蒲島郁夫/境家史郎『政治参加論』

 政治学者で現在は熊本県知事となっている蒲島郁夫の1988年の著作『政治参加』を、蒲島の講座の後任でもある境家史郎が改定したもの。基本的には有権者がどのように政治に参加し、そこにどのような問題があるのかを明らかにした教科書的な本になります。

 このように書くと、本書はあくまでも政治学を学ぶ人向けの本に思えるでしょうが、本書で行われている議論は、教科書的なスタイルからは想像できないほど刺激的なもので非常に面白いです。

 日本は戦後「一億総中流」と呼ばれる社会をつくり上げたものの、近年はそれが崩壊しつつあるというのは多くのひとが感じているところであると思いますが、その要因を「政治参加」という切り口から鮮やかに説明しています。

 1960〜80年代において出現した日本の特殊な「政治参加」の状況が、「一億総中流」社会を生み出しましたが、90年代以降は日本の「政治参加」のあり方が他の国と同じようなものとなったために「一億総中流」社会は消え去ったというのです(先取りして書くと、だからこそ再び格差のない社会をつくることは難しい)。

 

 目次は以下の通り。

序章 政治参加とは何か
第1部 政治参加の理論

第1章 民主主義と政治参加
第2章 社会変動と政治参加
第3章 政治制度と政治参加
第4章 誰が政治に参加するのか
第5章 参加格差のマクロレベル要因
第2部 実証―日本人の政治参加

第6章 日本人の政治参加―比較の視座から
第7章 戦後日本の参加格差構造
第8章 日本型参加格差構造の崩壊
終章 政治参加論の展望

 

  まず、本書では政治参加を「政府の政策決定に影響を与えるべく意図された一般市民の活動」(2p)と定義しています。政治参加は実際の活動であり、一般市民によるものなので政治家やロビイストの活動は含まれません。また、賃上げのためのストライキなども政府の政策決定とは関係がないので、本書の定義では政治参加になりません。

 一方、他人にからはたらきかけによる「動員参加」も政治参加に含んでいます。

 代表的な政治参加として、投票、選挙運動、地域運動(陳情、住民運動などが含まれる)、個別接触(公職者への直接的なはたらきかけ)、抗議活動(デモなど)、オンライン活動の6つがあげられています。

 

 いずれの方法であっても政治参加にはコストがかかります。投票に関してはほぼ時間的コストで済むかもしてません。地域運動や抗議活動には同じ考えを持つ人とのネットワークのようなものが必要かもしれませんし、選挙運動の中の1つである政治献金はお金がかかります。 

 そのため、経済的地位や社会的地位の高い人のほうが政治に参加しやすく、経済的地位や社会的地位の低い人は政治に参加しにくいという状況があります。

 

 民主化の拡大、例えば普通選挙の導入は貧しい人に政治参加の道をひらくので、それが政府の政策に影響し、格差が縮小されると理論的には考えられるのですが、実証的な研究はこの理論に支持を与えていません(54p)。

 その理由として「現実の民主主義国家において、理論が想定するようには各市民の政治的影響力が平等に発揮されていない」(55p)ことがあげられます。いくら選挙権が拡大しても低所得者層が選挙に参加しなければ、経済格差の縮小は進まないのです。逆に民主主義という仕組みのもとで高所得者層のみが熱心に政治参加し、格差を拡大させることも考えられるのです。

 

 しかし、そうした中で民主主義の拡大と格差の縮小を同時に達成したのが戦後の日本です。

 占領期のGHQという重し、農村から都市への人々の移動、農村住民が体制支持的(自民党支持)であったこともなどもあって、日本の民主主義は大きな後退を経験することなく根付いていき、農村の支持に自民党が応える形で格差の縮小も進みました。なお、後半で詳しく検討されていますが、一時期の日本は学歴の低い層ほど投票率が高かったという傾向もあり、これも格差を縮小する政策に大きな後押しをしたと考えられます。

 

 政治参加にはコストがかかりますが、ではその効用は何かというと、これがなかなか難しい問題です。

 現代の選挙では多くの投票者が存在し自分1人の投票で結果がひっくり返ることはまずありません。ダウンズの研究以降、「なぜ投票に行かないのか?」ではなく、「なぜ投票に行くのか?」が解かれるべきパズルとなり、「投票参加のパラドクス」としてしられるようになりました。ダウンズは「投票それ自体の価値」というものを導入して、この問題を解決しようとしています(76p)。

 

 投票率に関しては選挙制度も影響を与えると考えられます。当選者が1人である小選挙区制では選挙をやる前から結果が見えているケースも多いですが、比例代表制では自分の1票が全く無意味になる可能性は低いですし、動員も全国で活発に行われます。このため、比例代表制の方が投票率は上げると考えられ、実証でもそうした傾向が支持されています。

 政党数に関しては、多ければそれだけ自分の考えに近い政党を見つけやすいということがありますが、同時に認知的コストは上昇するので、両者が打ち消し合う可能性があります(実証的にも検出されないことが多い)。

 政党システムの分極性、すなわち政党間のイデオロギー距離に関しては、大きいほど投票を促進すると考えられます。アメリカや日本などではこの考えを支持する実証が得られています。

 

 ヴァーバ(Verba)らによると、政治に参加しない理由は、「できないから」「したくないから」「誘われなかったから」の3つに分けることができるといいます。政治に参加する資源があるか、動機があるか、政治的動員のネットワーク内にいるかがポイントになるわけです(89p)。

 資源に関して、時間、財力といったものももちろんですが、コミュニケーション能力や組織能力など、ヴァーバらが「市民的技能」と呼ぶものも必要になります。例えば、ライティング・スキルが低ければ自らの要求を政治に反映させるハードルは大きく上がることになるでしょう。

 動機に関しては、関心だけでなく、自分の意見が政治に反映されると思える政治的有効性感覚や、政治情報、党派性などがぽいんとになります。

 動員も政治参加には大きな役割を果たすものです。A・ガーバーとD・グリーンの行ったフィールド実験では、戸別訪問、電話、ダイレクトメールの3つの手法が試されましたが、このうち戸別訪問には投票参加を促す大きな効果があるそうです。また、労働組合の組織率と投票率の間に関係があることを示した研究もあります(組織率が低下すれば投票率も低下する(94p)。

 

 個人の属性を見ると、まず男性は女性よりも政治参加の割合が高い傾向があります。これは古い性的な規範の影響とも考えられますが、00年代の先進国でもこの差は消えていません。

 年齢では高い年代の方が参加の割合は高いです。ただし、70代、80代となると健康問題もあって割合は下がります。

 居住地域では、社会の中心に位置し、コミュニケーションの機会が多い都市部の方が政治参加が活発になるという理論もありますが、都市部はコミュニティの弱さなどから動員活動が行われにくく、一概には言えない状況です。

 また、前にも触れたようにSES(教育、所得、職業などによって図られるスコア)が高いほど政治参加に積極的で、低SES層は消極的という傾向が見られます。とりわけ教育と政治参加の関係は強いとされています。しかも、このギャップは拡大しており、投票という平等なはずの仕組みでも、この格差は拡大しています。

 

 ただし、基本的にSESと政治参加が相関しているといっても、集団や組織への帰属によって、それが変わることもあります。低SES層であっても組織化されていれば、政治参加の度合いが高まることがあるのです。例えば、アメリカは基本的に高SES層ほど政治参加の割合が高まる社会ですが、60年代における黒人は集団化された動員過程によって活発な政治参加を見せました。

 基本的に、労働組合やそれに結びついた左翼政党は低SES層を動員する役割を果たしており、労組や左翼政党が強い国では低SES層の政治参加が高まります。一方、アメリカでは労働者の階層的組織化が進まなかったため、ヴァーバらが「「アメリカの政治のおいて社会階層はなんら重要ではないが、同時に甚だ重要」である。そこでは逆説的にも、「社会階級を基盤にした目に見える抗争が存在しないからこそ、社会の持てる者が政治生活で過大な役割を演じる」ことになる」(111p)と述べる状況が出現しています(一方、60年代のオーストリア、オランダなど、宗教政党の影響で高SESで無宗教の層が支持できる政党がなく高SES層の政治参加が抑制されるケースもある(112−113p)。

 

  先進諸国では労組だけではなく団体活動そのものが弱まっていることもあって、集団による動員は高SES層でも薄れつつありますが、やはり影響が大きいのは低SES層です。途上国では買収などによって低SES層が動員されることもありますが、言うまでもなくこうした違法行為は先進国では難しくなっています。

 また、選挙における認知コストも問題になります。例えば、日本の小選挙区比例代表並立制は2票を投じる制度であり、単純に候補者を選ぶような仕組みよりも有権者にとって認知コストがかかると考えられます。そして、このコストの増大による棄権者の増加はやはり低SES層に強く表れます。さらに有効政党数の多さも認知コストを増やすことになりますし、政党間のイデオロギー距離の近さも認知コストを増やす可能性があります。これらは低SES層の政治参加を抑制する可能性があるのです。

 

 第2部(第6章から)は日本の政治参加の実態を見ていきます。

 2018年に行われた「民主主義の分断と選挙制度の役割」調査によると、過去5年間に経験した政治参加として、「選挙で投票した」が86.8%で、2位の「自治会や町内会の活動に参加した」(43.1%)、「献金やカンパをした」(15.1%)、請願書に署名した」(13.2%)となっています(126p表6−1参照)。このうち、「自治会や町内会の活動」は政治参加とは言い難い面もありますし、「献金やカンパ」も慈善団体などへの寄付も含むのでこちらも政治参加とはい言い難いかもしれません。

 ここからわかるのは近年の日本人の政治参加は低調であり、参加したとしても投票に限られるとうことです。

 

 国際的な比較から見ると、投票率は2010年代における下院選挙の平均投票率でOECD36カ国中31位(投票率は55.2%)、それ以外の政治参加についても「請願書に署名した」(34カ国平均20.3%、日本11.7%)、「不買運動(ボイコット)」(34カ国平均19.0%、日本7.4%)、「ネット上での政治的な意見の表明」(34カ国平均7.2%、日本1.3%)と国際的に見ても日本の政治参加は低調です(132p表6−4参照)。

 

 経時的な変化を見ると、投票率は基本的に低下傾向で、特に90年代以降の落ち込みが目立ちます。また、2007年の参院選を除き、亥年参院選投票率が低下する減少が見られますが、これは統一地方選と重なるためだと考えられており、そうだとすると日本の選挙における動員の重要性を示しているとも言えます(134p図6−2、6−3参照)。

 投票以外の参加に関しても、低下傾向にあり、135p図6−4を見ると、「政治や選挙に関係した会合・集会への出席」、「選挙運動の手伝い」、「役所・官僚・政治化との接触」は83〜93年にかけて急落しています。

 デモの経験率も90年代になると1〜2%にまで落ちています。他の先進国では投票率は低下するものの、それ以外のデモなどの政治参加が活発化する傾向も見られえますが、日本では全体的に政治参加が低調です。

 

 政治参加についての個人の属性を見ると、戦後しばらくは男性の投票率が明らかに高かったものの、徐々に男女差は縮まり、69年で逆転し、その後はほぼ変わらない水準です(ただし09年以降は男性の方が若干高い)。ただし、投票に占める割合は戦後すぐは男性が少なかった、その後も女性の方が長生きするなどの要因で、ほぼ一貫して男性の割合が50%を割り込んでいます(141p図6−8参照)。

 年齢に関しては、年齢が上がるほど投票率が高くなる傾向がありますが、健康問題なども出てくる70代後半以降は下がり始めます(142p図6−9参照)。

 居住地域に関しては、日本では農村部が高い傾向が見られます。これは農村のほうが動員の圧力が強い、農村では選挙が一種の「祭り」のように捉えられている、などの説明があります。

 

  教育・所得・職業について見ると、やはり低SES層の投票率は低いのですが、それが顕著なのは若者です。50歳以上では最終学歴が大学・大学院と中学・高校の差は10%ポイントほどですが、18〜49歳では20%ポイントほどに拡大しています(147p表6−6参照)。所得に関しては年金生活者などを除くために60歳以下の男性に限定すると、きれいに所得が高くなるほど投票率が上がる傾向が見られます(148p表6−7参照)。

 投票以外の政治参加に関しても、やはり学歴が高いほど、収入が多いほど参加する傾向が高いです(153p表6−10参照)。

  

 では、歴史的に見るとどうなのか。著者の1人の蒲島は本書の前身となる本で次のように述べています。

 わが国の政治参加のユニークなところは、政治参加における社会経済的バイアスがほとんど存在しないことである。つまり持たざる者も持たざる者もほぼ同等に政治参加の機会を利用している。むしろ教育の次元では、学歴の低い市民が高い市民よりも政治参加のレベルが高いほどである。(157p)

  この一見すると世界の潮流とは逆の事が起こっていた要因としは次の3つの要因があったと言います。

 1つは年齢です。高齢者ほど投票などに熱心に行きますが、戦後の日本では高齢者の学歴が相対的に高く、若年層の学歴が相対的に低い状態が続きました。2つ目は都市に比べて学歴の低い層が多い農村での投票率が高かったことです。そして、3つ目は日本では高学歴ほど政治的有効性感覚が低かったことです。

 

 この蒲島の説は長らく政治参加の通説として受容されてきましたが、近年、少なくとも2000年代以降は高学歴の方が投票率が高くなっているという実証研究が発表されるようになりました。

 160p図−1の「教育程度と投票参加(衆院選)の関係」のグラフを見ると、蒲島の指摘する投票率の低学歴バイアスは1970年頃から90年頃に見られるものであり、それ以外の時期では高学歴の方が投票率は高いのです。

 

 では、なぜ70〜90年頃の日本では一般的な理論で考えられる結果とは逆の事が起きていたのか? その答えは「動員」ということになります。

 まず、地方では農民の動員が進みます。1950年代に高度成長が本格化すると、農村は発展から取り残されるようになり、それに対して農協が政治へのはたらきかけを活発化させます。特に60年代になると米価をめぐる闘争が激しくなり、集会、デモ、陳情などさまざまな手段を通じて米価の値上げを勝ち取っていきます。

 次第に、選挙における動員と利益誘導がセットのような形になっていき、斉藤淳『自民党長期政権の政治経済学』が指摘するような「逆説明責任体制」と呼ばれるものが出来上がります。利益誘導を受けるために、選挙で投票によって貢献を示すようなスタイルが完成したのです。

 全体的に投票率が下落していく中で、60年代から農林漁業者の投票率は反転していくことになります(165p図7−3参照)。

 

 一方、都市部で低SES層を動員したのが創価学会公明党です。創価学会会員の世帯数は60年頃から急速に伸び、それとともに公明党の得票数も伸びていきますが(168p図7−4参照)、その創価学会が社会的に孤立し、政治的資源にも乏しい都市部の低学歴層を動員したと考えられます。

 一方、高学歴層は60年頃まで社会党を中心に支持していましたが、その支持は60年頃から弱まっていきます(171p図7−5参照)。この高学歴層は「政党指示なし層」になっていき、高学歴層の政治的有効性感覚が失われていくのです。

 

 現在の日本は政治参加の学歴バイアスに関しては「普通の国」となっており、細かく分析すれば「中の上」程度だと言えます(180p)。

 では、1970年頃に成立した日本独特の政治参加の構造はなぜ崩壊したのか? これが第8章のテーマになります。

 

 この日本独特の構造が崩壊したのは1989年の参院選だといいます。

 1978年から減反政策が本格化するなど、農業政策が転換が行われていきますが、1985年の時点で農林漁業者の自民党支持率は70%以上になっており、農民は体制支持的な政治参加を行っていました。

 しかし、農村(郡部)においても政治的有効性感覚は低下しており(187p図8−2参照)、その入力に見合った出力が得られていないという不満が89年の参院選で爆発します。農協組合員の票が社会党や棄権に流れ、自民とは過半数割れの敗北となります。そして、この選挙では低学歴バイアスが崩れました。

 その後、「お灸をすえられた」自民党は農家に配慮した政策を打ち出しますが、ウルグアイ・ラウンドにおけるコメの部分的開放、食糧管理法の廃止など、国際的な圧力の中で農業政策は大きな転換を余儀なくされます。同時に農家においても所得に占める農業の割合が減少し、以前のような見返りを求めた政治参加は見られなくなっていきます。

 

 さらに90年代になると日本社会の脱組織化も進みます。労働組合の組織率も低下し、非正規雇用も増加しました。その結果、「動員」されない人々が増えていきます。

 自民党も変化し、2001年にスタートした小泉政権は都市の有権者をターゲットにしたような政策を打ち出して、都市部からの得票に成功しました。

 こうして、1990年代以降の日本は、「農村部住民の動員」「都市部低学歴層の動員」「都市部高学歴層の疎外」という特徴を失って、「普通の国」へとなっていったのです(196p)。

 

 ただし、低学歴層の政治参加の低下の理由はこれだけではありません。冷戦終結とともにイデオロギー対立の構造がなくなり、各政党のイデオロギー距離は接近しました。

 以前の自民党社会党に比べて、自民党民主党(とその後継)の立ち位置は似通っており、有権者が政党間の政策の差異を見分けることは難しくなっています(例えば、遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』参照)。そして、この差異を認識できるのはどちらかといえば高学歴者です。これも低学歴層の投票率が下がる要因となりえます。

 実際、2012年の総選挙では(投票率が戦後最も低く、投票率の高学歴バイアスが強かった選挙でもある)、棄権の理由として19.1%の回答者が「政党の政策や候補者の人物像など、違いがよくわからなかったから」を選んでいます(全体で第3位。203p)。

 

 こうしたことを受けて、終章で描き出されるのは日本の政治と社会に関する深刻な問題です。

 低学歴層の政治参加の度合いが強いという日本独特の構造は、平等な社会を生み出しましたが、現在ではそのバイアスは消滅し、むしろ政治参加が全体的に低調であるということが特徴となりつつあります。

 アメリカは格差の大きな国ですが、その要因として複雑な有権者登録などによって低SES層を排除する政治システムが上げられています(ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』)。低SES層の声が政治に届かなくなっているのです。

 そして、日本もそうなっていく可能性が十分にある、というよりも、もはやそうした状況になっているのかもしれません。建前は「一人一票」であっても、政治には高SES層の声ばかりが反映され、格差の拡大が放置されるのです。

 

 こうした状況は「逆リベラル・モデル」とも呼ばれるものです。以前は、政治参加の拡大が格差の縮小や経済発展をもたらしていましが、90年代以降の日本では、「社会経済的発展の減速→政策的選択肢の減少→政治参加の縮小→社会経済的不平等の拡大→社会経済的発展の減速」という悪循環を繰り返しているのです(211−212p)。

 

 これに対する処方箋は難しいものです。とりあえず考えられるのは義務投票制で、これは間違いなく政治的不平等の是正には有効です。

 さらに著者は、政治改革が「わかりやすさ」ということにまったく注意を払ってこなかったことも指摘しています。一人が2票を持ち、比例復活まで考えながら投票する必要のある現在の小選挙区比例代表制は複雑な選挙制度であり、もはや簡単に説明することが不可能になった参議院選挙制度に関しては言わずもがなです。中選挙区制がいいというわけではありませんが、有権者にとってわかりやすい選挙制度等ものが必要になってくるでしょう。

 

 このように、本書は政治学の中の「政治参加」という分野に関するテキストでありながら、日本社会にとっての大きな問題をクリアーな形で取り出しています。

 政治学を学ぶ上でもはもちろん、格差問題などを考える上でも重要な知見を含んだ本であり、政治学というくくりを越えて広く読まれるべき本だと思います。