アン・ケース/アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』

 『大脱出』の著者でもあり、2015年にノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンとその妻で医療経済学を専攻するアン・ケースが、アメリカの大卒未満の中年白人男性を襲う「絶望死」の現状を告発し、その問題の原因を探った本。

 この絶望しに関しては、アビジット・V・バナジーエステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』でもとり上げられていますし、大卒未満の中年白人男性の苦境に関しては、例えば、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』でもとり上げられています。学歴によるアメリカ社会の分断に関しては、ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』も警鐘を鳴らしています。

 

 そうした中で、本書の特徴は、絶望死についてより詳細に分析しつつ、対処すべき問題としてアメリカの医療制度の問題を指摘している点です。

 例えば、ピーター・テミンはアメリカ社会の分断に対する処方箋として、公教育の充実、大量投獄から社会福祉へ、インフラの整備、低賃金部門の債務の減免といった手段を幅広くあげていますが、その分、何から手を付けていいのか分かりづらいところもあります。

 それに対して、本書ではピンポイントにアメリカの医療制度を告発している点にインパクトがあり、また、こうした問題をなんとかしたいと考える人びとに指針を与えるものとなっています。

 

 目次は以下の通り。

第I部 序章としての過去
 第1章 嵐の前の静けさ
 第2章 バラバラになる
 第3章 絶望死
第II部 戦場を解剖する
 第4章 高学歴者(と低学歴者)の生と死
 第5章 黒人と白人の死
 第6章 生者の健康
 第7章 悲惨で謎めいた痛み
 第8章 自殺、薬物、アルコール
 第9章 オピオイド
第III部 経済はどう関係してくるのか?
 第10章 迷い道──貧困、所得、大不況
 第11章 職場で広がる距離
 第12章 家庭に広がる格差
第IV部 なぜ資本主義はこれほど多くを見捨てているのか?
 第13章 命をむしばむアメリカ医療
 第14章 資本主義、移民、ロボット、中国
 第15章 企業、消費者、労働者
 第16章 どうすればいいのか?

 

 20世紀は健康状態が大きく改善し、平均寿命も大きく伸びた時代でしたが(これは『大脱出』のテーマ)、21世紀に入ってアメリカの非ヒスパニック白人の中年(45〜54歳)の死亡率の下げ止まりが見られます。他の国は順調に下がっているのにもかかわらずです(33p図2−1参照)。

 依然として、非ヒスパニック白人よりも黒人の死亡率が高いのですが、その差は縮まりつつあります。

 地域的には、カリフォリニアを除く西部、アパラチア、そして南部で白人死亡率が高くなっています(37p図2−2参照)。

 

 この原因となっているのが、本書が「絶望死」と名付けている現象です。

 この絶望師をもたらしているのは、事故または意図不明の中毒(そのほぼすべてが薬物の過剰摂取)、自殺、アルコール性肝疾患と肝硬変になります。さらに他国では低下している心臓病による死ぬリスクが低下しなくなっています(46p図3−1参照)。

 

 では、どんな白人の健康状態が悪化しているのか?

 これは明確な傾向があって、中年の死亡率が上昇しているのは学士号未満、つまり大卒ではない人びとです。一方で学士号以上の人びとの間では死亡率の上昇は見られません(53p図4−1参照)。

 米国において格差が拡大しているという話はよく聞きますが、健康状態にまであからさまに格差ができているというのはやはり驚きです。しかも、この差は1990年にはたいしたものではなかったのに、21世紀になってから急速に拡大しているのです。

 

 もはやアメリカは健康状態から見ても2つの世界に分断されています。

 2019年の意識調査によれば、大学が国に良い影響を与えていると考えるアメリカの成人は半数しかいなかった。共和党 ―以前にもまして低学歴者の政党となっている党だ― の支持者の59%が、むしろマイナスの影響を与えていると答えている。(58p) 

 このように、大学というものが人びとにチャンスを与えるものというよりは、格差を作り出すものとして認識されているのです。

 

 この中年の死亡率の差は女性にも当てはまります。男性ほどではないものの、学士号以上の女性と学士号なしの女性の中年における死亡率の差は拡大しています(1990年にはほぼないと言ってもよかったのに(61p図4−2参照)。

 62pのコーホート(出生年ごとの集団)別のグラフをみると、学士号なしでは1950年生まれの世代あたりからグラフが立ち上がってくるように死亡率が上がっていることがわかります。50年生まれ<60年生まれ<70年生まれ<80年生まれという形で死亡率はきれいに上昇しているのです。

 

 では、白人以外はどうなのか?

 黒人の死亡率は常に白人を上回ってきましが、近年、その差は縮まりつつあります(68p図5−1参照)。しかし、やはり黒人においても2013年頃から大卒未満の死亡率が上昇しています(69p図5−2参照)。この背景にはフェンタニルと呼ばれる合成麻薬の広がりがあります。ただし、自殺率に関しては白人と違って上昇は見られません。

 20世紀後半に都市部の黒人コミュニティで起こったことは、21世紀になって白人に起こったことの前兆だったといいます。1970年代に都市部の製造業が衰退すると、黒人の失業率は上昇し、家庭を支えられる男性が減ったことによって、シングルマザーが増加しました。そして、80年代になるとクラックやコカインが流行したのです。

 当時は父親のいない黒人の家庭環境や勤勉さの喪失が問題だとされましたが、それが間違っていたことは現在の白人の絶望死の増加が証明しています。

 

 近年、アメリカでは多くの人びとが「痛み」を訴えるようになっています。

 この痛みの中心は関節炎などなのですが、アメリカでは中年期の痛みが急激に増え、高齢者よりも中年が痛みを訴える状態になっています(88p)。

 ギャラップ社の調査では、調査の前日に人びとに物理的な痛みを感じたかどうかを尋ねる項目がありますが、これを地図に落とし込むと痛みの訴えが目立つのは、カリフォルニアのベイエリアを除く西海岸、アパラチア、南部、メイン州ミシガン州の北部といった所で(91p図7−1参照)、失業率やトランプに投票した人之割合と相関しています。

 そして、この痛みに関しても、学士号以上ではコーホートによる差がありませんが、学士号未満ではより若くして痛みを訴えるようになっています(94p図7−3参照)。

 この痛みの原因の1つとして肥満があげられますが(足などに負担がかかる)、痛みの増加の1/4ほどを説明すると言われています。

 

 2017年、アメリカでは15万8000人が本書の言う絶望死で亡くなっています。

 まず、自殺ですが、1990年代後半から増え始め、アメリカの自殺率では他の富裕国の中でも一番高い部類となっています。そして、地域別にみると自殺率の高さと痛みの訴えの多さは相関しているといいます。

 1945年生まれのコーホートを見てみると学歴による自殺率の差はほとんど見られませんが、1970年生まれになると学士号未満の自殺率が学士号以上を大きく上回っています(108p図8−1参照)。かつて、学歴の高さは自殺のリスク因子でしたが、現在の白人にはまったくあてはまらなくなっているのです。

 

 アルコール依存に関してもこの傾向はあります。飲酒率は高学歴者のほうが高いのですが、深酒をするのは低学歴者です(113p図8−2参照)。ロシアではソ連崩壊前後にアルコール消費量が伸び、平均余命が低下しましたが、アメリカでも同じようなことが起きているのかもしれません。

 

 そして、痛みを抑えるためのものでありながら、死亡率を押し上げる原因となっていると考えられるのがオピオイドと呼ばれる鎮痛剤です。

 オピオイドモルヒネと似た効果がある合成物、および半合成物ですが、麻薬と同じように中毒症状があり、日常生活を崩壊させる恐れがあります。2016年には1万7087人が処方箋のオピオイドによって死んでいるといいます(120p)。

 2015年にはすべてのアメリカの成人の1/3以上にあたる9800万人がオピオイドの処方されているといいます。しかし、過剰摂取で死んでいるのはやはり学士号未満の者が中心で被害者の2/3が高卒以上の教育を受けていません(121p)。

 

 1996年、12時間かけてゆっくりと放出されるというオキシコンチンという鎮静剤の登場以来、オピオイドの処方が急速に増えました。使用者の多くが再び痛みに悩まされるようになり、さらなら処方を求め、医師もそれに応えたからです。

 2011年頃には軽率な処方が問題視されるようになり、医師も処方を制限しましたが、代わりにヘロインやフェンタニルによる死が広がりました。フェンタニルに関してはアフリカ系アメリカ人の中年の死亡率を押し上げています。

 

 本書ではこのオピオイドの流行を「エピデミック」という病気の流行を表す言葉で表現しています。

 製薬会社が製造・販売し、議員たちは意図的な過剰処方をアメリカ麻薬取締局(DEA)が取り締まれないようにし、DEAは原料となるケシの輸入をそのままにし、食品医薬品局はこうした薬物を承認し、その後に麻薬の密売人がやってきました。こうしてエピデミックは広がったのです。

 例えば、ジョンソン・エンド・ジョンソンタスマニアオピオイドの原料となるケシの栽培を行い、巨額の利益をあげました。

 

 このように書いていくと、不平等や格差がこのエピデミックの原因だと考えたくなりますが、例えば、ニューハンプシャーとユタは所得の不平等がもっとも少ない州ですが、もっとも不平等なニューヨークやカリフォルニアよりも絶望死は多いです。

 また、貧困が原因だとも考えられますが、貧困が主因だとするとアフリカ系アメリカ人が少なくとも2013年まではエピデミックから免れていたことが説明できません。

 リーマンショックの影響も考えられますが、緊縮財政によって福祉などが削減された欧州に比べると、アメリカでは厳しい緊縮財政はとられませんでした。

 

 このエピデミックをもたらしているのはもう少し長期的な影響だと考えられます。

 戦後、1970年代頃までは人びとはエスカレーターに乗っているようなもので、多くの人びとが自然に豊かになっていきました。しかし、70年代以降、学歴が高い人の乗ったエスカレーターは動き続けた一方で、学歴の低い人が乗ったエスカレーターは止まってしまったのです。1979年から2018年までの間、生産性は70%伸びましたが、時間給12%の伸びにとどまっています(165p)。

 非ヒスパニック白人男性の平均所得をコーホート別に見ると、学士号以上を持つ人の所得は1940年生まれ<55年生まれ<70年生まれと順調に伸びていますが、学士号未満では40年生まれ>55年生まれ>70年生まれと逆に低下しています(168p図11−1参照)。しかもその差は年齢を重ねるごとに広がっていきます。

 1979〜2017年の大卒未満の白人男性の平均賃金の伸びは年間マイナス0.2%となっており(169p)、完全に経済発展から取り残されているのです。

 

 しかも、学士号未満の白人の間では賃金だけでなく仕事をしている者の割合も低下しています(174p図11−2参照)。アメリカでは製造業を中心に多くの仕事が失われてしまい、代わりとなる仕事は不安定な臨時雇いのサービス業などが中心でした。これらの仕事はロボットが来るまでのつなぎにすぎないかもしれません。

 Amazonの倉庫などに代表されるように多くの仕事は委託であり、もはや企業との一体感はありません。経済学者のニコラス・ブルームの言葉を借りれば「もう休日のパーティに招かれることもない」(180p)のです。 

 

 こうした雇用状況は家庭にも影響を与えます。学士号未満の結婚している非ヒスパニック白人の割合は現象を続けており(184p図12−1参照)、同時に同棲と未婚の子育てやシングルマザーが増えています。

 以前はアフリカ系アメリカ人に多く見られた、未婚で子育てする割合は大卒資格を持たない白人女性において、1990〜2017年の間に出産総数の20%から40%超へと増えています。

 労働組合の組織率も下がっていますし、毎週教会に通っている割合も大卒未満で落ち込みが目立ちます(194p図12−3参照)。

 低学歴の白人は所得の面で差をつけられているだけでなく、コミュニティそのものから疎外されている状況なのです。 

 

 では、なぜこのような状況に陥ってしまったのでしょう? また、この状況を改善するにはどこから手を付けたらしいのでしょう?

 公教育の充実、累進性を高めた税制、社会保障制度の整備、あるいはロビイストの規制など、いくつか対策が思いつきますが、本書が一番問題視しているのがアメリカの医療制度です。

 アメリカの医療制度は「経済の全身に転移したがんのようなもので、アメリカ人が必要としているものを届ける能力を奪っている」(204p)というのです。

 

 アメリカの医療システムはGDPの18%を吸収しており、2017年の額は国民1人当たり1万739ドルで教育費の約3倍です(208p)。オピオイドの処方などの個別の問題だけではなく、医療が労働者の所得を食いつぶしていることが大きな問題なのです。

 アメリカの医療費は世界一高額ですが、アメリカ人の健康状態は富裕国の中では最低です。つまり、アメリカ人は他の国の人びとよりも余計な出費を強いられていると言えます。

 まず、あげられるのが薬剤や機材の高さで他の国よりも3倍程度高くなっています。医師の給与も高いですが、これは医師団体や連邦議会の要請によって医師の数が低く抑えられ、外国人医師の開業も難しくしているからです(215p)。

 もちろん薬には開発費もかかりますが、アメリカでは多くの金額が費やされながら健康を増進しない薬が流通しています。イギリスでは費用対効果が検証されていますが、アメリカではそのような仕組みがありません。

 病院は合併によって競争を排除して価格を吊り上げており、地域独占病院は競争の激しい地域よりも12%高い料金をとっています(218p)。その一方、2017年、アメリカの病院は広告費に4億5000万ドルを投じたといいます(219p)。

 

 結果、所得の中で医療費以外に使える割合は1960年の95%から現在は82%に減っています(221p)。これが他のものを買う能力を奪い、貯蓄する余裕を奪っています。

 この医療費の高騰は健康保険にも影響を与えています。アメリカでは一律の医療保険がなく、雇用者が保険を提供する方式となっていますが、医療費が増加して健康保険の拠出金が増えれば、企業は雇う人を減らしたり、一部の職種に健康保険をつけなくなります。場合によっては部門ごと外部委託するかもしれません。

 健康保険の家族契約のコストは高給取りにはささいなものですが、平均賃金の半分しか稼げない低賃金労働者では、コストの60%となります(224p)。

 さらに医療費の高騰は、連邦政府と州政府の予算も食いつぶしています。メディケイドが州歳出に占める割合は2008年の20.5%から2018年には推定29.7%まで増えています(225p)。

 医療において、患者は医療提供者と同等の情報を持つことはほぼ不可能で、医療の過剰提供を断ることはほぼできません。だからこそ政府の規制が必要なわけですが、アメリカでは医療業界のロビイストが大きな力を持っており、必要な政府の規制をブロックし続けているのです。

 

 本書では、この医療以外にもいくつかの問題を検討しています。

 まずは移民の問題ですが、確かに短期的には賃金を低下させる圧力になり得るかもしれませんが、長期的にそういった明らかな影響は確認されていないといいます。労働者が増えることが賃金の低下につながるのであれば、女性の社会進出も賃金低下の要因になるはずですが、こちらもはっきりとした影響は確認されていません。

 グローバル化に関しては、確かに中国からの輸入による「チャイナ・ショック」を受けた地域では失業者が増え、死亡率も高まったという研究があります。また、グローバル化によって消滅した仕事と増えた仕事がありますが、成功している都市の生活費の高騰が労働者の移動を難しくしています。

 ただし、中国からの輸入が増えてもドイツやフランスで絶望師が増えているわけではありません。ここにはやはりアメリカのセーフティネットの貧弱さがあります。

 

 さらに近年のアメリカでの独占の進行は、労働市場における買い手独占を生み出しています。先程触れた人びとの移動が難しくなっている問題も、この買い手独占を助長していると考えられます。

 

 最後にいくつかの処方箋があげられています。医療制度の改革、トラストへの対策、最低賃金の引き上げ、ロビイングに関する情報公開、教育改革などです。ただし、あくまでも簡単なスケッチというかたちです。

 ちなみにユニバーサル・ベーシックインカムについては慎重な見方を示しています。

 

 このように本書は読みどころの多い本ですが、最後にディートンが『大脱出』につづき、RCTに対して疑問を呈している一節を紹介しておきます。本書によれば、オピオイドが認可されてしまったのもRCTのやり方、そしてそれに信頼を置きすぎることに問題があったからで(137p)、ディートンはかなり強いRCT懐疑論者と言えそうです。

 

 最後に「なぜ」について私たちがどう考えているかを一言。私たちは原因について、どちらかというと歴史家や社会学者の精神で考えている。経済学者の中には、因果関係を示すには比較実験が必要である、あるいは最低限、そもそも区別できない人たちをグループに分けて、違う形で、特定の出来事にさらす歴史的状況が必要だという考えに賛同するものがいる。こうした手法に利点はあるが、私たちの役にはほとんど立たない。ゆっくり変化する大規模崩壊に、さまざまな偶発力が歴史的にかかわり、その力がお互いに影響しあっているからだ。一部の鼻っ柱の強い社会科学者は、このような状況で学んだことはすべて幻想だと主張する。私たちは、この意見には根本的に反対だ。(270p)

 

 

 

 さらにこのエントリーであげた本の紹介記事のリンクを載せておきます。

 

morningrain.hatenablog.com

 

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