デヴィッド・リンチと金八先生

 先日、デヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」を見てきました。前作の「ストレイト・ストーリー」がまったく「ふつう」の映画だったので、今回はどうなんだろうと思いましたが、印象は「ロスト・ハイウェイ」と似ていて、「リンチ・ワールド炸裂」という感じでした。


 殺し屋が人を殺すシーンがコミカルなのに、ふつうの会話シーンやドライブシーンが異常に不気味、また、終盤のどんでん返しも、謎が解決するのではなく、今までの現実(幻想?)が崩壊するといった具合で、斉藤環の「分裂病なき分裂病」というリンチへの見方を実感しました。リンチは「世界の見え方」が普通の人とは決定的に違う気がします。


 このリンチの世界とまったく対照的なのがテレビドラマの「金八先生」(リンチから見ると何でも対照的かもしれませんが…)。


 この前のシリーズの金八先生は(いちおう同業者として)恥ずかしくて見れなかったのですが、今回のシリーズは問題が続出し「大映ドラマ」のノリで見れました。ちなみにフジの「GTO」などが「ありえない先生とありえる生徒」の組み合わせなら、金八先生は「ありえる先生とありえない生徒」です。あんなに説教臭い話をみんなで聞いているクラスなんてまずないです。


 金八先生の世界は非常にわかりやすく、毎回のように登場人物が「わかりやすい感情」を炸裂させます。問題のある生徒は家庭に問題があり、金八は積極的にその家庭に介入することにより生徒を改心させます。そして問題のある生徒を改心させてゆく中で最終的に一致団結した「3年B組」が生まれるのです。


 ここでは金八ワールドのいくつかの特徴を分析しますが、まず第一に、「問題があるからこそ、クラスが団結する」という逆説があります。


 ふつうは、「あれだけ問題のあるクラスをまとめ上げる金八はすごい」、となるのでしょうが、これは「問題があるからこそクラスがまとまる」と見たほうがいいでしょう。アメリカのテロ事件を出すまでもなく、強力なアクシデント(外傷)は共同体を結束させます。「3年B組」も問題が起こるからこそまとまるのです。


 そう考えると、シリーズが進むにつれ、問題がどんどん深刻になり増えていくという現象も理解できます。現実の中でクラスのまとまりが失われていくにつれ、金八の世界ではそれを乗り越えるために問題が増えていくのです。(今シリーズは性同一障害に始まり、親父が殺人犯、アニキがヤク中、親父がリストラ自殺未遂、両親の再婚と児童虐待、というように問題のインフレでした。)


 次のポイントは「父親」としての金八です。問題のある生徒の家庭では多くの場合「父親」が機能していないように描かれています。「父親」が不在、あるいは仕事が忙しく子どもに向き合っていない、というのが基本的なパターンです。そして、こうした家庭に金八は、「父親」の役割として介入し、混乱した生徒に「秩序」をもたらします。


 こう考えると、金八が奥さんと死別しているということは非常に好都合です。これによって、妻にとっての「夫」という立場を離れ、完全にたんなる「父親」というポジションを取ることができるのです。(最近、乾先生もすっかり「いい先生」になり、ドラマでは「父親」としての乾先生が描かれています。逆に嫌味な校長先生の「父親」としての側面はまったく描かれません。)


 クラスだけでなく、地域においても「父親」として共同体をまとめ上げる金八、これがこのドラマのポイントでしょう。


 個人的にはこうした金八の世界観や、ドラマの中で示される教育観には賛成できません。それはあまりに「全人格的な介入」を行っているからです。確かに生徒とコミュニケーションしていく限り、生徒と教員の人格的な関わりということを否定することは出来ませんが、学校というシステムは、あくまで生徒の学力的な観点から評価していくものであって、生徒を「全人格的に捉えている」とは考えるべきではないと思うからです。また、金八の中の「父親万能主義」というのも現実の中では幻想に過ぎないと思うのです。


 「父親」を中心にヒステリックにお互いを理解し合う金八の世界、これもまた、リンチの描く世界とはまったく対照的な意味で「病んでいる」と言えるのではないでしょうか?


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