手塚洋輔『戦後行政の構造とディレンマ』

 「官僚の行動原理は、つまるところリスク回避にある」―ある行政官僚はこのように述べ、まだ大学院生であった筆者に対し、官僚制の現場について説かれた。(中略)
 筆者には、そこに、巷間いわれるような単なる「無責任な官僚」像とは異なる何かが感じられ、強く心に引っかかった。そしてこのときから、官僚制が避けなければならない「リスク」とは何かを考えるようになったのである。(293p)

 これは「あとがき」のはじめにある文章で、この本を書いた動機が端的の述べられている部分です。
 確かに、冒頭の官僚の発言は、単なる責任逃れにも聞こえ、「事なかれ主義」の官僚の行動を端的に表しているようにも思えます。
 けれども、一方で日本の官僚は数多くの規制などによって企業や国民の活動を縛っているとも言われます。そこで、ちょっと考えてみると、「事なかれ主義」と、この規制の多さというのは矛盾します。官僚による規制がないほうが官僚が責任を問われる場面は少ないように思えるからです。


 この矛盾を解き明かすために著者が用意する分析道具が、「作為過誤」と「不作為過誤」という概念です。
 例えば、医薬品の認可において、認可した薬品が問題を起こせば、それは「作為過誤」になります。つまり、政府が薬品を認可したことによって引き起こされた過ちです。一方、認可せずに有効な治療が行われなかったら、それは「不作為過誤」になります。政府が薬を認可しなかったことにより、助かるはずの患者の命が失われるからです。
 これは児童虐待にも当てはまり、虐待を積極的に摘発して、結果として健全な親子を引き離してしまうのが「作為過誤」、放置して虐待をエスカレートさせてしまうのが「不作為過誤」になります。

 行政国家化の中で新しく行政課題が立ち現われていった過程は、それまで制御できないと考えられてきた事実が、制御・管理できるものへと置き換えられていった過程と軌を一にする。(27p)

 この引用文にあるように、行政は科学や管理能力の進歩とともに、さまざまな問題に介入できるようになり、また同時に介入を要請されるようになります。今までは仕方がないと放置されていたものが、行政の課題として立ち現われてくるのです。
 そして、行政はここで、「作為過誤」と「不作為過誤」の問題に直面します。何らかの介入が可能だとしても、その介入が新たな問題を引き起こす可能性があるからです。


 こうした問題を研究するため、著者は予防接種に注目します。
 予防接種はまさに「作為過誤」と「不作為過誤」がせめぎ合う問題です。予防接種には副作用がつきもので、それは「作為過誤」あたりますし、予防接種をしないで病気が蔓延すれば、それは「不作為過誤」になるからです。
 予防接種にはこのようなジレンマがあるわけですが、GHQによって予防接種が全国的に導入されたときにはそのようなジレンマは意識されていませんでした。
 予防接種は人々の生活を進歩させる福音のようなものであり、副作用などの「作為過誤」は、副作用をきたした人の「特異体質」ということで片付けられていたからです。


 しかし、実際に副作用に苦しむ患者が出始め、それが一定数に達します混みにとり上げられるようになると、今まで無視してきた「作為過誤」の問題が無視しきれなくなります。
 特に予防接種は、その副作用の責任を国が負うのか、それとも注射を行った医師が負うのかという問題もあり、国は急速に責任回避に動かざるを得なくなります。
 今まで強制で罰則もあった接種は、保護者の同意のもとに行われるものになり、1994年の法改正でついに義務接種から勧奨接種へと転換します。「不作為過誤」を避ける態度から、「作為過誤」を避ける態度へと変わったのです。

 過誤回避のディレンマ状況に直面した行政が、「分散化」戦略をとり、自らの責任領域を能力に応じて縮小させる傾向は、おそらく不可逆的な趨勢と思われる。そこに見られるのは、作為過誤と不作為過誤のどちらも回避するように期待されると、行政が自らの役割を限定させて決定と責任を他に委譲しようとする、逆説的な関係である。(291p)

 これはこの本のまとめにおかれた文章ですが、これはまさに現在の官僚の立場を表している言葉でしょう。
 国民やマスコミによって「無謬」を期待される官僚は「作為過誤」と「不作為過誤」のジレンマの中で責任回避に動かざるを得ないのです。


 この本ではこのようなメカニズムを予防接種を例にとって歴史的に記述するだけで、このジレンマの解消方法までは述べていません。
 それはこのジレンマが原理的にほぼ解消不能なものだからです。
 ですから、これからの官僚制を考える上でのヒントはここに書き出したメカニズムの中にではなく、本の中に書かれている細かい具体的な部分にあるのかもしれません。


 4200円と高い本ですし、文体も硬いですが、行政や官僚制を考える上で多くのものを与えてくれる本だと思います。


戦後行政の構造とディレンマ―予防接種行政の変遷
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