オルガ・トカルチュク『逃亡派』

 オルガ・トカルチュクはポーランド出身の女性作家で、この<エクス・リブリス>シリーズには『昼の家、夜の家』につづき2回目の登場。
 『昼の家、夜の家』は主人公の身辺雑記的な短い断片と、町の人々や歴史をめぐるエピソードなどを描いた短編によって構成された作品でしたが、今回の『逃亡派』も同じ。短いエッセイにいくつかの短編(クニツキという男をめぐる連作短編のようなものもある)が挟み込まれている形になります。


 『昼の家、夜の家』は、ポーランドの田舎町の土着的ともいえる生活を描いていましたが、本作のテーマは対照的。「旅と移動」がテーマになっています。
 タイトルの「逃亡派」は、ロシア正教のあるセクトの名前からとったらしく、アンチキリストの支配する社会との関係を絶ち放浪を正しい生き方とする考えからそのように呼ばれたようです。
 この本の中にも「逃亡派」というタイトルの章、あるいは短編と言っていいものがあり、そこではモスクワの地下鉄の乗り続ける主人公の女性が出会った謎の女性が描かれています。
 そして、つづく「逃亡派の女はなにを言っていたか」という章の冒頭には次のように書かれています。

 ゆれろ。動け。動きまわれ。それが唯一、やつから逃げる道。世界を支配するものに、動きを制する力はない。やつも承知だ、動くわれわれの身体が聖なるものだと。動くときだけ、やつから逃げられる。(258ー259p)


 このようにテーマは一貫して「旅と移動」なのですが、この本の中のいくつかの章は人体をめぐるものです。
 アキレス腱を発見したフェルヘイエンの話や、解剖学者のフレデリク・ルイシュの話、オーストリア皇帝フランツ1世によって剥製にされてしまった黒人の話、パリで亡くなったショパンの心臓が故郷に戻る話など、解剖や人体の器官をめぐる断片が数多くあります。
 これは「身体をめぐる旅」ともとれますし、「動きを失って支配された人間の姿」ともとれるでしょう。
 このように著者が描く短編の世界はバラエティ豊かで、ヨーロッパの様々な地域、そして過去と現在を行き交いながら広がっています。


 ただ、残念ながら著者の思弁的なエッセイの部分がやや退屈。
 「旅行心理学」の話など、一風変わった切り口ではあるのですが、そこで展開されている思弁は平凡です。
 『昼の家、夜の家』には、マルタという女性が旅について次のように語っている部分があるのですが、この考えを乗り越えるような旅についての考えは出てきていないと思うのです。

 旅に出ると、自分のことにかかりっきりになる。自分の世話をするのは自分だし、自分にも、世界のなかの自分の立ち位置にも、自分が注意しなくてはならない。自分のことに集中し、自分について考え、自分で自己の面倒をみる。旅行中にいつも顔を合わすのは、結局自分自身。まるで自分こそが旅の目的地みたい。でも、家のなかでは、自分は単に存在するだけ。なにかと闘う必要も、なにかを得る必要もない。列車の接続や時刻表にあくせくしなくてもいいし、有頂天になったり、落胆したり擦る必要もない。自分のことにかまわなくていいとなると、いちばん多くのものが見えるようになる。(58p)


 というわけで、個人的には『昼の家、夜の家』のほうが好きですね。
 やたら説明調のセリフが多い映画を見ると、「そんなのわかっている」と言いたくなることがありますが、この小説にもそういうことを感じる時があります。


逃亡派 (EXLIBRIS)
オルガ トカルチュク 小椋 彩
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