G・イーガン『しあわせの理由』の描く幸福と不幸

  今月は書くネタがない。『マトリックス・リローデッド』については時期を逃した気がするし、ミッシェル・ガン・エレファントについては、やっぱラストライブ後に書きたいし。というわけで、読み終えたばかりの、G・イーガンの短編「しあわせの理由」について少し。


 イーガンはオーストラリアのSF作家で、とにかく抜群にアイディアのある作家です。特にSFというジャンルに興味がなくても、哲学に興味があるとかアイデンティティの問題に関心があるなんて人はぜひ読むといいでしょう。この同名タイトルの短編集に収録されている「しあわせの理由」も突飛なアイディアから“人間性”というものを考えさせる内容になっています(他の短編だと「適切な愛」が、これまた考えさせられる)。


 「しあわせの理由」の内容はかなり複雑なのですが、ストーリーはこうです。主人公の少年は病気のため、ロイエンケファリンという脳内物質が異常発生することになる。このロイエンケファリンは人を“いい気分”にする物質で、少年は多幸感の中で闘病生活を送るが、その治療によって、今度はそのロイエンケファリンの受容体が破壊されてしまう。“いい気分”をまったく感じなくなった少年は廃人のようになり大人になるが、30歳の時、新たな治療法が試みられる。この治療法とは死滅した脳の部分に人工的な神経回路を埋め込むもので、その神経回路とは成人男性四千人ぶんの神経回路が合成されたものという代物。手術は順調に終わり、彼は“感動すること”を取り戻すが、今度はなんにでも感動するようになってしまう。彼の頭には四千人ぶんの“好み”が移植されたことになっていて、すべてのものが好ましく思えるようになってしまったのだ。で、医者は最終的に、彼が自分の好みを“選択”できるようにするというもの。


 脳内物質によって幸せになり、それがなくなって生きる気力がなくなる、という話だと、「まあ、あるかな」という感じですが、手術によって四千人ぶんの好みを持つことになるというアイディアはイーガンならでは。「ぼくには、あらゆる美術品が、あらゆる音楽が至高のものだった。どんな食べ物も美味だった。目にする誰もが完璧なりそうな姿をしていた。」という姿は、幸せでもあり、また、それ以上に不幸とも言えるでしょう。「ぼくは他人という太陽に照らされて風に舞う抜け殻にすぎない」というわけです。


 自分の好みというのは、自分の自我の中核と思えるものです。その人の好みというのは、ある意味その人そのものを表すといってもいいでしょう。けれども、自分の好みというのは、ふつう自分で選ぶことは出来ないものです。「今度はどんなタイプの女性を好きになるか?」なんて考える人はいないでしょう。もちろん、同一化によって好きなタレントと同じ服装をしてみたり、同じ趣味を始めてみたり、ということはあるでしょうが、それは自分の好みを選択したとは言えないものです。


 しかし、この「しあわせの理由」では最終的に主人公は自分の好みを選択できるようになります。彼は脳内のプログラムにより対象への好みのレベルをコントロールできるようになるのです。この状態もまた最高のように見えて、最悪でもあるような状態です。彼はどのように恋愛をするのでしょう(小説の中では実際にその様子が描かれます)?また、彼のような状態になったとき、数ある“しあわせ”、例えばランニングをしたあとの気分の良さとシンナーを吸ったときの気分の良さの違いはどこにあるのでしょう?


 すべてが選択できるというのは、完全な自由であると同時に不幸なことかもしれません。こうした中では、人はある種の制約を求めざるを得ないでしょう。例えば、『マトリックス』のネオは、マトリックスの世界のコードを知り、何でも出来るにもかかわらず、「予言」を探し続けます。「予言」だけが、すべてが可能な世界に意味を与えてくれるからです。


 人間にはすべてのものを理解する能力や、すべてを好きになる能力や、すべてを選択できる能力はありません。けれども、この能力の低さ(ルーマン流にいえば複雑性処理の限界?)こそが、“人間性”というものを深く規定しているのかもしれません。


しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)
グレッグ イーガン Greg Egan
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