野口雅弘『忖度と官僚制の政治学』

 タイトルからすると、ここ最近の安倍政権を批判した本にも思えますが、そこは『官僚制批判の論理と心理』中公新書)で、ウェーバーをはじめトクヴィルアーレントフーコールーマンなどを参照しながら官僚機構の肥大化と官僚批判のメカニズムを論じてみせた著者、もっと広い視野と長いスパンで官僚制を論じています。

 中身は著者がさまざまな雑誌などに発表してきたものと書き下ろしの「政治学エッセイ」からなっており、現在の官僚制の問題だけではなく、「アイヒマンは本当に『悪の陳腐さ』を表す人間だったのか?」など、いろいろな論点を含んでいます。

 ここでそのすべてを紹介する余裕はないので、一番面白く感じた最後の第11章からさかのぼる形で簡単に内容を紹介していこうと思います。

 

 目次は以下の通り。

序章 今日の文脈
第1章 官僚制と文書―バルザックウェーバー・グレーバー
第2章 脱官僚と決定の負荷―政治的ロマン主義をめぐる考察
第3章 「決められない政治」についての考察―カール・シュミット『政治的ロマン主義』への注釈
第4章 カリスマと官僚制―マックス・ウェーバーの政治理論へのイントロダクション
第5章 合理性と悪
第6章 フォン・トロッタの映画『ハンナ・アーレント』―ドイツの文脈
第7章 五〇年後の『エルサレムアイヒマン』―ベッティーナ・シュタングネトとアイヒマン研究の現在
第8章 テクノクラシーと参加の変容
第9章 「なんちゃらファースト」と悪
第10章 官邸主導のテクノクラシー―キルヒハイマーの「キャッチ・オール・パーティ」再論
第11章 忖度の政治学アカウンタビリティの陥穽
終章 中立的なものこそ政治的である

 

  第11章の「忖度の政治学」では、まず「アカウンタビリティ」(「説明責任」などと訳される)という言葉が取り上げられています。

 日本語の「責任」はかなり幅広い意味を持つ言葉ですが、90年代辺りから「レスポンシビリティ」と「アカウンタビリティ」の差異が指摘されるようになり、政治や行政の面で「アカウンタビリティ」が重視されるようになってきました。

 

 この「アカウンタビリティ」と相性が悪いのが個人的な裁量による決定です。そこで、「アカウンタビリティ」が重視されるようになると、「透明な競争」や「専門家による第三者委員会」といったものを通した決定が好まれるようになります。行政はあくまでも競争の場を提供するだけなのです。

 これによって「アカウンタビリティ」は果たされますが、競争を重視するようになれば、政治は「小さな政府」や新自由主義的と親和的になります。行政への市場原理の導入はある意味で説明を容易にするからです。

 ところが、これによって官僚のもつ権力性がなくなるかというとそうではありません。競争のプラットフォームの設定を行うのは官僚であり、そこに裁量が存在するからです。

   

 本来、政治家と官僚のアカウンタビリティは違います。「なるべく恣意性をなくそうとし、党派性を避けて中立を強調することで説明責任を果たそうとする官僚のアカウンタビリティと、どうしても避けられない価値をめぐる抗争を引き受けたうえで、なぜ自分がその党派的な立場を選ぶのかについて釈明しなければならない政治家の責任とは区別されるべき」(241p)です。

 しかし、実際には政治家も官僚的なアカウンタビリティでもって自らの説明責任を果たそうとする傾向が強く、政治的な決断の領域は狭まっています。

 

 著者は森友学園加計学園の問題の背景には、こうした背景があるのではないかといいます。つまり、「「アカウンタビリティ」が、透明性、フェアな競争、専門家・第三者機関により審査など、非政治的・非論争的な「説明」によってなされる傾向が強くなると、どうしても意見が分かれる、論争的なテーマについての政策論争の機会が失われていく」(244p)のです。

 そして、このような論争の機会が失われる代わりに、論争を避け上層部の意向を「忖度」する役人が出世していくのです。

 だからといって国家権力が縮減しているわけではありません。政治性や権力は見えにくくなっているだけです。「説明責任でなされることが「手続き」に集中すれば、当然、その「実質」的な理由は置き去りにされる」(246p)のです。

 現在の日本では「官僚政治のロジックが優越するなかで、個別官庁の官僚の地位は低下している」(248p)というのが著者の見立てです。

 

 こうした、「一見すると非政治的に見えるものの政治性」は、第8章の「テクノクラシーと参加の変容」でもとり上げられています。

 政治には「参加」と「動員」という言葉があります。「参加」にはポジティブなイメージがあり、「動員」にはネガティブなイメージがありますが、現代においてこれがきれいに2つに分けられるのか? というのが著者の問題意識です。

 近年は、「新しい公共」といった言葉とともに市民の社会活動への「参加」が訴えられています。ここでの「参加」は60年代に盛り上がったテクノクラートへの異議申立てといったものではなく、行政との協働といった形で行われます。「横暴な権力は鳴りをひそめ、人びとに寄り添い、あるいはすり寄るような権力が前景に出てきている」(190p)とも言えるのです。

 

 では、やはり「脱官僚」を進めるべきかというと、そうは言えません。

 第2章の「「脱官僚」と決定の負荷」で、著者は民主党政権の失敗を分析していますが、失敗の要因の1つが安易な「脱官僚」です。もちろん、政策決定の場をより開かれたものにするという方向性はありですが、そのためには政治家が「決定の負荷」を担う必要があります。

 ところが、鳩山首相が掲げたものは「友愛」でした。この「脱官僚」と「友愛」の組み合わせについて著者は次のように分析しています。

 「友愛」が「脱官僚」というスローガンと結びつくとき、その問題性はさらに深刻となる。すでに指摘したように、「脱官僚」によって、政治的な決定の空間は広げられる。それにもかかわらず、多様な立場や利害を排除しないという意味での「友愛」を唱えることは、政治的な決断の負荷を自ら高め、そのハードルを上げながら、(排除や優先順位づけをともなう)決断を回避することにならざるをえない。(59p)

 

 このように、この本は近年の政治状況を題材にしつつ、官僚制と政治の関係、あるいは決定の場をいかに設定するかということを考察しています。

 

 あと、もう一つ読みどころとなるのが、第5章〜第7章のアーレントの『イェルサレムアイヒマン』をめぐる考察です。 

 ご存知のように、アーレントアイヒマン裁判を傍聴し、その小役人ぶりから「悪の陳腐さ」という言葉を生み出しました。しかし、実はアイヒマンはそのような人間ではなかったという話もあります。実際、近年の研究によるとアイヒマンは筋金入りの反ユダヤ主義者であり、法廷での姿は死刑を免れるための演技だったというのです。

 こうしたことは断片的に聞いていましたが、今回、この本の特に第7章を読むことによってそのことが確認できました。アーレントの打ち出した「悪の陳腐さ」というテーゼはともかくとして、その代表としてアイヒマンを持ち出すことは不適当なのです。

 このあたりも非常に勉強になりました。