浅野智彦『「若者」とは誰か』

 帯には「オタク、自分探し、コミュニケーション不全症候群、「個性」の教育、ひきこもり、キャラ、分人主義……どうしてこんなにも「若者」を語りたがるのだろう」とあり、単純に今の若者の変化だけではなく、「なぜ若者論が流行るのか?」という問題まで射程に入れた本です。
 副題は「アイデンティティの30年」。著者が1964年生まれなので、ちょうど自らの「若者時代」から今に至る変化と、そこに向けられた眼差しの変化を追った本と言えるでしょう。


 ただ、「変化」と書きましたが、変化しているようで変化していないのが「若者」であり、「若者論」。

 若者は、個室を装置化し、自分を外界から遮断する。他人を、密室の入口をあけて招き入れることは稀である。むしろ、人間関係は、装置ごとのドッキングの状態である。心理的にも、隔壁を用意した上で関係を取り結ぶ。若者の好むコミューンは、こうした結合の集合体であって、赤裸々な自我の直接的結合の総体ではない。隔壁を介した結合こそが望ましく、それは、<やさしさ>ということなのだ。したがって、ほとんどの人間関係において、密室性が保持される。(14p)

 「ドッキング」や「コミューン」などやや古臭い言葉が使われていますが、そのあたりの言葉を少し直せば今の「若者論」としても十分に通りそうな内容です。実際に、年配のインテリの方に「今の若者についてなにか書いてください」といえば、これに「インターネット」とか「携帯」という言葉を付け加えてこんな文章を書いてくれるのではないでしょうか。
 実は本書に引用されているこの文章は、1975年に出版された中野収平野秀秋『コピー文化の体験』の中の一節。1970年代半ばから、「若者」に対する言説というのは大して変わっていないんですよね。


 そしてこれを受けて著者は次のように書いています。

 「最近の若者は◯×である」と驚いてみせる人々は、要するに過去の若者との「違い」を言い立てているわけだが、少なくとも1975年は観察されていた「◯×」をその後もずっと言い続けているとしたら、それはほんとうに「違い」といえるものだろうか。そのような語りにあっては、「変化した」と言い続けるという(大人の側の)「変化のなさ」こそがむしろ際立つというべきでないか。(15p)

 これはまさにその通りだと思います。「若者問題」とは、多くの場合、それを観察する大人の側の問題であり、若者に大人の不安が投影される図式になっているケースが多いです。
 というわけで、この本もそういった問題を深く取り上げるのかと思ったのですが、第2章以降は80年代から始まったよく知られている「若者の変化」をたどり直すんですよね。
 さすがに大人の側の事情も踏まえた記述になっていますし、教育改革などの大人の側からの働きかけも押さえた流れになって入るのですが、最終的に「多元的自己」というキーワードに行き着く本書の内容は、最初の問題提起から見ると、やや物足りなくも感じます。


 この本でも「コミュニケーションの過少と過剰」という言葉でとり上げられているように、今の「若者論」でポイントになるのは「コミュニケーション」であり、時に「真のコミュニケーションがない」と断罪され、一方で「携帯やメールなどのコミュニケーションに埋もれて創造性がない」などと言われます。
 この矛盾を解消するために著者が持ち出してくるのが「多元的自己」という「自分の使い分け」なのですが、個人的には「コミュニケーションの過少」については以前からずっと、それこそ最初に引用した1975年の文章の時点から言われ続けていることなので、「若者論」のキーワードにはならない気がします。


 実際、「コミュニケーションの過少」についてはこの本で「なるほど」と思わせる分析が引用されています。
 152pでは北田暁大の「人間関係が希薄化しているのはむしろ中高年であってそれが若者世代に投影されている」という議論を紹介していますし、その直前の橋元良明の議論はさらに明快な一つの答えを示していると思います。

 橋元は、若者の人間関係が何時の時代にも「希薄化」と語られるのには構造的な理由があるという。若者の対人関係についてあれこれ論じるのはたいてい大学に籍をおいている研究者であり、彼らの若者イメージは基本的に自分らの周囲にいる大学生であることが多い。ここで注意すべきは、これら大学生と彼らを観察している大学教員との間の年齢差は年々開いていく一方だということだ。このことは、両者の間のコミュニケーションの質にも影響を及ぼさずにはいない。端的にいえば、社会的な距離が広がっていくのである。教員が若い頃には気軽に近づいてきた学生たちも、年齢が離れるにつれて少しずつ遠ざかっていく。それによって感じるさびしさのようなものを若者の上に投影した語り口が「最近の若者は人間関係が希薄だ」というものなのだ。(151ー152p)


 個人的には「コミュニケーションの希薄化」についてはこれで答えが出ていると思うのですが、著者はそれをアイデンティティの問題と絡め、さらに「多元的自己として生きること」という若者の「変化」を描き出します。
 確かにそういう部分もなくはないと思うのですが、それは本質というよりは一種の「症状」のような気もします。この本では多重人格の流行がとり上げられていますが、「多重人格はヒステリーの症状だ」というようなことをジジェクが言っていましたが、「多元的自己」というのもある種の「症状」のようなもので、昔から同じようなことがちょっとだけ姿を変えて現れているだけのような気もします。
 つねに変化が要請される資本主義社会の中で、つねに新しい「何か」が欲望されるためにつねに新しい「何か」が若者の中に見出されてそれが記述されていく。そういうものなのではないかと思います。


 というわけで、結論はやや納得出来ないものもあるのですが、ここ30年近くの若者論を非常にわかりやすく、しかも批判的な視点も失わずに紹介しているので、「若者論」、「若者論の変遷」に興味のある人にとって最初の一冊としていいと思います。また、はじめの方にも書きましたが、教育改革についてこれだけしっかり言及している「若者論」というのもあまりなかったかもしれません。


「若者」とは誰か: アイデンティティの30年 (河出ブックス 61)
浅野 智彦
4309624618