カウシック・バスー『見えざる手をこえて』

 タイトルや最初と最後だけを読めば、よくある主流派経済学批判なのですが、中で行われている議論は非常に面白い。
 主流派経済学の方法論的個人主義を批判を行いながら、その方法論的個人主義を捨てたときに出現する厄介な問題にも目を配っており、社会科学にそれなりの興味のある人であれば経済学という枠を超えて楽しめるのではないかと思います。
 著者はインド生まれの経済学者で、アマルティア・センの指導を受けた人物、さらに「日本語版への序文」には青木昌彦に大きな影響を受けたことが書かれており、この本でも、制度派経済学の考えが大きくとり入れられています(実際、この本はNTT出版の「叢書《制度を考える》」シリーズの1冊となってます)。


 アダム・スミスはその著書の『国富論』の中で「見えざる手」についてはわずかしか触れていませんが、この「見えざる手」は経済学における中心的なテーゼとなっています。
 「見えざる手」の考えによれば、合理的な個人と自由な市場があれば政府などが介入しなくても社会は発展していくはずです。もっとも経済学の中からも、外部不経済や情報の非対称性など、さまざまな市場がうまくはたらかないケースが指摘されており、多くの経済学者から最低限の政府の介入は支持されてきました。


 この本ではさらに根本的に主流派経済学の考えが批判されています。
 例えば、僕もここしばらく疑問に思っている「推移性」の公理については次のように疑問が呈されています。

 たいていの人はコーヒーに入っている砂糖がゼロの場合と一粒の場合の違いが分からないし、一粒の場合と二粒の場合、より一般にはn粒の場合とn+1粒の場合の違いが分からない。しかし当然、砂糖抜きよりもスプーン一杯の砂糖を好む人はいるだろう。上の仮定によると、いかなる消費者もゼロ粒の場合を一粒の場合と少なくとも同じくらい好み(これらの違いは誰も分からないから)、一粒の場合を二粒の場合と少なくとも同じくらい好み、従って推移性により、ゼロ粒は二粒と少なくとも同じくらいよいことになる。この論法を繰り返し使えば、この人は砂糖抜きをスプーン一杯の砂糖と少なくとも同じくらいよいと考えなければならない。しかしこれは正しくない。(55p)


 この他にも人間の欲望や選好に関する仮定についていくつか疑問が呈されているのですが、この本において重要なのはその人を取り巻く「文化」という要因の指摘になります。
 この本で何度か出てくる例に次のようなものがあります。

 私たちのほとんどがバスのなかで他人のポケットから財布を盗まないのは、予想される利益がわずかで捕まる予想費用を相殺しないからではない。むしろ、財布を盗むということが選択肢であるなどとは考えもしないからである。実際のところ、文明の違いを部分的に特徴づけるのは、人々が自らに課す自主的制約である。(113-114p)

 
 これはその通りでしょう。
 多くの規範は合理的な損得勘定ではなく、ある種の常識によって守られています。この常識は文化ごとによって違い、日本では喫茶店でノートパソコンを置いたまま席を立つ人がいますが、「そんなことは考えられない!」という文化圏の人もいるでしょう。
 また、法に関しても、それがどの程度守られるかは刑罰の重さや捕まる確率だけで決まるわけではありません。多くの国で信号を守ることが法で決まっていると思いますが、日本では真夜中で交通量が少なく警官がいなくても律儀に信号を守る人が多いですが、インドでは日中で交通量が多く警察官がいる場合でも信号を守らない人は多いです(296p)。
 人間の行動の多くん部分は、周囲の社会や文化によって条件付けられているのです。


 もちろん、そんなのは当たり前だと感じる人も多いでしょう。経済学はいまさらそんなことを問題にしているのかと思う人も多いと思います。ところが、この文化や集団といったものを持ち込むと、社会科学はとたんに厄介なものになるのです。
 例えば、ミルトン・フリードマンは資本主義が発展していけば差別は解消していくと考えました。もし、女性に対して偏見を持っている企業が存在し、その企業は女性を雇わないか、あるいは補助的な仕事しか与えないとします。この動きは女性の賃金を押し下げます。しかし、偏見を持たないライバル企業にとって、これは優秀な女性が安い賃金で雇えるチャンスになります。そして、女性に偏見を持たない企業の方が優秀な人材をより安い賃金で雇うことができ、高い利潤率をあげることができるようになります。一方、女性に対して偏見を持つ企業は利潤率が低下し、やがて市場から退出していくでしょう(117ー119p)。


 ただし、現実はこのように理想的には動きません。相変わらず差別は存在し、それはある意味で「合理的」でもあるのです。
 例えば、「ある民族Xは優秀である、信用できる」といった評判は広まるとします。実は民族Xも民族Yも民族Zもその能力に変わりはないのですが、ひとたび「民族Xは優秀である」という評判が形成されると、民族Xの起業家は資金の融資を受けやすくなり、取引も広げやすくなるかもしれません。そうなると、実際に民族Xの起業家はどう程度の能力を持つ民族Yや民族Zの起業家よりも成功する確率が高まるでしょう。「民族Xは優秀である」であるという評判は事後的に証明されるのです。
 つまり、「個人の共同体アイデンティティは、先天的な重要性をまったく持たないにもかかわらず、またその個人の側の特別な行動や選択をまったく伴わないような場合でさえ、その人がどれほどうまく生きていけるかを左右する可能性がある」(137p)のです。


 この本では、こうした集団間のある種の信念や行動様式をゲーム理論の複数均衡の一つとして記述しています。つまり、安定した社会は一つではなく、いくつかの均衡状態で示されます。このあたりは青木昌彦の考えていたことに近いです(青木昌彦の考えについては青木昌彦『青木昌彦の経済学入門』ちくま新書)を参照)。
 インドのカースト制は不合理な制度に思えますが、この制度が長年続いていることを考えるとこれも一種の均衡状態だと言えます。もちろん、この均衡状態は変化することもありますが、変化させるには多くの人が信念なり予想なりを変えることが必要になります。


 2人が協調すればそれぞれが高い得点を、1人が裏切れば裏切ったものだけが高い得点を、2人が裏切れば両者が低い得点を得る「囚人のジレンマ」のゲームにおいて、ご存知のようにそれが一回限りであれば両者は裏切りを選ぶのが合理的になります。
 一方、ゲームが繰り返し行われるならば互いに協調したほうが高い得点を得ることができます。そこである集団内では信頼や利他の精神が生まれてくるかもしれません。この「集団内部の利他主義と信頼の度合いの高さは、公共財のようなもの」(159p)で、これは経済発展や社会の安定には欠かせないものです。


 この本の第6章では、ある程度の利他性を持つ集団Aと集団Bが存在し、全員が協力的であることがナッシュ均衡であるケースで、完全に非利他的な人がやってきたケースが検討されています(160ー161p)。
 これによると、完全に非利他的な一人でも出現すると、ドミノ倒し的に利他的な行動が消え去ってしまう可能性が指摘されています。この本で計算されているのは特殊なケースにも見えますが、実際、ヨーロッパでは一握りのテロリストが社会を大きく変えつつありますし、あながちありえないものではありません。そして、これはまさに移民排斥を正当化する理論にもなりえます。
 このように集団や文化なりを理論に取り込むことによって、フリードマンの描いた美しい理想への道は消え去り、現実にあるさまざまな落とし穴が顔をのぞかせるのです。

  

 腐敗のはびこる国に住む市民が生まれつき不道徳であると信じる理由はない。むしろ彼らは均衡で「不道徳」に「ふるまう」のである。(172p)

 これはその通りでしょう。ですから、均衡が変われば、腐敗は大きく減少するでしょう。しかし、均衡を変えるというのは簡単なことではありません。例えば、腐敗はよくないという教育を行っても、社会の均衡が「不道徳」であれば「不道徳」にふるまうほが合理的なのです。
 この本では、多くの人間に共通する利他的な傾向や、アイデンテティの複数性など、よくない均衡を脱するためのヒントをいくつかスケッチしていますが、簡単な特効薬はありません。


 この本の最後の第10章は「何をなすべきか」となっていますが、章の冒頭で著者が述べているように、この本は明解な答えを提供できてはいません。本の後半のグルーバル化の問題をとり上げた部分も含めて、社会を変える指針を求める人には物足りなさは残ると思います。
 しかし、この本の中盤で行われているさまざまな問題の検討は文句なしに面白いと思います。そして、著者の提起する問題は経済学だけではなく、他の社会科学の諸分野にも通じるものだと思います。個人的には非常に刺激的な本でした。


見えざる手をこえて:新しい経済学のために (叢書“制度を考える")
カウシック・バスー 序文:鈴村興太郎
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