アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』

 少し前に読んだ本で感想を書きそこねていたのですが、これは良い本ですね。現代における理想主義の一つの完成形ともいえるような内容で、理想主義者はもちろん、理想主義を絵空事だとも思っている現実主義者の人も、ぜひ目を通して置くべき本だと思います。
 著者はご存知、アジア人初のノーベル経済学賞を受賞したインド出身のアマルティア・セン。彼の講演をもとにしたもので、読みやすく、またセンの思考のエッセンスが詰まっています。


 本書の元になった講演の一部はボストン大学で2001年の11月から翌4月にかけて行われたものです。ちょうどアメリカの9.11テロの直後であり、イスラームと西洋諸国の「文明の衝突」が叫ばれた時期でもあります。
 もちろん、センはこうした衝突に反対する立場をとります。センはアイデンティティの重要性を認めつつ、「1人に1つのアイデンティティ」という考えを否定し、「アイデンティティの複数性」を主張することで、「文明の衝突」というような考えを退けようとするのです。


 センはハンチントンの『文明の衝突』を批判しますが、それはハンチントンが文明の共生の可能性を低く見積もっているからではなく、そもそも世界を文明ごとに分けることができるという考えを持っているからです。

「文明が衝突するのか?」という問いかけがもとにしている前提は、人間はなによりもまず異なった別々の文明に分類することができて、異なった人間相互の関係はなぜか、とくに理解をいちじるしく損ねることなく、異なった文明相互の関係という観点から判断できるというものなのだ。この命題の基本的な欠陥は、文明が衝突しなければならないのかを問うはるか以前にさかのぼるものである。(28p)


 しかし、一方で必ずしも偏狭な考えにもとづくものではなくても、このような単一のアイデンティティを強化してしまうような取り組みもあります。
 イギリスでは公費補助のあるキリスト教学校に加えて、イスラム教学校、ヒンドゥー教学校、シク教学校がつくられていますが、こうした学校は宗教集団という単一基準のアイデンティティを助長するものでもあります。多文化主義アイデンティティの固定化をもたらすこともあるのです。


 センに言わせれば、アイデンティティの間違った理解として、「アイデンティティ軽視」と「単一帰属」という2つの間違った理解があります。
 「アイデンティティ軽視」とはアイデンティティに価値を認めないもので、経済学などで想定される合理的な経済人などがこれにあたります。
 しかし、近年の経済学においてこの想定は否定されつつあります。アカロフなどはアイデンティティを経済学に組み込もうとしていますし、その他にも人間が周囲の集団からさまざまな影響を受けることが指摘されています。


 「単一帰属」は「人間は一つのアイデンティティに帰属する」という考えですが、これに対してはいくつかの面からアプローチがされています。
 まず、どのアイデンティティが重要なのかは場面によって変わります、「ベジタリアン」というアイデンティティは仕事上では特に重要ではないかもしれませんが、食事をする場面ではもっとも重要でしょう。また、例えば「足のサイズが大きい」といった特徴はアイデンティティにはなりえないように思えますが、もしそのサイズの靴がほとんど手に入らないような状況であれば、その足のサイズの人びとを団結させる力になるかもしれません。
 コミュタリアニズムは、人は生まれ育った共同体によって価値観などが決まると考えます。センも生まれ育って共同体から影響を受けることは否定しませんが、「影響は完全な決定と同じでない」(59p)ですし、文化が一揃いの単一の価値観をもっているわけでもありません。また、当然ながら生まれ育った共同体の外で自分のアイデンティティを獲得する人間もいるのです。


 センは、「文明の衝突」論によって、民族紛争が「現代のつまらない政治問題などよりも、はるかに遠大な意味をもつ抗争として見られるようになった」(71p)と批判します。ありきたりな利害の衝突がはるか昔からつづく宿命に変換されてしまうのです。
 また、こうした見方が「西洋特殊論」になってしまっていることにも注意を向けます。民主主義などの価値観は「西洋」という文明の中で誕生したのだという考えです。
 これに対してセンは、古代ギリシア以外の民主主義のルーツを指摘し(聖徳太子の17条憲法にも触れている(83p))、また科学についても「西洋」以外のルーツを指摘しています。


 第4章では「宗教的帰属とイスラム教徒の歴史」と題し、ムスリムを非寛容なテロリストと見ることの間違いをイスラーム社会の実情や歴史を例に上げながら指摘していますが、一方で次のようにも述べています。

 イスラム教はつねに対立的な宗教だとする解釈を否定することは、今日では明らかに適切だし、きわめて重要であり、トニー・ブレアがこの点で成し遂げてきたことは大いに称賛に値する。しかし、ブレアがたびたび「イスラムの穏健かつ真の声」を引き合いに出すことに関しては、対立や寛容性をめぐる政治的、社会的信条という点から「真のムスリム」を定義することがはたして可能なのか〜必要ですらあるのか〜われわれは問わなければならない。(113p)

 ムスリムと対話しようとしたときに宗教指導者ばかりと対話することはムスリムのもつ非宗教的な側面を軽視することにもつながります。そして、これが宗教間の対立を固定してしまう可能性もあるのです。


 第5章でセンは、西洋がアジアやアフリカの植民地の文化を劣っているものとして考えていたことを批判しつつ、非西洋において「精神面」では自分たちが優越しているという次のような議論が出てきたしています。

 インドでは植民地支配によって数学や科学における過去の功績が軽んじられた結果、それに「適応した」自己認識が生まれた。インドは西洋との競争において「独自分野」を選択し、「精神的」分野では比較優位だということを強調するようになったのだ。(130p)

 日本人ならば「和魂洋才」といった言葉を思い浮かべるかもしれませんが、ここで「和魂」の部分が肥大化していくと、自由や民主主義といった普遍的な政治思想を拒否することにもつながりますし、また科学を必要以上に「西洋」と結びつけてその成果を否定することにもつながります。
 

 第6章では「文化」によって、ある国の問題を説明することを批判しています。
 1943年のベンガル飢饉について、ウィンストン・チャーチルはその原因を「ウサギのように繁殖する」インド人の性癖によるものだと述べ、インド統治が困難なのはインド人が「世界のなかでドイツ人についで野蛮な人びと」だからだとしました(151p)。ベンガル飢饉の原因を研究してきたセンは、これに対して「文化論とはなんと便利なものであろう」(151p)と述べています。


 ハンチントンは、1960年代の韓国とガーナの経済データが似通っていることに注目し、その後の両国の発展の違いの原因を「文化」に求めました。これに対して、センは両国の経済構造の違いと、韓国の当時の識字率の高さに注目し、「文化」を運命的なものと捉える見方に反対しています。
 センは、日本の発展についても触れ、江戸時代から日本の識字率が高かったこと、1906〜11年までに日本の市町村の予算の43%が教育に費やされたことを指摘しています。識字率の高さは公共政策の結果でもあるのです。


 センは「文化」を固定的で不変なものとみなす考えに反対しつつ、多文化主義について次のように述べています。

 実際のところ、文化的自由と文化的多様性の関係は、必ずしも建設的なものであるとは限らない。たとえば、文化的多様性を保つための最も簡単な方法は、状況によっては、ある時点においてたまたま存在していた既存の文化的慣習をすべて継続させることとなるかもしれない(中略)
 たとえば、欧米諸国に暮らす保守的な移民家庭では、若い娘たちが社会の多数派の自由な生活様式をまねるのではないかという恐れから、年長者に厳しく監視されるかもしれない。そうなると、多様性は文化的自由を犠牲にして達成されることになる。最終的に重要なものが文化的自由なのであれば、文化的多様性はそのときどきの条件つきで尊重されなければならない。したがって、多様性の利点は、その多様性がまさにどのようにもたらされ、維持されているのかによって変わってくるはずだ。(163p)

 
 第7章では、グローバル化の問題がとり上げられています。センは「グローバル化=悪」という考えを否定しながら、同時に「反グローバル」の声に耳を傾ける必要性を主張しています。
 まず、「グローバル化」=「西洋化」というイメージがありますが、世界はヨーロッパが世界に乗り出す前からグローバル化へと動いていました。
 また、グローバル化について、反対派は「グローバル化によって格差が拡大する」と批判しますし、推進派は「グローバル化によって貧しい人々の生活が改善される」と主張しますが、これに対してセンはこのような問題の捉え方は不適切だとしています。肝心なことは、特定の取り決めが取り決めがない場合よりもよいかではなく、他の選択肢を比べた上でその取り決めが公正かどうかなのです。

 グローバル化に関する多くの論争が的を絞ってきた問題、つまり、貧しい人が既存の経済秩序の恩恵をこうむっているのか、という問いは、評価すべき問題を評価するうえでは、まったく不適切な焦点なのである。代わりに問わなければならないのは、貧しい人びとも経済、社会、政治参加における格差を減らし、よりよい〜より公正な〜結果をうまく得ることができるか、という点だ。(189p〕


 こうした経済状況のみに注目する議論にセンは繰り返し注意を促しています。例えば、近年では戦争やテロをなくすために貧困を撲滅しようということが盛んに言われますが、これはすべてを経済状況に還元してしまうことにもつながりますし、貧困と暴力を必要以上に結びつけることによって、暴力や抗議の声も起こせない飢えた人びとを無視することにつながりかねません(196-197p)。
 
 
 最後の第9章で、センは11歳のときに遭遇した殺人事件に触れています。ヒンドゥームスリムの間の暴動で刺されたムスリムが自宅の庭に転がり込んできたのです。カデル・ミアという名前のその人物はムスリムであるがゆえ、まさにそれだけの理由のために殺されました。ここにセンが単一のアイデンティティに反対する原点を見ることができます。
 こうしたさまざまな経験によって形成されたセンの思想は、間違いなく理想主義的ではあるのですが、同時に理念にとらわれて現実を単純化することもしません。例えば、次のイラク戦争後のイラクに関する記述は、「リアリスト」の立場をとっていると見られる池内恵『シーア派とスンニ派』の内容と重なるような部分があるのではないでしょうか。

 アメリカ主導の政治的取り組みは、イラクを国民によって構成された国ではなく、宗教集団の集合として見がちであるため、ほとんどの交渉ごとでは宗教集団の指導者の決断や発言に重点が置かれる。この国に以前から存在していた緊張や、占領そのものが生み出した新たな緊張を考えればもちろん、これはたしかに進めやすい方法だった。しかし、短期的に容易な道が、一国の将来を築くうえで最善の道とは限らない。非常に重要なことの成否にかかわる問題の場合はとくにそうだし、国というものを宗教的民族性の集合体ではなく、国民の集まりとして考える必要性が問われる場合はなおさらだ。(250p)


 以前からセンの本は何冊か読んできましたが、思想家としてのセンの魅力を知るためにはもっとも良い本かもしれません。読みやすく、それでありながら深い洞察があります。
 将来的には岩波文庫とかに入るべき1冊と言っても過言ではないと思います。


アイデンティティと暴力: 運命は幻想である
アマルティア・セン 大門 毅
4326154160