浅野智彦『自己への物語的接近』について

 今読んでいる小説のウィリアム・ボルマンの『ザ・ライフルズ』は、「ブローティガン的なダメさと優しさ」+「ピンチョン、パワーズ的な想像力」という感じでなかなか良いです。ピンチョンほどうるさくなく、パワーズよりも叙情的な文体もグッド、それにしてもアメリカの小説はレベル高いです。


 今回ここで少しコメントしたいのは浅野智彦『自己への物語的接近』(勁草書房)という本。社会学の自己論について心理学の家族療法における物語論の考えを使って新たなる展開をはかったもので、興味深い内容になっています。


 浅野によれば、今までのミードやゴフマンにみられる社会学の自己論は「自己の自己自身への関係」についての考察が欠けており、それを補うのが「物語論」の視点である。さらにこの「物語論」は最近大きな流れになっている「社会構成主義」に対しても、「対自関係のパラドクス」についてより意識的であり、より深い認識を示している。この家族療法における物語的アプローチは、クライエントの語る自己の物語の中に、その亀裂となっている「ユニークな結果」を見出し、それをテコにクライエントの自己の物語を書き換えるというもので、この「ユニークな結果」とは自己にとって「語り得ない部分」であり、「トラウマ」でもあり、自己を考える上で決定的に重要なものなのである。


 この浅野の議論については、基本的に間違っていないと思うのですが、「物語論的アプローチ」についてはいくつか疑問が残ります。まず、これは精神分析の考え方そのものではないか?というものです。浅野も本の後半で述べていますが「物語論」の考えは、実は精神分析の考えと非常に似ています。特にトラウマは例外的経験ではなく、「言葉を語ること〜がすでにトラウマであるということもできる」とまで議論を進めるなら、これはほとんどラカンの考えと変わらないように感じます。さらにこの本の第五章の最後の「トラウマの忘却とそれによって生み出される自己」というような言葉はまさしくラカン的な言葉だと思います。この本は後半になると、まるでラカン派による「社会構成主義」批判という印象なのです。


 そして、この「物語論」と精神分析の類似性を認めるならば、やはり「物語論」よりも精神分析のほうが優れているのでは?という感じがします。この本で紹介されているものを見る限り、「物語論」は「トラウマの幻想性」ということに対して無頓着だという気がするのです。別冊宝島Real『精神科がおかしい』で斉藤環が述べているように、「現実」と「心的現実」は違うもので、トラウマが事後的な幻想である可能性は十分にあります。しかし、この本の第五章で紹介されているスーザンの例などを見ると、「物語論」はあまりにもトラウマを「現実」のこととして簡単に捉えてしまっている気がするのです。(この本の中ではU・ヌーバーの『<傷つきやすい子ども>という神話 トラウマを越えて』などにも触れてあり、その点をまったく無視しているわけではないのですが、もう少し議論すべきポイントだと思います。)


 どの人間も自己の構成の中心に物語があり、その物語の中の「ユニークな結果=語り得ない部分=トラウマ」がその物語全体を規定している、という考えは、一面で事実なのかもしれませんが、この「物語」の重視にはどうしても違和感が残ります。まず、前にもあげたトラウマがねつ造される危険性、とくにセラピストが物語の中の「ユニークな結果」をつねに探し求めているようでは、クライエントの記憶がねつ造される危険は十分にあります(これについてはI・ハッキング『記憶を書きかえる』を参照)。


 また、そもそも現在の社会状況の中で「物語」がそこまで中心的なものか?という疑問もあります。東浩紀が『動物化されたポストモダン』の中で主張しているように、現在の文化には「物語」から「データベース」へという流れがあります。「データベース」の中から自分が「萌える」ものだけを消費する現代人にとって、自己の「物語」というものも単なる「萌える」要素の羅列である可能性があります。「萌える」トラウマによってねつ造された「物語」というのも十分に考えられるわけです。実際、ブームのようになったアダルト・チルドレンの現象などはこうした要素が強いのではないでしょうか?(浜崎あゆみの人気についても少しそういう面を感じます。)


 この本が問いかける問題は、これだけではなく、さらにラカン的な否定神学アプローチをどう考えるか?ということにつながっていきますが、とりあえず以上の点を指摘しておきます。


自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ
浅野 智彦
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