ドナル・ライアン『軋む心』

 <エクス・リブリス>シリーズの最新刊はアイルランドの作家ドナル・ライアンのデビュー作。
 ドナル・ライアンはもともとは労働問題を扱う弁護士として行政機関で働いていたそうですが、3年間休職してこの小説ともう一作を書き上げたそうです。ただし、出版社に持ち込むも連戦連敗。しかし、出版されるやいなや評判を呼び、アイルランド最優秀図書賞、ガーディアン処女作賞を受賞しています。
 

 とりあえず帯には次のように書かれています。

不況にあえぐアイルランドの田舎町で、ある男の他殺体が見つかり、ひとりの幼児が何者かに連れ去られる……。殺人と誘拐という不穏な旋律に、21人の語り手の声がポリフォニックに絡み合う、遅咲きの新鋭による傑作長篇! アイルランド最優秀図書賞、ガーディアン処女作賞受賞作品


 これを読むと、さまざまな語り手がある事件についてそれぞれの立場から語る、ちょうど芥川龍之介の『藪の中』のような小説を想像するかもしれません。
 ところが、実際に読んでみると殺人事件や誘拐事件がこの小説の中心ではないことがわかります。さまざまな語り手はミステリーを盛り上げるための仕掛けではなく、現在のアイルランドを描き出すために呼び出されているものなのです。


 近年のアイルランドの作家というと、ウィリアム・トレヴァーやコルム・トビーン、あるいはこの<エクス・リブリス>シリーズで『青い野を歩く』が紹介されたクレア・キーガンなんかがいるわけですが、いずれもアイルランドの「田舎」的な部分が描かれていることが多いです。
 しかし、アイルランドは90年代後半から2008年まで爆発的な経済成長を遂げ、「ケルトの虎」などと言われました。近年のアイルランドは「純朴な田舎」から急速な変貌を遂げたのです。

 
 が、その経済成長はリーマン・ショックとともに失速。2009年には5%を超えるマイナス成長に見舞われました。
 そんな、経済バブル崩壊後のアイルランドの片田舎の姿を描こうとしたのがこの小説です。


 冒頭、この小説の中心的人物である建築会社の職長ボビーの語りで幕を開けるのですが、そこで語られるのは勤めている会社が倒産し、その会社が実は自分たちの社会保険料を払っていなかったという事実です。
 住宅バブルに乗って仕事をこなしていたボビーの会社でしたが、社長のポーキーがドバイのマンション投資で大損を出し遁走、ボビーたちは仕事も失業保険もないままに放り出されるのです。


 その後も、開発されたものの途中で建設がとまったしまった建売住宅に住む女性リアルティンなど、不況によって人生を狂わされた人々が登場します。
 もちろん、片田舎というだけあって人間関係は閉鎖的で、そこは以前のアイルランドの田舎と同じです。しかし、昔あった「共同体」あるいは「信仰」といったものは確実に崩れつつあり、地域自体が閉塞しているような状況です。日本の「郊外」を思わせると言ってもいいでしょう。
 この小説で起こる事件は、そうした「閉塞感」を表すものだと言えます。


 デビュー作ということもあって21人の語りがすべてうまく機能しているわけではありませんが、変化するアイルランドの姿をうまく切り取った小説になっていると思います。


軋む心 (エクス・リブリス)
ドナル・ライアン 岩城 義人
4560090440