デイヴィドソン死後に刊行された最後の論文集。以下の論文が収録されています。
第1部 真理
第 1論文 真理の復権
第 2論文 真理を定義しようとすることの愚かさ
第 3論文 方法と形而上学
第 4論文 意味・真理・証拠
第 5論文 真理の概念を追って
第 6論文 クワインの真理観とはどのようなものか第2部 言語
第 7論文 墓碑銘のすてきな乱れ
第 8論文 言語の社会的側面
第 9論文 言語を通して見るということ
第10論文 ジェイムズ・ジョイスとハンプティ・ダンプティ
第11論文 第三の男
第12論文 文学的言語の居所を突きとめる第3部 非法則的一元論
第13論文 思考する原因
第14論文 法則と原因第4部 歴史的思考
第15論文 プラトンの哲学者
第16論文 ソクラテスの真理概念
第17論文 弁証と対話
第18論文 ガダマーとプラトンの『ピレボス』
第19論文 アリストテレスの行為
第20論文 感情についてのスピノザの因果説補遺 ローティ、ストラウド、マクダウェル、そしてベレータに応える
この中でなんといっても注目すべきなのは第7論文の「墓碑銘のすてきな乱れ」。
この論文のインパクトについては野矢茂樹『哲学航海日誌』の以下の文章を引用するのがよいでしょう。
デイヴィドソンは当初、「真理条件意味論」というプログラムの提示者としてわれわれの前に登場した。それはある言語に対する体系的意味論を構築する一つの有力な観点を与えるものと思われた。例えば、日本語のもつ体系的構造をこの観点から明らかにしうるのではないかと思わせる力を持っていたのである。私の個人的な感想を述べるならば、この時点では私はあまりデイヴィドソンのこうした議論に関心を抱いていなかった。(中略)
だが、一九八六年の彼の奇妙な題名をもった論文「墓碑銘のすてきな乱れ」("A Nice Derangement of Epitaphs")によってデイヴィドソンの対する私の見方は一八〇度ひっくりかえることになった。ある言語に対する体系的意味論の構築を先陣をきって訴えていたと思われる人物が、その論文において、「哲学者や言語学者が言うような意味では、言語なるものなど存在しない」と結論したのである。しかも、そう結論することにおいてかつての議論を撤回したというわけでもない。真理条件意味論という当初のアイデアが、「言語」の存在をそもそも否定する議論の中に独特の仕方で位置づけられていたのである。(野矢茂樹『哲学航海日誌』(305ー306p)
この奇妙なタイトルの論文で中心的にとり上げられているのはマラプロピズムです。
マラプロピズムとは、18世紀のイギリスの劇作家シェリダンの戯曲『恋がたき』に登場するマラプロップ夫人からきている言葉で、簡単にいえば「言い間違い」のことです。
そして論文のタイトルはマラプロップ夫人が"a nice arrangement of epithets"(「異名をうまく編み出すこと」)を "a nice derangement of epitaphs"(「墓碑銘をうまく乱すこと」)といい間違えたエピソードからとられています。
デイヴィドソンはこの論文をグッドマン・エースというアメリカのラジオライターでありコメディアンでもある人物によるマラプロピズムの洪水とも言えるような文章の引用から始めます。正直、英語力のない自分には十分には理解出来ないものですが、爆笑問題やナイツの漫才などを思い起こせばいいでしょう。
爆笑問題の漫才では、太田がわざとらしくいい間違えて、田中がツッコミます。ここで注目したいのは見ている観客は田中のツッコミを待たずとも大田のボケが理解できている点。太田が人の名前をねじ曲げようと、文法的に変な文を話そうとも、観客は、太田が言わんとしたことがわかっていますし、だからこそあからさまなボケに笑えるのです。
このマラプロピズムを手がかりとしてデイヴィドソンが取り組む問題は以下のようなものです。
私の課題は「ある言語を手にしている」という観念に何が含まれているのかを記述することであり、言語的なコミュニケーションの運用に精通しているという観念に何が含まれているのかを記述することである。(159p)
デイヴィドソンによると、会話を行う話してと聞き手は「事前理論」と「当座理論」という2つの理論を持っています。
聞き手にとって事前理論とは、「話し手の発話を解釈するに先立ち、聞き手自身にどのような準備があるのかを表現するもの」であり、当座理論とは「話し手の発話を実際にどう解釈するかについての理論」です。また、話し手にとっての事前理論とは「解釈者の事前理論であると信じているもの」であり、当座理論とは「それを解釈者が用いることを話し手が意図する理論」です(161p)。
そして、デイヴィドソンは当座理論こそがコミュニケーションの現場で用いられる重要なものだといいます。当座理論の存在こそが「マラプロピズムはなぜ可能なのか?」という問いに答えるものであり、コミュニケーションのキーとなるものなのです。
日常的な語法からのあらゆる逸脱は(承知のうえでの逸脱なのかどうか、承知しているのは双方なのか片方だけなのかにかかわらず)、その場での一致が見られるかぎり、その言葉がその場面で意味するものという特性を、当座理論においてもつことになる。そのような意味は、どれだけ束の間のものであるにしても、字義通りのものである。すなわちそれは私が第一の意味と呼ぶものである、(163p)
このように書くと、当然、ある人の発話が理解できるというのは「その人が正しい文法に従って、正しい意味で単語を使用しているからだ」という反論が来ると思います。
「単語の正しい意味」といったものに関してはマラプロピズムがその妥当性をかなり堀崩していますが、「正しい文法」こそがコミュニケーションのもっとも大事な要だと考える人も多いでしょう。
しかし、これに対してもデイヴィドソンは次のように反論しています。
(文法や文法を受容する規則などの)一般的枠組みや理論は、それがどんなものであれ、解釈に必要な諸要素の鍵にはなりうるが、それだけで必要な要素のすべてを尽くせるわけではない。こうした枠組みや理論は個々の話し手が発した個々の文の解釈を与えないからである(166p)。
そしてコミュニケーションの能力について次のように結論づけます。
われわれはここで、他の誰かを解釈したり他の誰かと話したりする能力がそもそもどのようなものであるのかを、次のように述べてみたいと思う。すなわちその能力とは、他者と言葉のやりとりをするための正しい(つまり収斂していく)当座理論を構築可能にするような能力のことにほかならない(169p)。
この結果登場するのが次のような衝撃的な結論です。
私は以下のように結論する。もし言語というものが、多くの哲学者や言語学者が考えてきたようなものであるとすれば、言語などというものは存在しない。すなわち学習されたり、習得されたり、生得的であったりするようなものは、何もない。われわれは、言語使用者が獲得し個々の事例に適用されるような、明確に規定された構造といった観念を放棄せざるをえない。(170p)
ただ、ここで誤解すべきではないは、デイヴィドソンは何も「日本語」や「英語」「中国語」といった個々の言語が単純に存在しないと言っているわけではないのです。
第8論文の「言語の社会的側面」において、デイヴィドソンはマイケル・ダメットからのそうした批判に対して次のように答えています。
おそらくわれわれは以下のような考え方に影響されているのだろう、すなわち、言語を〜特に大文字で始まる名をもつ「英語(English)」、「クロアチア語(Croat)」、「ラトビア語(Latvian)」、「イヌイット語(Inuit)」、「ガリシア語(Galician)」といった言語を〜ちょうど各人がそのうち一つか2つかそれ以上と契約する電話会社のような、ある種の公共的存在者と見なす考え方である。その考え方によれば、言語は、われわれの感覚器官とは対照的な仕方で、われわれの外部に実際に存在している。だがそのように考えるとき、われわれは、人びとが作り出す音声や記号、およびそれらに伴われる慣習や予期から切り離して言語なるものは存在しない、ということを忘れている。他の人たちと「言語を共有する」とは、結局のところ、その人たちが何を言っているのかを理解し、彼らとほぼ同じ仕方で話すことなのである。そこに付け加えるべき共有の存在者は、私があなたの話に耳を貸すのに必要な「耳」以外、何もない。(208p)
とりあえず、今のところ自分にはデイヴィドソンの議論を紹介するだけで手一杯です。
しかし、この論文の重要さは発表から四半世紀ほどたった今も、そしてこれからもしばらくは失われないでしょう。
さらに、デイヴィドソンのこの過激な考えの背後には、「真理」を基盤とする独特の意味理論とか、「寛容の原理」が控えているわけであって、この論文を読むと改めてデイヴィドソンの哲学の射程の長さというものを感じます。
ウィトゲンシュタインに比べると叙述やスタイルは全く退屈といってもいいデイヴィドソンですが、20世紀後半を代表する、そして哲学の重要テーマである「言語」に関して大きな足跡を記した哲学者であることは間違い無いです。
真理・言語・歴史 (現代哲学への招待Great Works)
ドナルド・デイヴィドソン 柏端 達也
哲学・航海日誌
野矢 茂樹
デイヴィドソンの入門書としては以下の本が読みやすくお手軽です。