ファン・ジョンウン『誰でもない』

 私はつまらないものを好む方ですが、人間をつまらないものと見なす社会全体の雰囲気が人々のことばに現れているのを目撃することは、どうにも、わびしいことです。

 これはこの本の最後の「日本の読者の皆さんへ」に置かれている著者の言葉ですが、この短篇集のテーマをよく表している言葉だと思います。


 パク・ミンギュ『三美スーパースターズ』やハン・ガン『ギリシア語の時間』が面白かったので、晶文社の<韓国文学のオクリモノ>シリーズの1冊である、このファン・ジョンウン『誰でもない』も読んでみましたが、これも良く出来た短篇集です。
 著者は1976年生まれの女性で、韓国でも数々の賞を受けているそうですが、非常にさまざまな書き方ができる作家ですね。テーマとしては冒頭に掲げたような、IMFショック以後の余裕を失った韓国社会の一断面を切り取ったものが多いのですが、その描き方は作品ごとに違います。


 個人的にまず面白かったのが「ヤンの未来」。
 主人公は中学高校時代からさまざまなアルバイトを転々としてきた若い女性。そんな私は団地の一角にある書店の店員に落ち着き、しばらくそこで働くことになりますが、ある日、奇妙な男に監視されたタバコを買いに来た少女と出会ったことが彼女の生活を変えていきます。
 アルバイト仲間から教えられた団地の地下のシェルターの話と少女に関する事件が重なった非常に不気味なイメージが広がってくる作品で、ちょっと舞城王太郎の『淵の王』を思い出しました。


 「誰か」、「わらわい」は韓国の都会に生きる女性の孤独と、紙1枚隔てた狂気を描いた作品。ブラックな作品なのですが、ブラックユーモアになりそうでならない感じで、韓国社会を覆うギスギスした感じを浮かび上がらせています。


 一方、「ミョンシル」は叙情的な作品で、老婦人が死んだ恋人のシリーの思い出を回想しながら、その思い出を書こうとする作品です。シリーは物語を書こうとしていたのですが、断片だけを書いて、きちんとした物語を書けないままに亡くなっています。そして、シリーのことを書こうとした主人公のミョンシルもなかなか書けないのです。
 これは全体として非常に美しい作品に仕上がっています。

 
 とにかく上手い短篇集だと思います。個人的には、作家の個性が強く感じられる『三美スーパースターズ』や『ギリシア語の時間』の方が好きですが、でも、このファン・ジョンウンが文句なしに上手い作家であることは確かです。
 また、バブルからダラダラと不景気に陥っていつの間にか「暗い」社会になってしまった日本と、IMFショックによって一夜にして「暗い」社会になってしまった韓国との違いのようなものも感じました。


誰でもない (韓国文学のオクリモノ)
ファン ジョンウン 斎藤 真理子
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