ人は、その装置を使って歴史の闇を明らかにすることを決意します。
その歴史の闇とは日本の731部隊によって行われた人体実験です。
中国生まれの作家が書く731部隊の話ということで身構える人もいるかもしれませんが、本作品では、さまざまな立場の人を登場させ、ドキュメンタリー的な体裁をとることで、歴史問題の難しさに多角的に迫っています。
例えば、この作品の距離感は登場人物の一人の次の発言からもうかがえます。
そして、そう、狭い海をあいだにはさんで、中国と日本は、第二次世界大戦の残虐行為にはからずも同じタイプの反応を集中させてしまったんです ー 『平和』や『社会主義』といった普遍的な理想に名を借りて忘れ去り、大戦の記憶を愛国心にまとめあげ、犠牲者も加害者もおしなべて国家に奉仕する象徴として抽象化してしまったのです。こういう観点から見ると、中国の抽象的かつ不完全で断片的な記憶と、日本の沈黙は、同じコインの表裏なのです。(274p)
もちろん、これは登場人物の一人の意見であり、著者の声というわけではありませんが、本作品では、歴史を実際に目撃して語るという行為の是非、歴史が誰のものかという問題、当事者(とその遺族)の特権性の有無、謝罪の解像度など、さまざまな問題が語られています。
ケン・リュウは現在、アメリカに住んでいますが、ここには中国や日本に住み続けている限りなかなか得られない距離感があります。
このあたりは、同じくアメリカに住みながら『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハン事件や満州の問題を描こうとした村上春樹を思い出しました。村上春樹も日本と中国の双方に距離を取ろうとしている作家に思えますが(個人的には村上春樹が中国での戦争に従軍したという父親についての小説を書かないかと期待している)、ケン・リュウもまたそうした作家の一人だということを改めて感じました。
この距離感は清の時代の揚州大虐殺について描いた「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」でも感じましたが(いずれも『母の記憶に』所収)、さらにシビアなネタでもそれは活かされています。
「アジア」あるいは「東アジア」に一体性のようなものはあるのか? というのは大きな問になりますが、このケン・リュウは(あるいは台湾の呉明益あたりも)、「東アジア文学」の旗手と言えるのかもしれません。
最後に、ここで紹介した4作品以外もそれぞれ面白いです。